学生時代にいちばんよく聞いたのは、モーツァルトである。交響曲の40番、ピアノ協奏曲の20番、24番など、短調の曲がまず好きになり、そこから範囲を広げていった。経済力の問題もあって、さすがにモーツァルト大全集は買わなかったが、それでもかなりの曲・演奏を集めた。とくにピアノ協奏曲のいくつかについては、手あたり次第に買い集めて聞き比べをした。
モーツァルトのピアノ協奏曲で一般によく聞かれるのは20番以降だが、そのなかでもとくに演奏の機会が多いのは、20,21,24,26番といったあたりだろう。逆にもっとも知られていないのは、22番である。しかし私は、この曲にはまった。最初に聞いたのは、アルフレート・ブレンデルがネヴィル・マリナーと組んだ録音である。ブレンデルは、モーツァルトが子どもの頃に他人の曲を編曲した1-4番を除き、モーツァルトの協奏曲をすべてマリナーと録音しているが、この演奏はその中でも最高の出来のものの一つである。この演奏は、まったく何度聞いたかわからない。
この22番についていろいろな演奏を集め始めると、当然、ジョージ・セルがロベール・カサドシュと組んだ演奏に行き着く。ところが最初は、この演奏があまり気に入らなかった。たしかによく言われるとおり、管弦楽のアンサンブルはしっかりしているし、ピアノの音は粒が揃っている。しかし管弦楽の音の艶やかさ、ピアノの音色の多様性という点で、ブレンデル/マリナー盤の方が上だと感じたのである。この演奏はブレンデル/マリナーのシリーズの中でも最高のものの一つだから、こう感じるだけの理由はあったのだが、後から考えると、もう一つの理由に思い当たる。
それは、私のオーケストラ音楽鑑賞歴が、ベルリン・フィルのレコードから始まっていることである。「クラシックとの出会い」で書いたが、それはルドルフ・ケンペ指揮の「新世界」と、アンドレ・クリュイタンス指揮の「合唱」だった。これらはいずれも、芸術的な独創性を持つ演奏というわけでも、アンサンブルの完璧を求めたという演奏でもなく、ベルリン・フィルの艶やかな音色をそつなく利用して、そこそこの演奏をしたという性格のものだ。EMI特有の艶やかな録音が、これに輪をかけていた。ブレンデル/マリナー盤は、こうした原体験を持つ私の耳には心地よかった。これに比べるとセル/カサドシュ盤は、いかにも響きが堅いように思われたのである。
セル/カサドシュに対する評価が変わったのは、15番の演奏を聴いてからである。まず、冒頭部分の弦と管の絶妙のやりとりに、驚嘆した。まったく、完璧だった。耳を澄まして何度聞いてみても、リズムとアンサンブルには寸分の狂いもない。その完璧さは、ハイフェッツのバイオリンにもたとえられようか。しかしハイフェッツとは違って、こちらは100人もの人間からなるオーケストラなのである。第3楽章の最後に至るまで展開される管弦楽の妙技に、私はすっかり魅了された。そしてこの完璧な管弦楽に、ややモノトーンなカサドシュのピアノがよく似合う。そこから立ち現れるのは、それまで聞いたことのないような、愉悦に満ちたモーツァルトの世界だった。こうしてセル/カサドシュのモーツァルトは、私のスタンダードになった。この過程で、私のオーケストラ演奏に対する評価基準が、大きく変わっていく。オーケストラ音楽の魅力は、うわべの音の美しさではなくハーモニーに、交響する楽器の総体としての美にこそあるのだということを、理解するようになったのである。
こうしてモーツァルト以外にもいろいろとセルのレコードを買うようになったのだが、なかでもよく聞いたのは、チャイコフスキーの交響曲第5番である。第1楽章の完璧に疾走するアンサンブル、第2楽章の美しくも颯爽とした第2主題、中だるみになりそうな第3楽章での集中力の持続、そして近代オーケストラ音楽のすべてが凝縮されたといっても過言ではない第4楽章。本当の話、当時の私はこの曲を最初から最後まで、セルの演奏とほぼ同じテンポで口ずさむことができた。これほどまでに集中して一つの演奏を聞き込んだのは、これが最後ではなかっただろうか。
これに対して、セルの得意曲として一般に評価の高いベートーベン、ブラームス演奏の良さに気づくまでには、もうしばらくの時間を要した。これについてはまた、別の機会に書きたいと思う。(2000.3.29)
セル/カサドシュのモーツァルトピアノ協奏曲集。21,22,23,24,26,27番の他、オーマンディーの指揮による10番を収めている。
(SONY SM3K46519)
チャイコフスキーの交響曲第5番。録音は、1959年。私の生まれた年である。
(SONY SRCR9867)