今や「護憲派」は、「旧守派」と呼ばれて軽蔑されかねない時代である。直接のきっかけは「国際貢献」問題だが、憲法に環境権や地方分権を盛り込めといった新手の改憲論も現れた。国会の状態からみて簡単に日程に上るとは思えないが、改憲への抵抗が薄らいでいるのは間違いない。
井上ひさし・樋口陽一著「『日本国憲法』を読み直す」(講談社・一六〇〇円)は、いまや数少なくなった護憲派論客の、五回にわたる対談が中心。樋口がボールを投げ、井上が柔らかく確実に受けとめる。名コンビである。
憲法は英語でコンスチチューションと言う。樋口によればこれは、その国の本質、社会の基本構造そのものを表す言葉である。つまり憲法があって、その上で国ができ、人々の生活が成立する。憲法の本来の意味はここにある。
しかし日本国憲法は、常に政争の具として扱われてきた。場当たり的な改憲論。憲法を盾に政府を困らせることに終始する護憲政党。こうして憲法は、国民生活に定着せずに現在に至った。
しかし今日、PKOや戦争責任、外国人労働者、企業の人員整理など、日本国憲法の意味が問われる事件が相次いでいる。基本的人権という原理を掲げた憲法を、どう生かしていくかが問われている、と二人はそろって指摘する。
護憲派はいま、平和主義に人権尊重という当然の主張とともに、「憲法を変えるな」という保守的なスタイルをも引き受けざるを得ないというジレンマに立たされている。未だ達成されない共通の理想として憲法をとらえ返す視点は、共感を呼ぶだろう。
一方、石川好著「大議論」(朝日新聞社・一五〇〇円)は、憲法が定着していないという認識では一致するが、結論は大違い、憲法廃止論である。著者は、そもそも「憲法」とは米国文明の発明品にすぎず、いま世界中が憲法の行き詰まりに直面している、という。この変化球に、護憲派はどう答えるだろうか。
(1994.1月配信)