ジャン・ジロドゥ(Jean Giraudoux)が1939年に発表した戯曲『オンディーヌ(Ondine)』は、ラ・モット・フーケ(Friedrich de la Motte Fouque)が1811年に書いたメルヘン小説『ウンディーネ(Undine)』を原作とする三幕劇です。西洋には古くから天使や悪魔以外に、地・水・火・風の四大元素にも精霊が宿るとする考え方があり、それぞれ Gnome、 Undine、 Salamander、 Sylph と呼ばれていました。これらの元素精霊の中で、水の精 Undine だけが美しい姿を持つことができるのだそうです。



  オンディーヌは水の精。けれども、人里離れた深い森の奥に潜む大きな湖のほとりで、ひっそりと暮らす人間の漁師の老夫婦、オギュストとユージェニィの養女として成長しました。ある日そこへやって来たのは遍歴の騎士ハンス・フォン・ヴィッテンシュタイン。オンディーヌは凛々しい騎士にたちまち恋をしてしまい、ハンスの方も天衣無縫のオンディーヌにいつしか心を奪われてしまいます。水界の王はハンスの貞節を疑い、結婚に反対しますが、オンディーヌはそれを振り切って人間界へと嫁いでいくのです。もしハンスがオンディーヌを裏切ったときは、彼の命を奪ってもよいという契約を取り交わして...

  ハンスは城へと戻り、オンディーヌは騎士の奥方に。でも彼女は所詮妖精、何の芸事もできなければ、宮廷のしきたりや礼儀すらわきまえず、みなの笑い者になってしまいます。騎士の奥方など、到底勤まるはずがなかったのです。その上ハンスには旧い許婚ベルタがいました。彼女はハンスの心を奪い返そうと狡猾な知恵を働かせます。ハンスの心は揺れ、あんなにも愛したオンディーヌを、いつしかうとましくさえ思うようになっていきました。

・・・・・

  時は流れ、ハンスとベルタの婚礼の日がやってきました。オンディーヌがふたりの前から突然姿を消して既に半年が過ぎ去っていましたが、ハンスにはオンディーヌの残したことばが忘れられません。

  「あたしはあなたを裏切ったの、ベルトラムと !」

  ベルトラムは宮廷中でただひとりオンディーヌに好意を寄せた詩人。ハンスは自分が先に妻を裏切っておきながら、彼女の裏切りを許すことができず、八方手をつくして行方を追わせていたのですが、折しもそこへついにオンディーヌを捕えたという一報が入ります。ハンスはこのとき初めて、かつての自分の妻が水の精であることを知るのです。
  超自然の事件を裁くという、いかがわしい裁判官を迎え、ヴィッテンシュタイン家の中庭で裁判が始まりました。その場でもオンディーヌはあくまで自分がハンスを裏切ったと言い張りますが、そこへ水界の王が現れて彼女のうそが暴かれ、ハンスも妻がほんとうは潔白であり、今も変わらず自分を愛していることを信じないわけにはいかなくなります。どんな演技も水界の王を欺くことはできないのです。

  こうしてかつての妻の真実と愛と苦悩の全てを悟ったハンスは狂気にとらわれ、新たな婚礼のことなど忘れ果てて城の中をさまよった末、再びオンディーヌの前に現れます。このときふたりの心は、一瞬出会いの頃の強い結びつきを取り戻すのですが...

オ〜ンディ〜ヌ !

オ〜ンディ〜ヌ !!

オ〜〜ンディ〜〜ヌ !!!

  水界からオンディーヌを呼ばわる声が三度響き渡ったとき、ハンスの命は消え、オンディーヌの心の中の人間界における記憶も、水界の王の力で一切がかき消されてしまいます。そして彼女は、何事もなかったかのように姉妹と共に水界へと帰っていくのです。



  ハンスを愛しながらも、妖精であるが故に彼を失わざるを得ないオンディーヌ。純粋無垢な心が、いかに現実の人間の世界とは相容れないものであるかが見事に描かれていました。原作であるフーケの『ウンディーネ』も、当然ながらよく似た内容のお話ですし、確かに美しい物語ではありますが、騎士フルトブラントの妻となって後のウンディーネは、あまりにも理想化され過ぎた存在として描かれていて、やはりメルヘンの域を出ない作品でした。
  オンディーヌの方はハンスと結婚した後も少しも変わらず天真爛漫、世俗的な目から見ればとんでもない奥方ですが、それ故に却って水の精であることの悲しみが、観る者の心に伝わって来ます。限られた時間で演じられることを前提とした戯曲でありながら、文学としての価値は原作の小説をはるかに超えているといってよいのではないでしょうか。

  『オンディーヌ』の初演は、1939年パリのアテネ座で、ジロドゥと親交のあったルイ・ジュヴェの演出、マドレーヌ・オズレイのオンディーヌ、ジュヴェ自身のハンスというキャストで演じられました。マドレーヌはオンディーヌそのものといってよいほどの女優だったのだそうです。アメリカでは1954年に、かのオードリー・ヘプバーンとメル・ファーラーがオンディーヌとハンスを演じ、ふたりの間にロマンスが芽生えました。日本では劇団四季が1958年に俳優座劇場で『オンディーヌ』を上演していますが、おそらくはこれが本邦初演と思われます。

  私が日生劇場で劇団四季の『オンディーヌ』を観たのも、もうかれこれ30数年前、確か1965年と1966年のことでした。オンディーヌは加賀まりこ、騎士ハンスは北大路欣也が演じました。演出はもちろん浅利慶太です。日生劇場の舞台装置は当時としては高い技術レベルにありましたから、突如巨大なトロイの木馬を迫り上げてみせたり、流れる滝を出現させたり(もちろんほんとうの水ではありませんでしたが)と、スペクタクルもなかなかのもので、目を見張らせてくれました。
  そして何より... ああ、加賀まりこ! 美しい姿でした。きれいな声でした。まさに水の精そのものでした。純真な少年だった私は、加賀まりこのオンディーヌのあまりの美しさに目が眩んでしまいました。あの裁きの場を、涙せずに観られた人は少ないでしょう。しかし、対する北大路欣也もまた堂々たる体躯で、凛々しくも愚かな騎士を見事に演じており、存在感あふれるすばらしい俳優でした。主役は客演でしたが、劇団四季の作品としても、出色の出来映えだったのではないでしょうか。まさに一世一代の絶妙のキャスティングであったと思います。

  劇団四季は1953年に設立されてから、しばらくはジロドゥやアヌイなどのフランス劇を主なレパートリーとしていましたが、1970年代から次第にミュージカルにシフトしていきました。『オンディーヌ』も1988年を最後に公演が途絶えているようです。劇団設立当時のメンバーは既にかなりの高齢になりましたし、若い団員はフランス劇にあまり関心が無いのかもしれませんが、いつかまたこのようなすばらしい作品が上演される日が来てほしいものです。
  長野県大町市には、劇団四季が1995年に開設した立派な演劇資料館があり(地図は こちら )、さまざまの展示品によって、創立からの歩みを一望することができます。『オンディーヌ』に関しても、舞台装置の模型と北大路欣也が身に着けた甲冑が展示されています。しかし、公演の際に劇場で販売されるプログラムは、1991年頃からのものしか残っていないのだそうで、当時のものをもう一度手に入れたいという願いは、残念ながら叶いませんでした。

参考文献 1) 『オンディーヌ』 ジロドゥ戯曲全集 第5巻 白水社 (1958)
            ( 2001年7月に復刊されました。)
2) 『ウンディーネ』 武居忠通 訳 東洋文化社 メルヘン文庫 (1980)
3) 『フランス演劇史概説』 岩間孝 他 早稲田大学出版部 (1995)
  
L I N K 1) さえさんの 劇場四季報 から"劇団四季上演記録"を参考にさせていただきました。
2) Satopy さんのサイト より、ロマン派の作曲家ライネッケのページ。 フルート・ソナタ「ウンディーネ」のすばらしい MIDI ファイルがあります。



  1998年秋にオープンした四季劇場で、『オンディーヌ』が上演されたようですが、残念ながら観ることができませんでした。10年ぶりの公演に、四季は果たしてどんな布陣で挑んだのでしょうか。
Last Update : 29 Jul 2001
Created : 30 Apr 1998

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