◆地蔵田由来 (H18/5/22発行) |
むかしむかし西の国に信仰心の尊い、兄弟がいました。 ある時のこと兄弟は、不思議なことに同じ夢をみました。 それは日頃から信仰していたお地蔵様が夢枕に立ち「景色の良い所に出るまで、東の国に向かって兄弟で旅に出なさい。」という御告げを受ける夢でした。 そこで兄弟は夢を疑うことなく、早速翌朝に旅支度を整え東へ東へと歩き始めました。 山を越え谷を渡り水の音を聞きながら、山あいの静かな所にたどり着きました。 そこは水に恵まれ、遠くに目を向けると心休まる穏やかな姿の山がそにえて、この場所こそが地蔵様が示された場所と確信し、兄弟はそこに落ち着くことに決め、旅の荷を降ろしました。 兄は小高い所にあるお寺のお坊さんとなり、弟は兄の寺から見える向かい側に居を構えました。弟はくる日もくる日も田畑を耕し、田圃を作って、米作りに一所懸命働きました。その甲斐あって秋には、たわわな稲穂が実り、お坊さんになった兄と「これはお地蔵さまのお陰に違いない。」とお米を地蔵様に奉納するため、稲をまたがないで植えられるように丸い田圃を作り、一筋に渦巻き状に植え収穫したお米をお地蔵様に韋駄天(いだてん)様に奉納しました。 その後、不作の年でもこの丸い田圃だけは稲穂がたわわに実り、末永く地蔵様に感謝しながら幸福に暮しました。このことにより世の人々は誰言うことなく「地蔵田」と呼ぶようになりました。
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◆「奥玉のかま神様・かま別当様」 (H15/2/28発行) |
・奥玉地区内に昭和47年時点で二十八体確認される
奥玉公民館一階の廊下には昭和47年頃写真愛好家の武者昭一氏(入山沢)が、二十八体を撮影した「かま神様」が、今でも展示(写真)されており、町内外の方がたまに見学にこられます。現在では、その内何面が保存されているかは不明ですが、火難よけの神、家の守護神として大事にされていたと思われます。ちなみに47年時点では、土製のもの十九体、木製が九体で、比較的古い家に残っていたようです。
・新築時に作製=防火招福・家内安全など「家の神」として
「かま神様」は、全国でも宮城県北から岩手県南に限って分布するもので、一般的には火難・悪魔よけに釜の上か柱に掛けられて祀られています。「かま神様」あるいは「かま別当様」は、家を新築した時、壁土やくど等の残り土や木でつくられています。本来は、「三宝荒神」の神であり、この地方では「家の神」「屋敷神」として正月や五月、九月に礼拝するといわれており、防火招福、家内安全、五穀豊穣のために大黒柱に掲げて祈ったもので、大工や壁職人がつくったものです。なぜ、「かま神」をつくったかについては、家々の事情でたとえば「家族が病弱なのでかま別当を奉斎すると健康になる」「火災にあったためつくった」などいろいろな経緯があったようです。土製や木製のものはこの地方にしかないもので独特の祀り方をしており、貴重な文化財でもあります。みなさんの回りに「かま神様」はありませんか? こうした火難よけの神で大切にするとともに、常に火の用心に気をつけ火事を出さない努力を怠ってはいけません。(文責・村上)
参照=「千厩町のかま神様・オシラサマ」(1979 千厩町教育委員会)、千厩町史第三巻近世2)
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◆「変貌した「沖中」の様子」 (H15/1/24発行) |
文化十四年(1817)年 中奥玉村絵図の一部=千厩町史編纂室蔵
全体の写真は、「千厩町史」第2巻近世1の資料編に納めてあります。
奥玉沖中地内の様子をご覧下さい。右の図面は、今から183年ほど前に作られた「文化14年(1817)の中奥玉村絵図」です。太い(水色)線が、川(水路)です。下の図は、上から昭和30年頃の水田、次が県営基盤整備をする前の水田(昭和34年頃に一度整備済み)、下が昨年(平成14年)の春の沖中から室根山をみた様子です。時代時代を語りかけてくれるような写真ですが、みなさんの所に昔懐かしい写真等ありましたら、奥玉公民館にご紹介下さい。 |
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昭和30年頃の水田 |
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県営基盤整備をする前の水田 |
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昨年(平成14年)の春の沖中から室根山をみた様子 |
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