市川昭午編 教育の効果 東信堂 1987

教育社会学とはつくづく難しい研究領域である。sociology of educationという名称から考えると、教育という特殊領域を扱う社会学であり、社会学を教育という特殊な社会現象に適用すればよいということになる。これはタテマエ的には正論である。問題は、教育という特殊領域に適用すべき「社会学」なるものは何かということである。もちろん、この問題は他のあらゆる「××社会学」に共通のものであるかもしれない。しかし、教育社会学においてはこの問題が特に深刻なようである。ほとんど、社会調査の技法を用いたというだけの理由で「教育社会学」と称しているような諸研究を見るにつけ、その感を深くする。
 しかし、このような感じを抱かせる研究がもうひとつある。それは、教育経済学的な諸研究である。おそらく他の研究領域においては、経済学的な研究と社会学的な研究は----都市社会学と都市経済学、労働社会学と労働経済学のように----多かれ少なかれ区別されよう。ところが、少なくとも日本においては、教育経済学は教育社会学の一領域のようにみなされている。しかも、必ずしも多数とは言えないまでも、かなりの数の研究者を引き付け、学問的にも政策的にも重要な地位を占める一領域とみなされているのである。
 その理由にはいくつか考えられる。最大の理由はアプローチの方法によってではなく研究領域と教育機能の質によって区分された学部----教育学部の存在(都市学部、労働学部などというものは存在しない)であろう。教育という社会現象には複数のアプローチが可能であり、さまざまな専門領域の研究者による研究があって当然のはずである。事実、欧米の教育研究のかなりの部分は経済学者、社会学者などによって担われている。ところが、日本では教育の研究は教育学部や教育関係の機関に所属する研究者(「教育学者」もしくは「教育××学者」)にほぼ独占されている。教育の研究は教育学部がほぼ排他的に担い、その中の社会科学的な部分を教育社会学と総称しているのである。これは制度的な理由である。しかし、より学問内在的な理由もあろう。教育社会学は今日に至るまで、固有の理論や方法(これは本誌の題名にもなっているのだが)をもつに至っていない。この欠如を少なくとも部分的に埋め合わせているのが近代経済学の方法であり、教育経済学なのである。本書の編者の市川氏は「教育の社会的評価は……教育経済学の登場をまってはじめて本格化した」「教育社会学等の研究も同様の発想に立っている点では、広い意味での教育投資論と考えられる」(9p)とまで言い切っている。
 本書の執筆者のすべてが教育研究者であるわけではないが、本書をひろい意味での教育社会学の、しかも教育経済学上の業績とみなすことはそれほど的外れではあるまい。もっとも、本書の諸章が教育経済学的な視点で統一されているわけではないし、編者もそれを特に意図したわけではなかろう。具体的に言うと、教育経済学的と言えるのは、教育の社会的効果という問題にたいするアプローチの方法を論じた、第一章「教育の社会的効果」(市川昭午)、どの大学を出たかという、いわゆる学校歴による人材選抜の経済合理性について論じた第三章「学校歴による人材選別の経済効果」(渡辺行郎)、教育の経済的効果の持続性について論じた第四章「教育効果の持続性」(塚原修一)、就業前の学校教育に対する企業内訓練の意義とその現状について論じた第六章「企業内教育・訓練の行方」(梅谷俊一郎)であり、最大限広く考えても、企業の視点から日本の高等教育について論じた第五章「企業側からみた高等教育」(大江淳良)、女性の教育を、その経済的効果を踏まえたうえでより広い視点からとらえようとした第八章「女性の教育効果」(矢野真和)が加わるにすぎない。これらの諸章は、一種のプロムナードと言うべき第五章を除けば、いずれも経済学的な立場からの教育の効果分析の重要な視点や知見を----データその他の制約から来る完成度の違いはあっても----示しており、網羅的にではないにしても、日本の教育経済学の現在の水準を概観させてくれる。しかし、問題は他の諸章との関係である。
 上に挙げた以外の諸章は、テーマもアプローチの仕方もまさにさまざまである。読者はそれぞれの章から興味深い事実や、個々の研究領域についての知識を得ることができよう。しかし、全体を通読して残る印象は、教育の社会的効果というテーマに対して、比較的整備されてはいるが限定されたアプローチをとる教育経済学的な視点と、その他さまざまな視点とが併存しているというものであろう。両者の統合は未だなされていない。第二章「教育効果のとらえ方」で、新堀氏は教育経済学的な視点を内に含むより広い社会学的な視点を設定しようと試みているが、その結果明らかになったのは、教育という概念も効果という概念もあいまいであり、また、効果を測定したり評価したりする基準も確立していないために問題の大部分が未解決だということだったのである(38p) 。
 このような困難に陥る原因は、社会的効果と言うときの「社会」の概念の未確立にあると思われる。本書の方法的序論の部分を構成する第一章、第二章で市川氏、新堀氏は「教育」「効果」「社会的効果」「外部効果」「機能」といった諸概念の検討を行っているのだが、「社会」そのものについては何の検討も行っていない。むしろ、「社会」は「教育システム以外」として漠然ととらえられているに過ぎないように思われる。しかし、「社会的効果」について論じるならば、当然、対象としている社会の構造や過程についての諸概念から効果分析の概念を導出することが必要ではないのか。これを怠った結果、近代経済学的な概念で教育の効果を論ずる諸章、「社会化」、「社会的地位」といった個別の社会学的概念で教育の効果を記述する諸章、そして、さまざまな日常言語で学歴による差異、教育政策の展開などを論ずる諸章が併存することになったのである。もちろん、これは容易な作業ではない。だが、現に欧米ではマルクス主義やネオ・ウェーバー主義の立場から先進社会の構造を定式化し、その上で教育の経済的効果と非経済的効果を統一的に把握しようとする試みが存在する。しかも、その中にはボールズやカーノイのような教育経済学出身の研究者も少なくない。本書の著者たちにこのような大胆な理論構成を求めるのは筋違いかもしれない。また、それは本書の意図からはずれることにもなるかもしれない。しかし、日本における教育の社会科学的研究にもっとも欠けているのがこうした大胆な理論構成であることも事実なのだ。
 編者の意図はよくわかる。おそらくそれは、過去の教育経済学が対象としえなかった非金銭的効果、外部効果、衡平化効果を射程におさめ、これらに実証的検討を加えようということであろう。これらの効果のなかには、従来もっぱら社会学的な対象とみなされていたものが含まれている。その意味で本書は、少なくとも編者の意図においては、教育研究における経済学帝国主義を志向したものと言えるかもしれない。しかし、これらの諸効果を子細に検討すればするほど、費用と効果の比較というそもそもの教育経済学的発想から離れて行かざるを得ない。たとえば、教育によるライフ・スタイルの変化(第七章「学歴と社会行動」(岩木秀夫))、男女平等の達成(第八章)などと教育への投入をどうやって比較しうるのだろう。さらに、編者の市川氏が教育の効果への関心の高まりの原因として挙げている「青少年非行や校内暴力、学生の反乱や大学のレジャーランド化」(ii)といった現象(これも広い意味では教育の「効果」だろう)にどうアプローチすればよいのであろう。すでに経済学的な費用−効果分析は教育の効果分析の理論的基盤としては狭すぎるものになってしまっているのではないか。そして、本書の各章のアプローチの多様性はそのことを示しているのではないか。
 本書のいくつかの章が、今日の日本における教育の社会科学的な研究の最良の部分を示していることは疑いを容れない。そうであるがゆえに一層、アプローチの未確立であることを感じさせられる。ともかく、いろいろな意味で今日の日本の教育社会学を代表する書物である。

(『理論と方法』第2号 1987年)

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