■櫻森伊勢祠碑
 神亀3年(726)、坂本宿禰という人が摺沢の羽根折沢より玉(水晶)を発掘、多賀城の国主大野東人へ献上しました。その後、玉をこの地に埋めたと言い伝えられています。写真の石碑は安永5年(1776)に仙台の田邉希績という儒者が神社の由緒を記した古碑です。
■銅造聖観音菩薩立
林ノ沢観音堂は享保10 年(1725)建てられ、内部には平安・江戸時代につくられた仏像が安置されています。右の写真は32 p位の仏像で、平安時代につくられた金銅仏といわれています。岩手県の文化財に指定され、大切に保管されています。
■橘城跡(写真は約30 年前撮影)
奥玉の代表的な遺跡で、丘陵の頂上を平らにし、要塞化した城跡です。城主は千葉大膳大夫といわれ、天正18 年(1590)豊臣秀吉によって滅ぼされました。本丸跡は昔の遺構が残り、奥玉が一望できる見晴らしの良いところです。
■八坂神社祭典
奥玉の旧村社で、例祭は旧暦6 月15 日です。今は「海の日」の前日に祭典を行っています。天王様と親しまれ近隣郷村より見物客で賑わいを見せ、当日は巫女の舞を奉納し、神輿はむかし神社が有った所まで巡幸します。鬱蒼とした境内東側には樹齢300 余年の夫婦杉が見事な枝振りを見せています。
■三枚山鉱山跡(写真は約30 年前撮影)
天正年間(約430 年前)、豊臣秀吉は、金山開発に力をいれていました。三枚山の名称は、名古屋城の金のシャチホコの鱗三枚分を献上したとの言い伝えもあります。昭和初期に会社経営として大規模に採掘していましたが、昭和19 年(1944) に閉山しました。

 奥玉は、北上川の支流千厩せんまや川( 奥玉川または弓手川) 流域に位置している。奥玉川沿いは肥沃な土地で一般的に人の心は豊かである。地名の由来は、1278 年前の聖武天皇の時代に、奥玉と摺沢境の鶴ケ峰( 大東町摺沢字羽根折沢) より玉( 水晶) を採掘し、坂本宿禰さかもとすくねという住人が、宮城県多賀城の国司大野東人おおののあずまひとへ献上したと言われ、のちに興玉村が転訛し奥玉村になったと伝えられている。 その後、この玉は地中に埋めて祠を建て奥玉神社( 現櫻森神社) となった。これが奥玉村( 奥玉郷)の名前の起こりでもある。現在も櫻森神社の境内には奥玉神社があり、由来を記した安永5年(1776)建立の大きな「櫻森伊勢祠碑さくらもりいせしひ」が古色蒼然と建っている。 中世代( 領主は藤原氏)は磐井郡から独立した奥玉保といわれ、平泉を守る重要な経済特別行政区の「保」になっていた。その後、領主は鎌倉幕府高官の二階堂氏に移り、続いて金沢文庫の創設者の金沢氏が奥玉村の領主となった。 鎌倉幕府の滅亡後、奥玉村は葛西氏の広大な領国の一部となった。また、葛西晴信の戦国時代末期には上奥玉村・中奥玉村・下奥玉村に分村し「保」としての役割も終えた。 天正18 年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏の統治は終わりを告げ、代って秀吉臣下の木村吉清が領主になった。しかし、葛西・大崎一揆によって木村氏が失脚、天正19 年には旧葛西領は伊達政宗だてまさむねが領知することになった。 伊達氏の藩政時代、大上奥玉村は伊達直轄領に、上・中・下奥玉村は一関の田村領になっており、安永4年(1775)に伊達藩に報告した大上・上・中・下奥玉村の地理誌「安永風土記御用書出」がそれぞれ宮城県図書館に残されている。  奥玉には、立花城たちばなじょう( 橘館・二日市館)・牛生蓮館ごしょうれんたて・此手館このてたて・殿金沢館とのかねざわたて・要道館ようどうたての中世城館跡が昔の姿を今に伝えている。 明治4年から、一ノ関県、水沢県、磐井郡、磐井県を経て、東磐井郡となり明治12 年に大上・上・中・下奥玉村が合併して奥玉村となった。 明治18 年の奥玉村の概要は、戸数426 戸・人口2,520 人。奥玉小学校の生徒数115 人( 男97・女18)。物産は米・大小豆・大小麦・紅花・蕎麦・生糸・馬鈴薯・葉たばこ・山林木材、等。 私たちが小学校入学の昭和25 年の戸数688 戸・人口4,454 人。中学卒業後の昭和35 年の戸数は731 戸・人口4,693 人で奥玉最多人口となった。 土地基盤整備事業は、昭和27 〜 34 年に5 e田となり、平成9 年に始まった現在の1 f田工事は平成17 年に事業終了する予定である。 安永風土記に見る奥玉村の一戸当り平均耕地面積は68.9 e、収量は10 e当り約100 s ( 現代と条件が違う) で町内平均値の4 割増で富裕であった。 奥玉には林ノ沢観音堂の黄金伝説があり、地名も「金取沢・金山沢」や苗字の「金・金野」も少なくない。また、吉立地区には「三枚山鉱山跡」があり、天正年間(430 年前)に金を採掘、昭和初期には高純度の金鉱石を産出した名所でもある。 昭和31 年町村合併で千厩町となり、平成16年10 月31 日現在では、世帯数4,191 戸・人口13,399 人である。平成17 年9月20 日より一関市・西磐井2町・東磐井6町村が合併し、総面積約1,320 ku、人口約150,000 人の県内第二の新『平泉市』へと移行する予定になっている。
(参考資料:岩手県地名大辞典、昭和60 年発行、角川書店編)(奥玉郷友会報:私の知っている旧跡について、吉田恭一様編)