田原音和著 科学的知の社会学 藤原書店 1993

 大学院生の頃、私はほぼ毎年のように、教育社会学会の理論部会で発表をしていた。今でもしばしば見かけるが、私のような大学院生の理論研究に関する発表に対して、年輩の研究者たちはよくこんな質問をした。
 「その理論をどうやって実証するのですか。」
 「その理論は外国で作られたものだが、日本に当てはまるのですか。」
 この種の質問は、発表のテーマになっている理論についての予備知識がなくても、極端な場合には発表を理解していなくても発することができて、それなりに質問になっているような気がする。しかし研究の内容そのものとは関係のない、外在的な質問になりやすい。あえて言えば年輩研究者が、生意気な大学院生に対して自分の体面を保つために発する権力的な言説であることが多い。
 しかし理論部会に出席している年輩の研究者で、いつも若手研究者たちの発表をすみずみまで理解し、内在的で生産的な質問を発せられる方が一人いた。田原音和氏である。氏は司会者としても卓抜だった。議論のポイントを的確に押さえ、部会をまとめ上げる。曖昧な発言や知ったかぶり的発言に対しては、相手が著名な研究者であってもやんわりたしなめたり、適切に言葉を挟んでまとめさせたりした。氏の突然の訃報に接したとき、私はかけがえのない先達を失った悲しみとともに、教育社会学における理論研究の行く末に少なからぬ不安を感じずにはいられなかった。その気持ちは、今も変わらない。
 本書は田原氏の遺稿集、大きな置き土産である。
 全体は五つの部分からなる。収められているのは七本の論文と六本のエッセイ、東北大学での最終講義を含む二つの講演録、そして略年譜と著作目録。氏のライフワークとも言うべき社会学的認識論に関する業績は最初の三つの部分に、その論理展開に沿った順序で収められている。
 社会学的認識論とは、「社会学者の認識そのものを問う理論」「社会学的『知』の生産を規制している諸基準を明らかにすることによって、研究者の方法的態度そのものを批判的に認識する作業」、すなわち「メタ社会学」である(P.15)。社会学というものが他の諸科学から区別された領域として成立するのも、独自の諸理論を産出することができるのも、すべてはこうした認識論的基盤によることである。
 著者は、デュルケーム、レヴィ=ストロース、ブルデューという、社会学と人類学の二領域にまたがって活躍した三人のフランス人の認識論的作業を跡づけることを通じて、現代社会学の認識論的課題を浮き彫りにしていく。
 社会学の認識論的基盤はデュルケームによってひとまず確立されるのだが、そこに抜きがたい進化主義(歴史主義)と西欧的理性信仰を見いだしたのは、レヴィ=ストロースであった。彼はこの認識論的な偏向を、未開社会と西欧に共通の、無意識界の不可視の構造を探求するという構造主義の方法によって克服しようとしたのだが、ここにブルデューは、やはりある種の認識論的障害を発見するのである。行為者を構造の単なる付随現象とみなす傾向、ひいては研究者がその対象との間に「尊大で距離をおいた関係」(ブルデュー『構造と実践』)を打ち立てようとする傾向、総じて行為者の実践というものを科学的認識の中に位置づけることを妨げる認識論的障害を。言うまでもなくブルデューは、この問題を「ハビトゥス」概念の導入によって解決しようとすることになる。
 このように書くと、本書が学説史と基礎理論に関心のある一部の読者にのみ向けられた著作であるかのように受け取られるかもしれない。しかし、そうではない。
 たとえば著者は、歴史的因果分析と機能分析を厳密に区別しようとしたデュルケームの立場が、後の没歴史的な機能分析の盛行につながったと指摘する。他方ではレヴィ=ストロースのデュルケーム批判から、起源と機能の混同、すなわち歴史的因果分析と論理的因果分析の混同という問題を摘出する。さらには遅れてきた学問としての社会学の位置からくる方法的不安感が、必要以上の完璧さを要求したり、経験的事実の検証に没頭する傾向を生み出したこと、こうしてウェーバーの「価値自由」論も、本来の認識論的意味を離れて操作技術本位の実証主義信仰へと結びつけられたことなどを明らかにする。学説史的検討の中から現代の社会学、とりわけ教育社会学にとって重要な問題の数々が摘出されてくるのである。
 氏の見解に、全く疑問がないわけではない。たとえばブルデューの業績は、構造主義からの認識論的切断をもたらしたというより、構造主義の達成した認識論的地平の上での方法論的革新とみるべきではないか、など。でも、そんなことはどうでもいい。より重要なのは次の点である。日本の教育社会学の現状、たとえばブルデューの業績も「『文化資本』概念によって階層研究に新たな仮説を提起した」といったレベルで、在庫目録の一項目へと押し込められてしまいがちな現状では、著者が半生を賭けた社会学的認識論と教育社会学とを隔てる距離は、なお遠い。その意味では著者が、日本の教育社会学の現状について具体的な批判や提言を避けてきたように思われることが悔やまれるのだ。
 収録された最終講義の元々のテーマは、「教育社会学の社会学」だったそうである。しかし著者は、長年勤めた東北大学を去るにあたっての感慨に身をまかせたのか、自身の研究についての回想に多くの時間を費やし、ついに核心については触れられなかったようだ。実に残念である。こんなことを書くと、「いや橋本さん、それはあなたがおやりなさい」という声が聞こえてくるような気がするのだが。
 最後になるが、秋永雄一、佐藤直由、坂根治美、水島和則の四氏による周到な編集にも拍手を送りたい。この種の論文集にありがちな寄せ集め的印象は弱く、エレガントな学術書に仕上がっている。

(『教育社会学研究』第57集 1995年)

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