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東映の映画スター、川谷拓三(本名・仁科拓三)さんが54歳という若さで、昨年(平成7年)12月22日夜、故郷の京都の病院で亡くなった。死因は肺癌だった。私が川谷さんと初めて出会ったのは昭和50年ごろ、拓三さんが34歳のころ、東映の大部屋俳優時代で故・深作欣二監督の人気やくざ映画「仁義なき戦い」シリーズに脇役で出演、その体当たりの迫力ある演技で人気が急上昇してきたころだった。本物のやくざ顔負けの演技、特に銃で撃たれて死ぬ演技は圧巻で多くの映画ファンの心をつかんでいた。そんな川谷さんをインタビューしようと、東映の東京・銀座本社の地下の喫茶店で待ち合わせたことがある。
本物の革ジャン
当時はまだ、川谷さんも頭も5分刈りに短く刈り上げた坊主頭で若々しかった。顔をクシャクシャにして笑う優しい笑顔がいまでも脳裏に深く焼きついている。私が何かのことで、川谷さんに「革ジャンが似合うのにどうして着ないのか」と聞いたとき、川谷さんは「安い偽物はすぐ買えるけど、偽物は嫌だ。早く、本物の革ジャンを買えるようになりたい」といった。東映からはもうこんなプロの役者根性をもったスターは出てこないと思う。
「仁義なき戦い」は東映の京都を東京都練馬区にある大泉の二つの撮影所のうち、京都撮影所で取られていたが、川谷さんに同シリーズでの派手なアクションについて聞いてみたことがある。そのとき、川谷さんは「私ら大部屋俳優がスクリーンに出ても一瞬で終わってしまうんです。だからこそ、主役を食ってやろうと、体をはった演技をしてしまうんです。仁義なき戦いは広島やくざの抗争の実録ものだが、敵対する組との抗争で銃で撃たれるシーンがあったとき、撃たれたあと台本になかったんですが、とっさに、目の前にあった大きな硝子窓に体ごと体当たりして外へ転がりだしたことがありました。ぼくらはとにかく目立たないとだめなんですよ」とこともなげにいったものだ。ふつうは、割れても安全なガラスを使うのだが、アドリブでいい演技を見せようというのだからそんな用意があるわけではない。無論、けがは承知の上だ。
当時、川谷さんは他の大部屋俳優仲間と一緒に10人ぐらいでピラニヤ軍団というグル ープを作って売り出していた。軍団仲間には北海道出身で本物のやくざから組員にスカウトされた経験のある室田日出男、いまやテレビで売れっ子中年男の小林捻持らがいた。川谷さんと別れ際に東映本社ビルの横でポーズを取ってもらい新聞用の写真を撮らせてもらうことにした。ビルの壁を背景に強い日があたる中、私の注文で「歯を食いしばって思いっきり気張って」といったら、「ウーン」といって快く気張ってくれた。私にとって思い出の1枚のスナップ写真となった。
東映社長も太鼓判
川谷さんの初主演作が、昭和51年(1976年)11月17日封切りの「河内のオッサンの唄・よう来たのワレ」である。この作品は当時、菅原文太主演の東映のヒットシリーズ「トラック野郎」との2本立て興業となっていた。
ベテランの斎藤武市監督は川谷さんを評して「体をはっての演技には頭が下がる思い」といった。斎藤監督は小林旭、高橋英樹、緋牡丹お龍こと藤純子(現・寺尾純子)、故・若山富三郎らでヒットシリーズを撮ってきただけに「この作品もシリーズ化できなかったら今の映画界はダメ」と川谷さんには太鼓判を押したものだ。あるとき、東映の岡田茂社長に会ったとき「高倉(健)や鶴田(浩二)の時代ではない。鶴田のカバンもちだった川谷がいまや主演をとる」といって、ご機嫌だったのを思いだした。
大泉の東映撮影所を訪ねたとき、休憩でスタッフが誰もいなくなってひっそり閑としていた茶の間のセットに川谷さんと共演者の坂口良子さんが談笑していた。川谷さんは言 った。「俺は台本を読んで勝負するタイプ。どうも正直言って、この作品のような喜劇は合わないです。でも、封切りまでは何も考えないでヒットさせるよう全力を出すだけ」と。映画一家に生まれ、誰よりも映画を愛した川谷さん。大部屋俳優として、斬られ殺された回数は約3,000回。その苦労は筆舌に尽くしがたかったものがあると思われるがその後の活躍はテレビ、映画でもおなじみ。日本映画界はまた、ひとりのスターを失った。日本映画の再興を夢見ていた川谷さん。志しなかばで倒れさぞ悔しい思いだろう。ご冥福をお祈り申し上げます。