イコノソフィア
中沢新一 著

たとえば美術館に展示された古ぼけた曼陀羅や来迎図を前にしてぼくらはなにを読みとるべきか。
会場では豪華なカタログが売られているかもしれない。
それには宗教的視覚装置(イコン)の意味について宗教学的・
文化人類学的・美術史的観点から詳しく解説されているだろう。
ぼくらは解説文とイコンを交互に見比べながら会場を一巡する。
そして、少し利口になった自分に満足して会場を後にする…。
それでいいの?「イコン」には未知のメッセージがこめられているかもしれないのに。
そう『イコノソフィア』は問いかけてくる。

中沢氏はいつものようにハーメルンの笛吹のような語り口で
ぼくらを発生状態のいつも新しい言語空間へ誘惑する。
漢字、マンダラ、天使図、チュリンガ……、さまざまな「イコン」の扉の向こうに広がる
とても新鮮で魅惑的な光景、そこはただひとつの「中間の領域」だ。
たとえば天使について書かれた章ではこんなふうに述べられている。

「キリスト教の天使でいちばん大きい特徴は、
その「中間性」でしょう。天使は、人間の住む物質的世界と
神的な世界のちょうど中間の空間をすみかとしているといわれてきました。
(中略)トマス・アクィナスは、天使は「イーヴァム(eavam)」の
時間を生きていると書いています。「イーヴァム」は永遠とはちがいます。
永久不変、不動の神の領域ではないのです。
「イーヴァム」はふつう、永遠と区別して「悠久」とか、「永在」(柳瀬睦男)と
訳されていますが、とにかく変化と運動にみちみちてはいるが永遠に存在するもの、
そういう時間と存在が天使の領分だというのです。
それは永遠不動の超越的な領域でもないし、
生滅変化の支配する存在の世界でもない。
変化と運動がたえまなく猛烈なスピードでくりかえされていながら、
そこには生も死もないのです。空無ではなく、とことんまで肯定的な「有」にみたされ、
しかもたえまない運動と変化につらぬかれていながら、
けっして老い、ほろびることのない領分、「イーヴァム」。
その「イーヴァム」の領分に、あのまばゆい羽をはばたかせて、
無数の天使が飛びかっているのです。
(中略)そしてそこから飛びたってわたしたちの世界、
物質的現実で狭苦しいものになった意識の世界に、メッセージを伝えようとする。
わたしたちがどこから生まれ、どこにむかっていこうとしているのか、
天使はそれを伝えようとしているのです。」

じつは昔から人々は天使について語りながら
同時に天使が棲む空間についても語ってきたのだ。
だから天使の喪失は同時に天使の居場所の喪失をも意味する。
現在ぼくらが陥っているさまざまな不幸は天使の居場所を見失ったことと
深く関係していると中沢氏はいう。おそらくこの時代を蝕んでいる
ニヒリズムの問題もそのことと無関係ではないだろう。
ぼくたちはどこから生まれ、どこにむかっていこうとしているのか、
答えは「そこ」に封印されている。だから封印を解こう。
この『イコノソフィア』には論理で尽くせない中間の場を表現し、
さらにはそこへ向かってぼくたちの直感や知性や感性を
解き放っていこうとする実践的な意図にあふれている。

『イコノソフィア』を含めて中沢新一の仕事は、
見えなくなった天使をふたたび見えるようにすること、
言葉の最深部から天使を未来へ向かって羽ばたかせようという試み
といっていいのではないだろうか(ちなみに、20世紀初頭にルドルフ・シュタイナーが
同じことを人智学によってもっと体系的組織的に行おうとした)。
中沢氏本人は『イコノソフィア』はかならずしも成功した作品ではない
と考えているようだが、ぼくには少なくともそこに天使の羽音や風を感じる気がするのだが…。
きみはどう思う?