地蔵田由来  (H18/5/22発行)
むかしむかし西の国に信仰心の尊い、兄弟がいました。 ある時のこと兄弟は、不思議なことに同じ夢をみました。 それは日頃から信仰していたお地蔵様が夢枕に立ち「景色の良い所に出るまで、東の国に向かって兄弟で旅に出なさい。」という御告げを受ける夢でした。 そこで兄弟は夢を疑うことなく、早速翌朝に旅支度を整え東へ東へと歩き始めました。 山を越え谷を渡り水の音を聞きながら、山あいの静かな所にたどり着きました。 そこは水に恵まれ、遠くに目を向けると心休まる穏やかな姿の山がそにえて、この場所こそが地蔵様が示された場所と確信し、兄弟はそこに落ち着くことに決め、旅の荷を降ろしました。 兄は小高い所にあるお寺のお坊さんとなり、弟は兄の寺から見える向かい側に居を構えました。弟はくる日もくる日も田畑を耕し、田圃を作って、米作りに一所懸命働きました。その甲斐あって秋には、たわわな稲穂が実り、お坊さんになった兄と「これはお地蔵さまのお陰に違いない。」とお米を地蔵様に奉納するため、稲をまたがないで植えられるように丸い田圃を作り、一筋に渦巻き状に植え収穫したお米をお地蔵様に韋駄天(いだてん)様に奉納しました。 その後、不作の年でもこの丸い田圃だけは稲穂がたわわに実り、末永く地蔵様に感謝しながら幸福に暮しました。このことにより世の人々は誰言うことなく「地蔵田」と呼ぶようになりました。
「奥玉のかま神様・かま別当様」  (H15/2/28発行)
・奥玉地区内に昭和47年時点で二十八体確認される
奥玉公民館一階の廊下には昭和47年頃写真愛好家の武者昭一氏(入山沢)が、二十八体を撮影した「かま神様」が、今でも展示(写真)されており、町内外の方がたまに見学にこられます。現在では、その内何面が保存されているかは不明ですが、火難よけの神、家の守護神として大事にされていたと思われます。ちなみに47年時点では、土製のもの十九体、木製が九体で、比較的古い家に残っていたようです。
・新築時に作製=防火招福・家内安全など「家の神」として
「かま神様」は、全国でも宮城県北から岩手県南に限って分布するもので、一般的には火難・悪魔よけに釜の上か柱に掛けられて祀られています。「かま神様」あるいは「かま別当様」は、家を新築した時、壁土やくど等の残り土や木でつくられています。本来は、「三宝荒神」の神であり、この地方では「家の神」「屋敷神」として正月や五月、九月に礼拝するといわれており、防火招福、家内安全、五穀豊穣のために大黒柱に掲げて祈ったもので、大工や壁職人がつくったものです。なぜ、「かま神」をつくったかについては、家々の事情でたとえば「家族が病弱なのでかま別当を奉斎すると健康になる」「火災にあったためつくった」などいろいろな経緯があったようです。土製や木製のものはこの地方にしかないもので独特の祀り方をしており、貴重な文化財でもあります。みなさんの回りに「かま神様」はありませんか? こうした火難よけの神で大切にするとともに、常に火の用心に気をつけ火事を出さない努力を怠ってはいけません。(文責・村上)
参照=「千厩町のかま神様・オシラサマ」(1979 千厩町教育委員会)、千厩町史第三巻近世2)
「変貌した「沖中」の様子」  (H15/1/24発行)
文化十四年(1817)年 中奥玉村絵図の一部=千厩町史編纂室蔵
 全体の写真は、「千厩町史」第2巻近世1の資料編に納めてあります。

奥玉沖中地内の様子をご覧下さい。右の図面は、今から183年ほど前に作られた「文化14年(1817)の中奥玉村絵図」です。太い(水色)線が、川(水路)です。下の図は、上から昭和30年頃の水田、次が県営基盤整備をする前の水田(昭和34年頃に一度整備済み)、下が昨年(平成14年)の春の沖中から室根山をみた様子です。時代時代を語りかけてくれるような写真ですが、みなさんの所に昔懐かしい写真等ありましたら、奥玉公民館にご紹介下さい。
文化十四年(1817)年 中奥玉村絵図の一部=千厩町史編纂室蔵
昭和30年頃の水田


県営基盤整備をする前の水田


昨年(平成14年)の春の沖中から室根山をみた様子


「奥玉の鋳物業の昔と今」  (H14/9/27発行)
太田・菊池・田名網の三氏の鋳物師が互いに技術を磨く=江戸初期から幕末 
奥玉の昔で誇れるひとつに鋳物業が挙げられます。江戸時代初期から幕末にかけて、太田氏・田名網氏・菊池氏等が鋳物業を営んでいたことが、梵鐘(ぼんしょう)・半鐘(はんしょう)・仏像などの作品に刻まれていることからわかります。 太田・菊池・田名網の三氏の鋳物師が互いに技術を磨き、合作である下奥玉八坂神社の梵鐘を造り、鳴り音は、遠くまで響いたと伝えています。その名は広く聞こえ、注文も殺到したと言われます。作品は、神社・仏閣に納入されました。鋳物師の発祥の地は、全国にありますが、河内鋳物師が有名です。東日本では、佐野天明の鋳物師も有名です。各地に出て仕事するうちに、奥玉に住みついたのではないかと思われます。そして多くの作品を造り名を残しているのです。その作品は、毛越寺や室根山神社の梵鐘など県内はもとより宮城県など遠くまで及んでいます。
 
宿下地内の鋳業供養碑は、佐野(現在の栃木県)出身者を供養か
奥玉字宿下・菅野辰巳氏宅前畑の片隅に鋳業供養碑があり、元禄12年(1699年)正月に建立され、「関東下野佐野荘天命金屋町(現在の栃木県佐野市)、施主 太田長左衛門安常」と刻まれています。(写真右)詳しくは、「千厩町史第3巻参照」。奥玉の鋳物業を象徴する歴史的供養碑で、奥玉の鋳物師達は、一方で佐野荘出身者がいて供養したことも考えられます。 昔を偲ぶには、鋳物工場の跡が残されていると思われますが、物見石の現在の太田邦敬氏(弘農起)や太田勉氏(清水台)の屋敷裏にあったとされています。 多くの作品は第二次世界大戦の戦時調達品として没収され、そのものが消えたものもありますが、気仙沼市鹿折の興福寺半鐘(写真下)や大東町渋民の東川院の梵鐘などが戦火を逃れて最近戻った例もあります。 明治以降、昭和初期まで続いたが、鍋や釜などの日常品に必要なものの製造に変わり、廃業に至っています。

当時を偲ぶ、鋳物師に関係する屋号も奥玉に多く残されています
当時を偲び、鋳物師に関係する屋号として奥玉には、「上金屋」「下金屋」「平」「平畑」「鍋屋」「佐野」等や「萬細工」の呼名も残っています。 鋳物の技術は、現在では水沢市の羽田を中心とする地などで南部鉄器の作品を手がけている所も多いのですが、奥玉の地で栄えた技術が今に伝えられているのではないかとも思われます。(文責・村上)

「奥玉の金との関わりについて」  (H14/2/1発行)
 今回は新春でもあり、奥玉の金について「三枚山金(鉱)山」や下奥玉を中心に金で栄えた時代をふりかえります。(文責:村上福)
このシリーズを掲載中に多くの方々から奥玉の金や「三枚山金(鉱)山」(奥玉字吉立)のことについて取り上げてほしいと要望されていました。奥州の金は、遠く奈良時代から産出されるようになり、平安時代、平泉を中心とした藤原黄金文化でその存在を知らしめました。それらの時代を経て、豊臣秀吉や伊達政宗の時代に有名になります。中央の朝廷や幕府からも関心の的となり、奥州の金を得るためにその後争いが絶えなかったのでした。「三枚山金山」については、名の由来に二説あり、ひとつは、伊達政宗の頃、毎年黄金三枚を産出したことからという伝説と豊臣秀吉の頃、名古屋城建立の際、金の鱗(うろこ)に三枚献上したことから「三枚山」と名を称したと伝えられています。その後の鉱山については、200年あまり休鉱し、昭和12年から戦時調達のために採掘され、終戦とともに華やかな金山の歴史に幕を閉じます。(詳しくは、「奥玉村誌」、「千厩町史第三巻」を参照)その間、採鉱夫電気技術師等経験豊かな専門職も集まり、矢越の七日市には、宿舎も建てられ人口が急増。構内では、毎年芝居や漫才、浪曲、映画慰問団も来て、新しい文化が入ってきました。昭和15年頃には坑道が四ヵ所あり、規模の大きさがわかります。現在は、坑道は閉じられ入口に標柱が建てられています。地区内下奥玉には「金山沢」、「金取沢」の地名や屋号に「入金」などとともに名字に「金(こん)」や「金野(こんの)」の名が残っているように金にゆかりがあったことを示しています。平成5年に、金のご本判(金等を採取する人への鑑札)が発見され、金を採掘していたことが明らかになりました。金山沢入口に林ノ沢観音堂があり、産金に縁起を持つ奈良・長勝寺の本尊を模倣して造った観音像があります。江戸時代に肝入りを勤めた深芦屋敷・金家は、気仙より移住した葛西旧臣の子孫であり、「財主屋敷」もあったと伝えられています。歴史的事実として今から400年前の文禄3年「金山一揆」のことや「東山中中奥玉村ご本判取立帳」(嘉永4年正月)の存在など多くの資料が残っており、金の産出が藩財政に大きく貢献していたことを裏付けています。奥玉の地に金山が多くあった事実が、平泉黄金文化に貢献し、国の台所を支えた奥玉周辺の金。未来にもつながる夢のある話です。金の関わりでは、天ヶ森地内に金を抽出する優良企業が現在活躍されています。

「奥玉の発祥の地や安養寺の歴史などについて学習」  (H13/11/1発行)
白藤・観音堂・桜森神社・橘城や種まき桜・牛生連舘・安養寺など
 「奥玉地区内の歴史や史跡にふれてみよう。」と千厩中学校1年生31名が10月17日、総合学習の一環として訪れました。千厩中学校に統合後、自分が住んでいる地域外を学習してみようと、奥玉地区以外の千厩や磐清水地区の生徒が中心ではじめて奥玉に来る生徒も。当日の学習成果が、27・8日の千中文化祭「紅輝祭」で『地域の歴史探訪』として発表されました。(文責:村上福)
奥玉地区で平成5年に地域活性化事業として「地域再発見ウォーク&サイクリングコース」として地区内の7ヶ所をポイントに気軽に歩いたりサイクリング出来るよう公民館や振興協会が整備したものでした。史跡や由緒ある名木等を結び郷土の歴史にも触れながら体力増進をねらいとしたものです。今年に入ってこのコースがにわかに脚光を浴びる背景になったのは、奥玉の地についても足元である郷土の歴史について教えたり語ったりする機会が少ないことでした。公民館としても小学生や中学生のみならず、奥玉に住んでいる人たちの気持ちのどこかに「先人の築いた歴史」を少しでも身につけておいてほしいと願っていました。今回の千厩中学校の総合的学習の一環としてのこうした取り組みは、今後にも引き継がれると思いますが、大事にしてほしい課題です。昔の舘の役割や神社・お寺の成り立ちと意味合いなど教科書には出てこない一面ですが、日常的には、おりに触れお世話になる事柄もあります。「線香とろうそくが仏壇にあげられるのは?」{奥玉の名のいわれは?」「神社と舘の方角の意味は?」など素朴な生徒の質問に丁寧に説明と答えていただいた郷土の先生に感謝したい。千厩中一年生は小梨では、黄金山金山跡や畑の沢温泉。千厩では金山に関わる史跡めぐりや白石家の門。磐清水では名のいわれともなった仙翁水や永沢寺の石仏三十三観音など各地の詳しい方々から説明を聞き、改めて郷土の素晴らしさを知ったようです。要望に応えられるよう今後も人材発掘につとめていきたいと考えています。あるシンポジュームの中で次のことばが印象に残っています。『ふるさとの歴史に学び、未来への道しるべを見いだすのだ。』

「奥玉小・中学校校歌を作詞した菊地知勇氏について」  (H13/10/1発行)
 奥玉小学校と中学校の校歌を作詞・作曲された方をご存知だと思います。作詞された菊池知勇(ともお)氏と作曲された森るり子さんは、親子の間がらで「奥玉」に思いをはせ、昭和25年に作られた菊地知勇歌碑両校歌。その後に卒業された同級生が同窓会で必ず歌われる詞にこめられた思いと奥玉のかかわりを記します。(文責:村上福)
菊池知勇(ともお)氏の名前を新聞でみた時、「奥玉小・中の校歌の作詞者ではなかったか」と思い、そのルーツを訪ね、後に短歌で名をはせた若山牧水の弟子となり短歌雑誌「ぬはり」を創刊し、短歌を日本中に広めた知勇の生い立ちを追ってみました。知勇は明治22年4月7日、渋民村曽慶字在口に生まれ、この年東はずれの柳峠に分家され引越し、
4歳で上曽慶小学校1年生として普通の人より2年早く入学。父・仁平さんとともに教室の中で勉強すると共に良く遊んだものでした。尋常小学校は、4年で卒業。明治31年4月、父は上奥玉小学校長として転任。(現在の宝築・千葉耕己氏宅)知勇は中奥玉の高等小学校に入学。(当時、大原と奥玉に高等小学校があった。)自宅の柳峠から奥玉の立石峠を越えて数人の仲間と通学。栗拾いやきのことり、ボール遊び等にぎやかで楽しく、立石峠から見る夕焼けの空やその下に広がる景色が思い出として残っていました。32年、短歌の「興玉会」が作られて父とともに興味を持ったようである。33年9月、折壁の浜横沢小学校長に赴任。知勇も下折壁高等小学校(現在の折壁小)その後卒業し、16歳で師範学校に進みます。その間、文学・史学の本など読書に打ち込み大人になって短歌や文学的才能を磨いたのでした。師範学校卒業後教師生活に入り、「生活自由の綴方」という新しい作文指導をしながら、若山牧水の短歌の雑誌に作品を発表。その後、東京に移り結婚。(るり子さんが長女として誕生。音楽学校へ進みます。)昭和2年に短歌雑誌「ぬはり」を創刊し、短歌指導に入り、第二次世界大戦で妹の婚家の大更村に疎開。昭和25年東京に戻り、再び「ぬはり」の創作活動へ。その頃奥玉小・中をはじめ折壁・津谷川等の各学校の校歌全部で29校を作りました。作曲は長女の森(土渕)るり子さんが手がけています。奥玉小・中学校校歌の歌詞にある一行一行は知勇幼き通学した頃の思い出が満ちあふれた内容になっています。
◎菊地知勇氏の生い立ちや作品は、大東町立図書館に所蔵されており、渋民公民館曽慶分館内事務所の「菊地知勇先生顕影会」で建立した菊地知勇歌碑(知勇が生まれた曽慶字才口:写真)説明に記されています。
【参考文献】・・・「ぬはり」菊地知勇追悼集。「郷土の偉人=知勇物語」(菊地知勇先生顕影会)佐藤雅彦氏編集。 大東町立図書館に所蔵。

「奥玉の名の由来」について   (H13/7/1発行)
 奥玉の名がなぜこの地でそう呼ばれたのか。勾玉(まがたま)とは何か?奥玉のことに詳しく、地名のゆかりがある桜森神社(写真)の宮司・奥玉昌代氏からお話を伺いました。(文責・村上福)
「興玉(おきたま)」から「奥玉(おくたま)」へ 水晶からできた勾玉の献上で地名をいただく「奥玉」の言われともいう「興玉」(おきたま)神社が祭られている
奥玉の昔は、縄文・弥生時代あるいはそれ以前から生活していたと推察されます。沢前遺跡などから出土した土器等からもわかります。西暦724年(神亀元年)に蝦夷(えぞ)地の征服拠点として、按察地(あぜち)鎮守将軍・大野東人(あずまんど)という人が多賀城を築いたと伝えられています。726年(神亀3年)に奥玉の鶴峯(現在の大東町摺沢・長者付近)から出土した水晶を坂本宿弥なる人が大野東人に献上したところ、大いに喜ばれ「興玉(おきたま)」の地名を賜ったと言われています。それがなまって「奥玉」になったと伝えられています。(奥玉村誌より)桜森神社内の興玉大明神を祭るにあたり「聖武天皇の神亀3年3月坂本宿弥なるもの、玉を大野東人に献ず東人これを地中に埋め、此地に祠(ほこら)を設け興玉神を祭る。」と伊勢神明碑文に記されていることからも明らかで「おきたま」がなまって「おくたま」になったことは考えられます。平泉。藤原時代その後の葛西氏や千葉氏が崇敬したとも伝えられ、明治6年に現在の「桜森神社」と呼ばれるようになりました。ちなみに祭日は陰暦9月16日。
 次に勾玉(まがたま)のことについてもふれなければなりませんが、奥玉中学校の校章をデザインするにあたり「玉を強く堅実に三つ組合せ『まがたま』のように磨くことによって、光輝けという願いが込められている。」といわれを述べています。(奥玉中学校閉校記念誌より)勾玉の役割ですが、装身具として縄文・弥生・古墳時代からみられましたが、材料も歯牙水晶のほかめのうひすい等が使われていたようです。胎児を模したとも言われ陰陽の形もしています。この貴重な勾玉を1200年前に献上され「興玉」の地名をさずかり、後に奥玉村となり、「上奥玉村」、「中奥玉村」、「下奥玉村」となったのは、葛西氏時代といわれ、後の伊達領や田村藩に編入されるなどの変遷を経て現在にいたっています。今後、奥玉の名を大事にしていきたいものです。

★発行:奥玉公民館 電話:0191(56)2950 FAX:0191(56)2906 皆さんからの情報をお待ちしています。