神秘学序説
高橋巌 著

私にとって『神秘学序説』は特別な本だ。
もし若い頃この本に出会っていなければ、神秘学を一部の好事家や変人の玩具としか見ず、
まじめにとりあおうとしなかったかもしれない。
そうだとすると、私の人生もずいぶん変わっていただろう。

巷にあふれる凡百のオカルト本から本書を峻別しているのは神秘学というものを
秘儀を認識の問題としてあつかう学と考える著者のラディカルな問題意識と真摯な姿勢である。
そこにはうろんな託宣をあたかも自明の真理として読者に強要する
といったたぐいの破廉恥なナイーブさは微塵も見られない。
本書の意図はひとえに日常的現実の背後にある「もうひとつの現実」を
認識すべき神秘学が現代人の生き方にどのような意義をもっているかを明らかにすることにある。

本書では一貫して「人性三分説(トリコトミー)」の重要性が強調されている。

「人間を考察する場合、―それは勿論世界考察にもそのままあてはまるが
―、肉体、心(魂)、精神(霊)の三分説をとるか、肉体と心(魂)の二分説をとるか、
或いは肉体一元論の立場に立つかは、われわれが自分の思想を獲得する
行為の原点ともいうべき基本的な態度決定の問題であり、
その重要性はいくら強調しても、しすぎることはない」

古来、秘儀内容の漏洩は死をもって贖うべき重大な犯罪行為だったという。
それはゲーテやシラーが活躍した時代になっても本質的には変わりなかった。
それが19世紀後半に、まだ一般に公開すべき時期ではないという声のなか、
神秘学が登場してきた背景には当時急速に台頭してきた
唯物論的人間観にたいする深刻な危機感と対抗意識があった。
もともと古代インドからグノーシス主義にいたる古代神秘学では、
人間を肉体と魂(心)と霊(精神)の三要素からなる
統一体とみる人性三分説の立場がとられていた。
それが中世以降、魂の救済企業たる教会が不当にも個人の内から霊性を奪い去り
教会制度の中に封印独占したため、個人が救済されるためには
教会のサクラメントをとおして神の恩寵の導きにあずからねばならなくなった。
そのうえさらに近代科学が提唱する世界観によって魂までが肉体の一作用へと還元され、
その実在性を否定されかねないほどになった。
このような時代に近代神秘学は正当にも物質世界の外に
再び魂の固有の領域を見いだし、さらに魂の源泉でありレゾン・デートルでもある
「内なる客観世界」=霊性の領域を個人のもとに再び取り戻そうとしたのだった。
しかし、キリスト教は発生当初から霊性の独占企業だったわけではない。
誰あろうキリスト自身が自らの死後、
人々の上に「パラクレート」(助け主・聖霊)を送り、
求める者は誰でも霊的な導きを自己の内に自覚できるようになるだろうと語っているからだ。
つまり、原始キリスト教の時代にはまだ潜在的に(聖)霊の
働きが万人の内に認められていた、霊性がすべての人間に開かれていたといえよう。
著者は教会制度の外での孤独で自由な秘儀参入(霊的認識=グノーシス)を
回復すべく登場してきた近代神秘学の直接のオリジンを、
12世紀イタリアに聖ジョヴァンニ・ディ・フィオレ修道院を創設した
ヨアキム・ディ・フィオレに求めている。
ヨアキムは12世紀末のあるとき、ひとつのヴィジョンをえた。
それは旧約の時代、新約の時代につづく「聖霊の時代」がやがて到来する
という非常に異端的なヴィジョンだった。正統的なキリスト教教義では
新約の時代の後にはただ世の終わりが控えているとされているが、
ヨアキムは掟の下での旧約=父の時代、信仰の下での新約=子の時代の後、
愛と自由と認識の下での聖霊の時代が到来すると確信した。
(ちなみに彼は聖霊の働きが具体的な動きとなって現れるのは
1920年頃だと考えていたそうだが、ちょうどその頃にユングやシュタイナーが
独自の仕事をはじめたり、抽象絵画が霊的衝動の下に誕生
[カンディンスキーやクレー、モンドリアンといった抽象絵画のパイオニアたちが
ブラヴァツキーやシュタイナーの著書と熱心にとりくみ、
抽象絵画運動の思想的支えとしたことが最近の研究で明らかになっている]
したことを考えると途端にリアリティがましてくる。)
著者の言葉を引用しよう。

「中世盛期の敬虔なるシトー派修道僧ヨアキムの抱いた夢が、
このように比較を絶して大胆で革新的な内容をもちえたのは、
キリスト教の玄義である「父」と「子」と「聖霊」の三位一体とともに、
古代以来の肉体と魂と霊の三分説をとりあげ、切迫した終末論的世界認識の下に、
これを、人類の意識発展史の三段階に関連づけたからである。
このことによって権力を支える社会的ヒエラルキアの代わりに、
個人の霊的発展を保証する、物質界、魂界、霊界という三重の構造をもつ
存在のヒエラルキアが神秘学と結びつくことができた。
しかもそのヒエラルキアは、われわれの外に存在する秩序としてではなく、
今ひとりひとりの個の内部に確立されるべきものとしての
切実な現実的実践の課題となっている。一方では神の位格である
聖霊と人間存在の構成要素である霊とが、人類の自己実現のプロセスのこの段階において、
ひとつになる可能性が考えられ、大半の教会改革者の場合のように、
最終的に異教に対するキリスト教の、もしくは異端に対する教会の
優位を主張するのではなく、もっぱら内的に、霊的に、一切の宗教、宗派の立場を超えて、
パラクレートをうけいれるために『感性を変える』ことだけが求められ」る。

問題はパラクレートをうけいれるための容器、つまり意識の在り方である。
意識の変容、それは孤独のなかでひっそりとはじまる。
だから、ひたすら「個」に徹すること、けっして「私」を放棄しないことだ。
たとえ「私」を外部の権威に譲り渡した代償にいくばくかの安らぎや
解放感が手に入ったとしても、それはパラクレートとはまったく無縁
なフェイクでしかないのだから。
ヨアキムに代表される、自我の滅却ではなく自我の成熟を求める立場を
著者は「個体主義」と呼んでいる。個体主義に立つ人間にとって、
パラクレートと出会う場は「私」の孤独な闇のなかにしかない。

「誰も救い手のいない極北の地点で、パラクレートははじめてわれわれに意識される。
だからそれまでは一見もっとも救いがたい闇の中にいる、
もしくは進んで闇の中の「真」を見つめる人間が、
実はこの「助け主」にもっとも近づいているのであり、
一見外的権威の中に自己を捧げ、救われている人間、
「父の時代」や「子の時代」にふさわしい生き方をしている人間が、
「第三の時代」の「救い主」からかえって遠いところにいる。
なぜなら個的存在を徹底させ、シュタイナーのいう「自我の秘儀」に参入することなしには、
自由の王国の市民とはなりえないからである。」

救いようのない孤独の扉を最初にノックするのは「夢」である。
たとえば荒涼とした日常生活にあって霊的な世界への癒しがたい衝動に
身を焦がしていたドイツ浪漫派の芸術家や哲学者たちが、
自殺か発狂かという極限的選択に迫られる手前で
自由な観念の戯れに一時の休息を味わったのも夢の世界だった。
しかし夢の世界の彼方に霊的な現実を予感しつつも結局この現実を突破できなかったのは
夢にたいするアプローチの仕方が根本的に誤っていたからだということを、
フロイトの『夢判断』を読む者は知ることになるだろうと著者はいう。

「フロイトの『夢判断』は神秘学との関連を問題にする者にとっても、
今なお最良の手引きとなっている。(中略)われわれを驚かせるのは、
夢との関連において、ゲーテ以来の「対象的思惟」(構想力の論理)の秘密を
フロイトが前代未聞の仕方で解明している点である」

ゲーテは観念が形象に転化する場合や、
形象同士が結合して特定の形象を作る場合、そに固有の法則が働いていると考えた。
これを心の内部の法則としてとらえた場合「構想力(ファンタジー)の論理」となる。
その特徴はそれにしたがってすべての形象が結晶するような
中心点が存在するところにあるという。ゲーテはそれを「プレグナントな点」と呼んだ。
フロイトによれば、自由連想をおこなっているとき
「とつぜんひとつの観念につき当たる」ことがあるという。
それがゲーテの「プレグナントな点」であることは明らかである。
たしかにフロイトはそのプレグナント点をめぐって無意識の夢形成における要点である
「圧縮」と「移動」を論じてはいる。
しかしフロイトの刺激的な考察も合理主義への忠誠が禍して(時代的な制約でもあるが)、
結局夢(心)において概念が形象よりもより根源的であり、
精神分析の仕事は圧縮と移動によって荒唐無稽化した夢の顕在内容を、
本質的に言語的概念的である潜在内容(夢思想)へと暗号解読する
ことであるという彼のロゴス信仰を確認するに終わることとなる。
いうまでもなく無意識の解明に新しい道を開いたフロイトの功績は計り知れないほど大きい。
しかし霊的な現実へつづく道はフロイトの下では依然閉ざされているといわざるをえない。
ここで一気にフロイトの思想圏を去り、彼が禁欲的な態度で
自らは踏み込むことを拒否した領域にあえて挑んだ<神秘学者>ユングの思想圏に移ろう。

ユングは思考にはプログレッション(前進)とレグレッション(退行)という
二種類の形式があるという。プログレッションというのは、
われわれが通常おこなっている言語的論理的思考である。
この思考の特徴は他者に伝達するためにあること、そのため方向付けられていることである。
さらに思考の方向付けを維持するために思考以外の心的機能
(感情、感覚、直観)が抑圧される。一言でいうとプログレッションは
外的環境に適応するための機能なのだ。それにたいしてレグレッションは
心のなかにわき上がってくるとりとめのない想念やイメージを抑圧せずに
ひたすら生成変化するに任せようとする。ロゴス信者フロイトは退行を思考
とは認めなかったが、ユングはそれをもうひとつの客観世界の認識にいたる道だと考えた。

「この病的現象と紙一重のレグレッションをユングが、
フロイトに反して、ひとつの思惟形式であり、
したがって客観的世界を認識する機能をもつと考えるのは、
プログレッションによってはそもそも捉えることのできぬところの、
太古以来数百万年に亘って魂が無意識内に保存してきた精神(霊)の原像、
そのような「もうひとつの客観的世界」をレグレッションなら
認識できると確信しているからである。
(中略)レグレッションは長い間開発されず、
未分化なまま幼稚な段階にとどまっていたから、
たしかに今日、日常生活の無価値の残滓や動物的本能的側面、
非道徳的、非美的、空想的内容が混乱した曖昧な関係において現れてくる。
つまりレグレッションは大抵の場合「コンプレックス」にいたって終わる。
しかしユングの主張するように、レグレッシヴな思惟が訓練によって、
より高度に発展させられた場合、プログレッシヴな思惟の及ばぬ、
新しい認識のための器官となることができる。そのような場合、
心の内なる現実だけでなく、稀にはヴィジョンとして外なる霊的現実を認識することもできる。」

今はまだ萌芽状態のレグレッションも訓練しだいでは霊的な現実を認識できるようになる。
プログレションも幼い頃からの持続的な「訓練」によってやっとここまで強化されたのだから。
しかし退行がもうひとつの認識たりえるかという問題をめぐって、
フロイトとユングに正反対の態度をとらせたものは事実以前の
二人が立脚していた思想的基盤であることを見のがすわけにはいかない。
フロイトは心身二元論の上に立って、外部の客観に内なる主観を対峙させたわけだが、
この構図の下では当然レグレッションはいかなる客観にも達することはない。
ユングがレグレッションを別種の認識になりえると考えた背後には
彼の三分説がひかえていた。身体・意識(個人的無意識)・集合的無意識という
ユングの聖三位一体がレグレッションが認識へ上りつめる契機となっている。

ところで、一般にユングは意識や自我よりも無意識、
それも集合的無意識の重要性を強調した思想家だと考えられがちだが、
それは現在のゆきすぎた合理主義やインテレクチャリズムを
批判する意味あいからである。私=自我の存在なくして
集合的無意識も意味を失わざるをえない。ユングは
人間が自らのもてる可能性のすべてを現実化するにあたって(個体化=自己実現)、
「投影」と「ペルソナ」の終息とともにレグレッションによる霊的認識を求めたが、
集合的無意識からの要請に応えられるのはただ私だけである。
私が集合的無意識のうねりに飲み込まれ個体の主導権を手放してしまえば私の霊的な焼死が待っている。

「個体化を達成する主体は常に自我(私)である。
人生を生きる過程で、私は集合的存在となることによって、
一時自己疎外と自己外化の状態にあった。
その場合私は社会とか信念とかいうなんらかの外的なものに自己を捧げればよかった。
しかし自己外化からふたたび自己を取り戻す行為においては、
たよりになるのは唯自分だけである。大切なことは、集合的無意識がではなく、
この主体としての私が霊的存在である、と自覚することである。
なぜなら真理の霊たるパラクレートはこの「私」にのみ宿ることができるからである。
過去にではなく、その都度現在働いている「私」に対するこの態度において、
ユングもまたヨアキム主義の系譜の中に立っている。
だから今述べたユングの命題をヨアキム主義の意味において
次のように書き換えることができるであろう。
『私こそ唯一の霊的現実性である。』
私によってのみ、可能態として存在している諸々の霊が、
より高い次元での現実性の中に取り入れられる。」

私は外なる現実と内なる霊的現実(集合的無意識)の間で
つねに激流に浮かぶ枯れ葉のように翻弄されている。
霊的認識によってはじめて私は意識下の暗い王国から押し寄せる
制御不能な強制力から解放される。味わったことのない自由が身体の芯を突きぬける。
霊的認識という行為において自己実現と自由がひとつになる、
ここに聖霊の時代の神秘学の要諦がある。

この本に出会ってからしばらくして、著者の高橋巌氏にお会いする機会があった。
高橋氏はその文章から想像されるとおり、
物静かだが内面になにか侵しがたいものを秘めた紳士だった。
まるで月の光に照らしだされた森の奥の清流のような、そんな印象をもった。
神々の蝕の時代を生きる神秘学者の孤高の姿がそこにあった。
ともかく、「もうひとつの現実」に憧れながらも
それについて考えを深めていく手だてが見つからずに困っている人にはぜひ読んでもらいたい。