イスラーム哲学の原像
井筒俊彦 著

本書はこれまでこの国ではあまり語られることのなかったイスラムの神秘主義哲学、
すなわち「イルファーン」について詳述されている。
著者の井筒俊彦氏は生前イスラム思想および言語哲学の
世界的権威として広く知られていたが、
この天才の知的関心の圏域はなにもイスラムに限定されていたわけではない
(もちろん、イスラム学だけでも常人が一生かけてもとても踏破できない
ほどの広がりと深さを湛えているわけだが)。この知のモンスターの足跡は
ウパニシャッド、仏教、道教、儒教といった東洋思想の全域から、
さらには古代ギリシア哲学、ユダヤ教神秘主義(カバラ)、
ロシア文学と眼も眩むばかりの遠大な領域におよんでいる。
さらに井筒氏は言語のシステムを手がかりにして
これら東洋思想のミステリアスな次元を解き明かした上で、
それらを新たな時代の神秘哲学として統合的に再構築するという壮大な構想を
もっていたようだが、完全な成就を待たずに逝去されたことは残念というほかない。

はじめに触れたように本書ではイスラム神秘主義哲学、
なかでも現在までイスラム的思惟を根底から特徴づけてきた
偉大な神秘家にして哲学者であるイブン・アラビーの「存在一性論」を中心に論じられている。
そしてイルファーン理解の前提として神秘主義一般についても
とても明快な説明がなされている。神秘主義に関する文献は数多いが、
本書を読めば神秘主義についてまわる曖昧模糊としたイメージを払拭し
明確な輪郭線を描き出すことができるだろう。
では神秘主義の本質的特徴とはなにか。それは次の三点である。

第1に、現実を多層構造としてとらえる点。
一般にわれわれは現実を単一の実体としてとらえているので、
この現実以外に現実があるとは考えない。
だが、神秘主義は現実というものを複数のリアリティの層が
重なってできている多様体として認識する。

第2に、現実と同様にそれを知覚する意識の側も多層構造をなしていると考える点。
われわれの意識も表層から深層までいくつもの層をなしていて、
それぞれ表層意識には表層の現実が、深層意識には深層の現実がそれぞれ対応しているとする。
通常われわれの意識は表層的で、われわれは現実の表層を生きているにすぎないとされる。
さらに主客の対立構造は表層意識に特有の事態であって、
意識が深まるにしたがって主客の距離が縮まり、最深層ではついに主客未分の状態にいたる。

第3は、意識を変容させるための体系的な身体技法(座禅、ヨーガetc)を駆使する点。

では神秘主義の特質を理解した上でイブン・アラビーの思想を概観してみよう。
もともとイスラムでは哲学と神秘主義は別個のものとして存在していたが、
12世紀にアヴィセンナが唱えた「存在」は本質の属性であるという存在解釈をめぐって
論争がおき、そこから哲学と神秘主義が融合するにいたる必然の道が生じることになった。
事の顛末はこうだ。

アヴィセンナによると、たとえば咲いている花を見て
「ここに花がある(存在する)」というとき、
「存在」は「この花は青い」とか「この花は美しい」という場合の
「青い」や「美しい」と同じく花という本質に対して偶成的に内属している、
すなわち属性であるとされる。イブン・アラビーはこの説を否定してこういう。
もし存在が属性なら、存在が付与される以前の花という本質
あるいは実体は一体どのようなものなのか、と。
イブン・アラビーにとって事の真相を表そうとするなら「花がある(存在する)」ではなく、
むしろ「存在が花する」でなければならない。
経験的現象界は無限定の絶対無であり神的一者である
「存在」(存在者ではない)の自己限定の果てに出現する。
したがって「存在」はつねに主語であり述語(主語を限定する)にはなり得ないのだ。

「存在一性論」を存在論的観点から見れば、
すべての始源には「アハド」すなわち絶対無がある。
そもそも存在者が存在しうるのは、存在が言語によって限定化、分節化されることよるのだから、
分節される以前の存在は「無」である。その絶対無であるアハドが
「ナファス・ラフマーニー」すなわち「慈愛の息吹」に突き動かされて
自発的に自己限定し実体的な現象界が生成すると説明される。

これを意識の側から見ると、現象界から絶対無にいたるプロセスは
欲望する主体がズィクルという身体技法の行使により徐々に自我を消滅させてゆき、
ついには自我の完全な消滅の果てに無が「無」意識となり、
そこに絶対者すなわち神的我が顕現するプロセスとなる。
ときに神的我は神秘家の口を借りて「我は神なり」と独白する。
このような台詞は一般のイスラム教徒にとってはアッラーへの冒涜以外のなにものでもないが
(事実、10世紀の神秘家ハッラージはこの台詞を口走ったために処刑された)、
それは神的我のモノローグを神秘家の日常的自我が発したものと取り違えたせいである。

ところで、ここまで存在を概念化して語ってきたが、
主客の対立構造の下にものを概念化して認識する思惟様式は表層意識に特有の事態である。
哲学者が自らの哲学(存在一性論)に忠実であろうとするなら、
存在「概念」を越えて自らの意識の深層で存在「リアリティ」を
直接体験的にとらえる必要に迫られる。ここに哲学と神秘主義との必然的結合が生じる。
思惟の前提として変性意識体験を要求する哲学、トリップする哲学の誕生である。

こうしてリアリティ生成のプロセスをアルファからオメガまで
自己の解体と生成として体験した神秘家に与えられるのは大いなる肯定である。
悪意と汚穢にまみれた世界にあっても、悲嘆はしても否定はしない。
なぜなら彼はすべてを必然の道程として神の眼差しの下に見てしまったのだから。