クラシック音楽との出会い
 私がクラシック音楽を聴き始めたのは、小学校の高学年の頃だった。誕生日のお祝いか何かで粗末なステレオを買ってもらったのだが、このとき同時に買ってもらった1枚の18センチLPが、最初に手にしたクラシックのレコードだった。マイケル・レビンの「ツィゴイネルワイゼン」。B面には、サン=サーンスの「序曲とロンド・カプリチオーソ」。当時の私には知る由もなかったが、この夭折した天才バイオリニストの、代表的な演奏だった。

 このとき買ってもらったステレオは、たしか1万円ほどだったろう。ボディは安っぽいプラスチックで、スピーカー一体型。後に新しいステレオを買ったときに分解してみたら、内部はほとんどがらんどうで、数えるほどのトランジスター、コンデンサーと抵抗類、それに真空管が2本しかないという代物だった。音の悪さは、推して知るべしである。しかし、マイケル・レビンのこのレコードはよく聞いた。当時の小学生に、レコードなどそうそう買えるものではない。毎日のように繰り返し聞いたこの演奏は、今でも私のバイオリン音楽鑑賞の原点だ。

 私が育ったのは、能登半島のいちばん先端に位置する小さな市である。町の電気屋にはレコードが少しばかり置いてあった。クラシックのものはごくわずかしかなかったが、それでもセラフィムの廉価盤と、ソニーのベスト100シリーズが何枚かあった。カタログも置いてあった。中学生になった私は、とりあえずこの二つのシリーズから1枚1枚注文して手に入れるようになった。

 最初に買ったのは、ルドルフ・ケンペ指揮の「新世界」、アンドレ・クリュイタンス指揮の「合唱」。どちらもセラフィムの廉価盤、管弦楽はいずれもベルリン・フィルである。名演奏というほどのものではない。しかしベルリン・フィルをそつなくコントロールした演奏で、管弦楽に耳を慣らすには良かったかもしれない。

 ソニーのシリーズでは、ブルーノ・ワルターのモーツァルト「40番/ジュピター」と、ピンカス・ズッカーマンの「四季」を買った。ソニーのカタログは、毎日穴があくほど眺めていた。だからジョージ・セルという指揮者の名前も、また彼が1970年に来日して名演奏を披露し、その直後に惜しまれつつ亡くなったということも、このころ知った。しかし当時の私に、廉価版ではないレコードをあれこれと買う余裕はなかった。ソニーのカタログで、セルがワルター、バーンスタインから一段階落ちる扱いを受けていたこともあって、積極的に買おうという気にはならなかった。セルに親しむようになるのは、大学生になってからのことになる。

 中学2年生も後半になると、受験勉強を意識しなくてはならなくなった。陸上部の選手だった私は、毎日へとへとになって帰る毎日で、その後に勉強をする気にはならなかった。そこで勉強は、主に朝早くにすることにした。午前4時頃、目覚ましの音で目を覚ます。すぐにラジカセのスイッチを入れる。はじめ聞こえるのは、ソ連や中国の怪しげなプロパガンダ放送くらいのものだが----日本海に突き出た能登半島からは、ソ連・北朝鮮・中国などの放送が良く聞こえた----6時にはFMが始まる。こうして皆川達夫解説の「バロック音楽の楽しみ」を聞きながら、受験問題集を解くのが私の日課になった。私がクラシック音楽に親しむ時間は、格段に長くなった。

 私がクラシック音楽を聴くようになった背景に、ある種の偏見があったことは否定できないと思う。それは、ポピュラー音楽=不真面目、クラシック音楽=真面目という偏見である。両親は私を優等生に仕立て上げようとしていたし、私自身、優等生であろうとする部分があった。だから音楽を聴くならばクラシックというのは比較的自然なことだったし、両親もクラシック音楽のレコードならば時々買ってくれた。

 しかし能登のような田舎、同級生の大部分の家が農業、漁業、自営業であるような土地で、中学生の頃からクラシック音楽を聴いているということが、私と同級生たちの間にある種の障壁を作ったことは否めないと思う。私がクラシックが好きだというと、同級生たちは「さっすが、まっじめーっ」とからかうのがしばしばだった。いくつかの調査結果から見ても、クラシック音楽の愛好家は明らかに、経済的に恵まれた高学歴の人々に多い。その意味でクラシック音楽は、私を同級生たち=「普通の子どもたち」から引き剥がす文化的なメカニズムの一つになっていたと思う。今でも私は、人から趣味を聞かれてクラシック音楽鑑賞だと答えるとき、かすかに居心地の悪さを感じる。それは、こうした経験のせいだろう。

 クラシック音楽=西洋古典音楽のこのような機能は、現在でも生きている。母親たちは子どもにクラシック音楽を聴かせ、ピアノを習わせる。若い男性たちは、ふだん聞いているわけでもないのに、女性をクラシックのコンサートに誘ったりする。リビングルームのインテリアには、やはりクラシックがふさわしい。ちょっとしたスピーチの際に、仕入れたばかりのクラシック音楽家の名前を折り込んだりする人も、しばしば見かける。つまりクラシック音楽は、その人が身につけている文化的資質の証となりうるものだと考えられていて、それゆえに自分を飾り立て、人から優位に立つための道具として使われるのである。クラシック音楽の愛好家は、こうしたクラシック音楽の機能について、常に反省を怠ってはならないと思う。(2000.3.26)

マイケル・レビンのバイオリン名曲集。ツィゴイネルワイゼンの他、ウィーン奇想曲、ホラ・スタッカート、タイスの瞑想曲、序曲とロンド・カプリチオーソなどを収める。管弦楽はスラットキン指揮のハリウッド・ボウル管。