ご 挨 拶昭和33 年度奥玉中学校卒業生同級会
還暦祝年同級会記念誌を発行するにあたり、実行委員会を代表してご挨拶申し上げます。玉燦会 実行委員長 千葉 昭嘉 平成16 年2月8日の還暦祝年同級会には、恩師の先生方をはじめ多数の同級生の皆様が一堂に会して盛大に開催出来ましたことは同級生の皆様のご協力のたまものであり心より厚く御礼申し上げます。 恩師の先生方には、私たちの同級会にご出席頂きご指導を賜り誠にありがとうございました。当日の同級会には、半数を超す皆さんに出席頂きましたが、出席出来ない方は、家庭の事情、親の介護、自分の体調不良などのためであり大変残念ではありますが、次の機会に是非多くの皆さんにお逢いしたいものです。 光陰矢の如しと言いますが、月歩の経つのは早いもので還暦記念同級会の日からもう9 ケ月も経過しました。当日も申し上げましたが、若干の経過を申し上げます。 還暦を迎える一年半ほど前の平成14 年の春頃から、町内在住の同級生から開催の声があり、14年10 月12 日に町内在住の同級生により発起人会を開催し同級会開催の方針を決定し、その後発起人会を実行委員会に改称して事務局を中心に準備をして参りました。会の名称は「昭和33 年度奥玉中学校卒業生と私たちの郷里奥玉」が燦燦と輝くようにと願いをこめて『玉燦会』と名付け、その準備の状況等については折に触れお知らせして参りました。私たちは、昭和18 〜 19 年の厳しい戦時下に生を受け、敗戦により人々は価値感や人生感が変わり目的を失ったりし、その中で多くの人は生きて行くことに必死だった時代に育ちました。振り返って見ますと昭和25 年4月1日(本校1日・下分校2日・上分校3日)に奥玉小学校に入学、本校、上分校、下分校と分かれての入学と学校生活が始まりました。入学式の写真で懐かしく思い出すように、着るもの履き物は粗末でそれでも最高の支度でのスタートだったと思います。 そして5年生の時本校で一緒になった時の印象は今でも忘れません。昭和34 年3月18 日奥玉中学校を卒業までの9年間の義務教育期間に培われた同級生の絆は一生涯の宝となっております。その後、就職、進学とそれぞれの道に進み現在に至っております。 この間に、昭和39 年1月の成人式の時、昭和50 年1月女性の皆様の33 歳祝年、昭和59 年1月42 歳祝年、平成10 年8月気仙沼にて同級会、そして今回の還暦祝年同級会を開催となりました。今回の還暦祝年同級会では、それぞれの道で長年積まれてきた経験と苦労話、学校時代の思い出などを心ゆくまで夜の更けるのも忘れ話し合い、友情を深めて頂きました。 すでにご承知のとおり奥玉小学校は上分校・下分校が統合になり、又平成12 年4月奥玉中学校は千厩中学校に統合されて、私たちの学舎は中学校校舎と校歌碑等が残っているだけとなりました。それでも私たちの心の中にはいつまでも思い出の詰まった学舎が残っていくものと思います。 残念なことには、私たちの級友11 名の方が他界されております。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 終わりに、 還暦同級会に出席頂いた皆様、また諸事情により出席出来なかった皆様も還暦の節目を今後のよりよい人生の節目となるよう、そして健康で明るい人生を過ごされ益々のご活躍とご多幸をお祈りし、『玉燦会』の名前を心に刻み込むようお願いして挨拶とします。 |
恩師の祝辞 |
在職当時の思い出菊池 庸夫
私は、上分校に7年もお世話なりましたし多感な頃でしたので、思い出は数え切れません。 今、それぞれを正確に記述するための取材のいとまもないので 、そのいくつかを列挙することにします。その第一は、増築間もない校舎を、危うく焼失しそうになったことです。幸い発見が早く、的確な対応と、地域の方々の協力で消し止めることが出来ました。後日、学校防災のあり方にもふれ、その顛末をしたため教委に提出しましたが、天災に準ずるものとして管理責任は問われることはなく間をおくことなく旧校舎の屋根を瓦に葺きかえることにつながりました。又、その時学校に届けられたおにぎりと、お酒の数には驚きました。子供達は、毎日おにぎり給食、お酒は、ことあるごとに消防の方々に差し上げました。極度に物の乏しい頃でしたのに地域の方々の温情には泣かされましたし、あの驚愕な出来事は、その後の私を夢の世界でとはいえ、幾度となくさいなむことになりました。当時、私は分複研の事務局を担当していましたので、ピアノを設備する運動を展開し、遂に上、下分校には勿論、藤沢の西口、本郷分校と、郡下小規模校も次々と設備することにつながりました。その時の殺し文句は次のようなものでした。「雌牛に美しい音楽を聴かせると、よくおちちが出るそうです。」、「現在の音楽教材はピアノでないと正しく表現できないそうです。?」他にも、イナゴを売りその代金で、楽器を購入しバンドを作ったこと。PTAの支会を設立したり、教育費の分校独立化を実現させ, 又、冬期間みそ汁給食を実施したり、郡内初の幼児学級の設置を試みる等、そうした環境を与えて下さった方々に、今感謝感謝です。 |
下分校在職当時の思い出千葉 テフ
下分校の入学生は昭和29年から急増するまで大体20名前後でした。 授業に入る前まず「朝の手伝い調べ」から「S ちゃん今朝何の手伝いをしてきましたか」「庭こはいてきました」「Tちゃんは何をしてきました。」「板場ふいてきました」[B君は何を手伝って来ましたか」「馬っ子さ草かせてきました」等手伝いの中身は色々、複式40名、10分位。例年入学式が終わって教室に入り新1年生と父兄との話し合いの中で「朝手伝い」の約束をし毎朝聞く。意図する一つは、多忙な農家の一員として、入学を期に手伝いの習慣ずけ、そしてもう一つの狙いは、人前で恥ずかしがらず発言出来る様になるきっかけ作りでした。保育園も幼稚園も無かった昭和20年代、教室に入って、一言の発言もなく帰る子の2〜3名は居たものです。改まって皆の前で話すことは新入学児童でなくても勇気の要ることで、1日の授業に楽に入るきっかけ作りでした。学級園作り、校舎の脇の15坪の空き地に金野久太郎先生が花種を取り寄せて学級園にしました。1,2年は朝顔、矢車、水仙等。3、4年は菊やカンナ等も育て見事でした。畑作り種播き、草取り、花が咲けば楽しみ、花の数をかぞえ、昨日と比べたりして算数の教材に、図画、自然観察に、全児童協力して働く楽しさを体験する場として生かされました。昭和29年児童数が増え、及川千秋先生、宍戸公代先生が来られ、複式解消、教室が無く講堂の隅の仮教室に1年生、2〜3年は教室の真ん中をカーテンで仕切っての不自由が1年続きましたが、うれしい楽しい思い出です。 分校は公民館の役割も果たしていました。PTA主催で映画会もたびたび開かれ、盆踊り、婦人会の料理講習、部落の集会の場として利用されましたが、地域の人たちは人柄が穏やかで非常に学校に協力的でした。寒い時だけでもと、材料持ち寄りで、お母さん方4人位で味噌汁給食を始めて下さったり、本当に温かい地域でした。 児童達も素直で未熟者の私は25年から32年まで本当に楽しく勤めさせていただきました。この気風はいつまでも残したいものです。 |
小学校在職当時の思い出太田 勉
還暦を迎えられておめでとうございます。今回記念誌発刊のため標題をいただき、これは大変なことだと思いました。なにせ50数年前のことですから、どうまとめるかいささか戸惑った次第です。 小学校在職といっても、本校8年、上分校4年、下分校3年と奥玉地区を歩きましたので想がまとまらず思い浮かぶままに書きますので、支離滅裂な文になるのではないかと思っています。昭和24年4月に着任以来主に高学年を担任し、30〜31年度は3、4年生を担任し、32〜35年度まで上分校、36〜38年度まで下分校勤務でした。 当時は、施設設備の無い私が在学した当時のままの校舎でした。そうした中での生活、強烈な印象は何度か真っ白くなるほどのDDT散布が繰り返され、子供たちの体には蚤、虱が居なくなったこと、勿論各家庭からも一掃されたこと、配虫薬「サントニン」(当時はソビエトにしか無い薬とのこと、未確認)、腹の中の虫(回虫、蟯虫等)等の駆除に当たったことが心に残っています。 DDTは当時日本が独立していない時代(昭和20〜25,26年頃まで)、GHQからの命令で発疹チフスの予防に日本全国が粉だらけになったと言っても過言ではありません。又サントニンは、奥玉村役場からの指導で空腹時に服用したところ廊下のあちこちに回虫が落ちていて、拾い集めることになり大騒ぎにでした。その後各家庭では食生活に変化が生じたことも事実です。昭和20〜26年頃までは汽車に乗ると列車の中で、汽車から降りるとき、乗る前に否応なしにかけられたのです。今であれば発ガン性物質が含まれているのではないか等大きな問題になりますが、このようにして日本中から駆除された時代だったのです。学校生活にふれるスペースがなくなりましたので総まとめとしますと、保護者の方々、子供たちもとにかく学校には行かせるもの、行くものとの思いが強かったことと、子供たちは農繁期になると手伝いのため、「お暇下さい」と申し出ることも事実でした。親も子も一生懸命に働いた時代だったと思います |
中学校在職当時の思い出及川 泰
過日の還暦祝年同級会にはお招きいただき、楽しい時を過ごすことができました。ありがとうございました。記念誌の発行のため標題の内容で原稿をという依頼でありますが、だいぶ時が経って記憶も定かではありませんが、思い出すままいくつか書いてみます。昭和20年8月戦争が終わり、日本はあらゆる面で改革が始まりました。教育の分野では、昭和22年4月から全国の市町村に義務教育の中学校が新設されることになりました。その学制改革によって奥玉中学校が誕生、校舎も無いので青年学校が使っていた小学校の校舎を借りて入学式が行われました。青年学校の生徒がそれぞれ2年と3年に編入され合計237名の生徒に教職員10名の体制で発足しました。間借り生活の上、物資の無いまして教材、教具も満足にない時ではありましたが、久しぶりに訪れた平和を楽しむかのように、のびのびとした学校生活を送ったように記憶しています。この中学校発足と同時に、私も教員としての一歩を踏み出しました。学校田の田植えと稲刈り、植林や刈払い、ストーブ用の薪の運び出し等は全校生徒が取り組む年中行事であり、農繁休業というものがあったのも今では隔世の感があります。昭和26年には新しい校舎が完成し間借り生活に別れを告げました。玉燦会の皆さんが卒業するのと一緒に私も転勤で千厩中に赴任することになりました。その後、20数年経って偶然にも再び奥中に勤務することになったのです。50年を経て校舎の外観は古びてしまったものの、中に入ると鏡のように磨き上げられた廊下には外来者は皆驚いていました。その上生徒が「こんにちわ」と声をかけてくれるのも気持ちのいいものだと多くの人に言われたものです。マナーの良さは修学旅行の行く先々でもよく言われたことでした。奥中が閉校になる前の61年3月、私の長い教員生活も終止符をうつことになりました。 |
奥玉中在職当時の思い出と今佐々木 早苗
今車で15分位のところを当時はバス、汽車、徒歩と2時間もかかった。一番困ったのは泊まる所だった。初任校は県北なので教員住宅だったが、奥中にはなく最初は地蔵院で、寝るところは本堂の脇の小部屋だった。薄気味が悪かったので自作のポータブルラジオのイヤホーンを耳にして他の音が聞こえないようにした。 お寺の本堂に泊まったのは私位のものではないかと今でも思っている。教科は免許教科の理科と教える人がいないというので英語である。この事は昨年の11月2日の日日新聞に詳しく書いた。私は理科教師なので、ラジオ作りは得意で高校時代から作っていて、県北では電気がなかったのでポータブルラジオ、奥中に来て校長、教頭両先生にステレオの5球スーパーラジオを作ってあげて喜ばれた。皆さんを写したカメラは2台目でミノルタ(A)という35ミリである。現像、焼き付けは夜、学校の理科教室で近くの千葉正敏さんにお手伝いをもらったりした。皆が3年生の時に奥中でテレビを買い入れした白黒テレビが、珍しく新聞に掲載された。週に1時間テレビの時間というのがあった。冬の宿直の夜小学校の先生と夢中で見ていて, ストーブにかけたアルミの釜の底がすっかり溶けて穴があいて皆に笑われた。なんでも先物買いが好きで, 今のデジカメは4台目でソニーのサイバーショットである。 私は過去を振り返るのは好きではない。あの時はああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔のみ多く気が滅入る。そこで未来志向となったのである。趣味の発明で科学技術長官賞、特許庁長官賞、東レ理科教育賞と日本最高賞を3度受賞した。今はデジタルカメラとコンピューターで写真短歌(PHOTO TANKA)のホームページを世界に発信している。◆佐々木先生のホームページはこちら |