都市論としてのエッセー 吉本隆明著「背景の記憶」他

 
 知られた著者の短い文章を集めた書物はよくあるが、内容も文章の質もばらばらで、出版社の営業政策が優先した本作りになっている場合が少なくない。著者の問題意識の一貫性と、編集者の力量とが問われるところである。
 吉本隆明著「背景の記憶」(宝島社・一七〇〇円)は、こうした書物の中では最良のものに属すると言ってよい。著者がこの三十数年間に書いてきた自伝的なエッセイを七十編ほど集めたものなのだが、その完成度は高く、あとがきで著者自身も驚きを表明している。これは吉本隆明の著書であるだけでなく、編集者の小川哲生の作品でもある。
 テーマは少年時代の記憶から、老いを感じはじめた近況まで。間に戦争や安保闘争をはさみ、著者のこれまでの全生涯をカバーする。当然、この著者に対する関心の持ち方によって異なる読み方がされるだろうが、私自身は一種の都市論、東京論として読んだ。
 少年時代を過ごした東京・佃島についての記述を読むと、この著者の原点のひとつが、下町の古い共同体、そして共に育った少年たちとの離別の体験であったことがわかる。秀才であった著者は、ひとり少年たちから離れ、進学のために塾へ通うようになる。著者と少年たちの人生はその後、交差することがない。
 著者は今も、古い共同体的性格を色濃く残した下町に住み続ける。「幼年のころのじぶんの姿と遊ぶのにふさわしい環境を択んでいる」のだ。しかし時代の波は、古い東京の面影を次々に洗い流していく。変わりゆく下町について書かれたいくつかの文章は、失われる過去への哀惜を隠さない。
 佐々木幹郎著「都市の誘惑」(TBSブリタニカ・二五〇〇円)は、東京と大阪の比較文化論。これまでの「都市論」には東京中心の偏りがあったという著者は、佃島と大阪・佃、隅田川と淀川などを対比しながら、二つの都市の特質、ともに変化しながらも失われない異質性を浮き彫りにしていく。

(1994.1月配信)

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