死の床の、武満徹の頭の中には、我々にはとうてい測り知ることのできぬような音が流れていたに違いない。
彼はありとあらゆる種類の音楽を書いた。最新の手法を次々に取り入れた。番組や映画のための作品では、ジャズやシャンソン、民族音楽のようなものまで書いた。すべての音楽の伝統と革新が、彼の中に流れ込んでいった。
しかし、彼の中心的な作品群である管弦楽曲と室内楽、特に晩年の作品では、これら様々な要素が完全に彼独自の世界へと昇華され、影も形も現わさない。
武満のことを日本的な作曲家だと言う人をしばしば見かける。私は違うと思う。彼自身、このように見られることをひどく嫌っていた。そもそも彼の音楽の本質は、様々な音色と音程が織りなすテクスチュアの美にあった。それは個々の楽器や音符の出自とは無関係なものだった。その意味で彼こそ、真のコスモポリタンだった。
武満徹と同時代の日本に生きているということが、私の密かな誇りだった。同時代人として恥じない仕事がしたいと思っていた。それが果たせぬうちに、彼は逝った。
幸いなことに彼は、現代の作曲家としては多くの作品を残してくれた。これほどまでに美しい音を織り上げることのできる人が、果たしてこれから現れるだろうか。
武満にはかなりの数の著作があるが、ここでは「歌の翼、言葉の杖」(TBSブリタニカ・一八〇〇円)と、「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社・三五〇〇円)を挙げておきたい。前者は現代音楽の巨匠たち十一人との対談を収めたもので、彼がまぎれもなく世界の現代音楽の中心であったことを実感させる。後者は若き日の彼の、創造へのマニフェストともいうべきエッセイ集である。
遠山一行著「『辺境』の音」(音楽之友社・一五〇〇円)は、まるで彼の死に合わせたかのように出版された新刊で、武満の自己形成過程についての長文の評論を収めている。
(1996.3月配信)