前田さんの霊界通信

世紀末に贈る死についての哲学的小考察


死んだらどうなるかについて、キリスト教から離れて、純粋に哲学(言い換えれば思考)だけで、どのように考えられるか考えてみました。これは昔、信仰を持つ以前に、哲学書を読んだ記憶をまとめたものです。家がクリスチャンホームの方は、こういう経験(信仰を持つ前の経験)は無いと思いますので、役に立つかどうかわかりませんけれども、まとめてみました。

1. 死と意識について
意識があれば死は無いし、死ねば意識はなくなります。これはあたりまえのことですが、死ぬのが恐い恐いと言っている方は、今意識があるからで、死ねば意識がなくなりますから、恐いと思わなくなります。

2.死と時間について
生きていれば、時間はありますけれども、死んだら時間はありません。このことは私が考えるに大変重要なことです。よく死の恐怖の一つに死んだ後もずっと時間は続くと思っている方がいます。これを考えるのは、とても耐えられないことです。自分が死んだ後、時間が延々と続くならば、自分はどこにいればいいのですか?実は死んだら時間は無いのです。どうしてかって?理由は、次の節です。

3.外の宇宙(一般に学校で習う世界とか歴史とか言うもの)と中の宇宙(自分の意識)
学校では歴史を習います。それによれば、中国には4千年の歴史があり、日本にも、文字が伝来して以来、千何百年の歴史があると教えていますが、哲学者の中には、世界(言い換えれば時間)は、自分が生まれて目が見えるようになり、回りのものを認識できるようになって初めて生じると考える人もいます。物が先にあると考えるのをゆいぶつろん唯物論といいます。自分の目や感覚で知覚して物ができると考えるのをかんねんろん観念論またはゆいしんろん唯心論といいます。言い換えれば、木や花やえんぴつといったものが、それを見る人なしで存在するかということが、問題となるのです。

4.意識の連続性について
上の節で世の中の見方には唯物論と観念論があることを述べましたが、どちらの説を取るにしても、意識の連続性(言い換えれば、死後の世界またはキリスト教的に言えば体のよみがえり)があることは、間違いないことです。じつは、死んで死後の世界でよみがえったと感じるのは、意識の連続性があるからなのです。死後の世界であっよみがえったと感じるのは、生前の自分の意識があるからです。唯物論の立場を取れば、自分が死んでからは、自分のいない世界がずっと続きますが、唯物論は、自分の意識というものは、たくさんの分子(あるいは細胞)の結合の状態でできるといいますので、永遠の時間の間には、まったく死ぬまえの自分の意識が持っていたのと同じ分子の結合が偶然できることもあるでしょう。その時何十億年前の自分が突然よみがえるのです。パソコン用語を使えば、その時、よみがえった自分は以前の自分とリンクするのです。観念論の立場からでも、自分が死んだら物も時間もなくなるわけですから、何十億年の年月も一飛びです。その時、前の自分と意識の連続性を持った、目や感覚のある生物が現れれば、ああ自分はよみがえったと感じるわけです。

5.お説教じみた話になりますが……
ですから「意識の連続性」という言葉はキーワードになります。もし自分が今悪いことばかり考えていて、そしてそのまま死んだとすると、どうでしょうか。何十億年のちによみがえった自分は(言うまでもなく意識は一飛びです)、また悪いことばかりするでしょう。そうでなければ前の自分と意識がつながらないからです。イエス様が十字架の上でも(というのは処刑台の上ということです)遅くないから悔い改めなさいとおっしゃった意味は、死ぬ間際でもいいから清い心を持てば、よみがえったら、清い心を持つことになるということです。ですから、天国とか地獄とかいう所は、それぞれにふさわしい心を持った人が行くところです。いったい生前に悪いことばかりして日のあたる所より暗いところの方が好きだった人が、死んでから太陽のあたるところに行きたいと願うでしょうか。ですからイエス様が「悔い改めなさい」とおっしゃった意味はまさにここにあります。私たちはいつも清く正しく朗らかな心を持っていましょう。そうしたら死んだら、そのような心を持った人だけが集まっている、天国に行けますよっておっしゃっているのです。

前田好和
現在団体職員
年は40うんさい


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