失明危機の女性・******に関する資料

          07年10月03日
報告:****  

本   人: *** 
生年月日: 197*年*月
出 身地: ********


名前:****** 
生年月日:193*年*月  
死亡時期:199*年*月


名前::ユ******* 
生年月日:194*年*月
死亡時期:199*年*月

長女
名前: *****
生年月日:196*年*月
  現在行方不明

次女
名前: ***** 
生年月日:196*年*年 現在北朝鮮にいます。

長男
名前: ******
生年月日:196*年  
198*年、脱出時、北朝鮮安全局に捕まりその後、行方不明。

 

 私は197*年に普通の労働者家族の末娘で生まれました。
 当時、父はキム・イルセン総合大学の後方勤務をしていて、母は工場で働きました。
197x年、父親は文化革命に掛かって、咸鏡北道まで追放されて来ました。 
 父親は**冶金工場の建材課で働いていて、母親もその工場で働くことができました。

 (父が追放されて)成分が悪い我が家は生活で苦労しなければならなかったです。私が小学校に行く時も生活が困難なので、毎日干し菜の粥で生き延びました。中学校の時から、北朝鮮の状況は、もっと貧しくなりました。その時から、家庭で幸せを感じることが出来なかったです。

 夏には母親が山に登って採った山菜とドングリの食事が毎日を続きました。たまに、工場が配る小麦粉で粥を作って食べました。配給が十分行われないので、一度も腹いっぱい食べたことがありません。一度の食事が終わると次の食事を心配しなければならない惨めな生活でした。中学校3年生のころは、全国的に山の樹皮を削り取って、それを煮てやわらかくし、その中に小麦粉を入れて食べました。今もその時のことを思い出したら涙が出ます。

 199*年の秋、私は中学校を卒業した後、家庭の経済事情が悪いので、大学入学試験も受けず、富寧冶金工場の機能工学校へ入学しました。
 父親は年取って仕事をやめ、家で休んでいました。母親も同じように年を取り、働くことができなくなりました。
 私が2年間の勉強を終えて、冶金工場に入らなければ我が家族は、配給をもらうことができなくなるのです。そのため、199*年6月、私は他の学生より早く勉強を終えて、冶金工場で働きました。
不幸なことに、母親は病気になってしいまい、我が家庭の生活は貧困のどん底になってしまいました。
 私は199*年の春に仕事をやめて、いとこの姉と一緒に平壌に住んでいる叔母に会いに行きました。 叔母の家まで行きましたが、我が家の経済状態が悪いために、相手にされなかったのでした。私は親戚の間にも差別があることが分かりました。
 一番残念なことは、生活が貧困な理由で父母の兄弟姉妹も関係しないようになります。
そして自分だけうまく生活することしか考えなくなる人間になることです。

 私は4月に平壌から戻りました。*月に父親は脳出血で亡くなりました。家族は母親と私二人だけが残り、その時から私はコッチェビの放浪生活を始めました。 病気にかかった母親一人を家に残したまま、あちこちでもの乞いをしながら毎日路頭で眠ることが普通の生活になりました。
 母親は数日も飢えながら私を待ちましたが、私はそのような生活の中で人間性のない親不孝者になりました。飢えの中で、母親の病気は悪化の一途をたどりしました。
 私は199*年*月*日に長姉の家に行きました。姉がくれたお金800ウオンを持って家に着くと母親の最後の人生が私を待っていました。母親の姿はやつれはて、飢えたために、起きあがる力も無い有様でした。2月**日は脳内出血を起こして、誰が誰だか分からないようになりました。

 そして2月**日、電気もない真っ暗な部屋で、飢えと苦しみしを感じながら惨めに亡くなりました。
 一人になった私は母親の葬式をやって、もう一度コッチェビの生活をしました。4月**日に、二番目の姉の家に行き、五日間滞在しました。姉は私に商売して生きていけるようにと、とうもろこし50キロをくれました。
ところが私は清津に商売に行く途中、とうもろこしをすべて詐欺されました。
しかたなく、99年、 4月**日に私は見も知らない男と一緒に中国まで来ることができました。延吉で二日間休んだ後、その男と一緒に吉林省蛟河市チョンガンまでいきました。そこで6000元である漢族の中国人に嫁として売られました。中国語分からない私は、その婚家でいじめられて泣き暮らしました

 2000年3月、中国公安が脱北者を一掃、逮捕する作戦があるので、何処にも移動せず一年間私は吉林で過ごしました。
そして、2000年9月に妊娠して、2001年6月に男の子を産みました。しかし中国公安の取り締まりが厳しく、私は恐怖と苦しみの中で毎日を過ごしました。2002年秋に吉林市の農村から市内に移って生活することになりました。
 吉林市内の中国食堂で働きましたが、中国語もよく分からないし、働いた経験もないので、すぐやめました。その後、漢族の家で二年間保母として働きました。その漢族の雇い主が仕事のため華南地方へ一緒に行くことになりました。給料は一ヶ月100元が支給され、残りは吉林に戻った後、渡されるはずでしたが、残った給料は一元ももらえかったまま解雇されました。
 その間の疲れた生活と、貧しい、栄養のない食事が災いして目がだんだん悪くなりました。病院に行って診察すると、栄養失調で失明の危機だと診断されました。治療を受けなければ失明になる可能性のあります。 可哀想な私を是非助けてください。
 朝鮮族たちの話によると、韓国に行って治療を受ければ治す可能性もあると言います。
 今は、1メートル前の人もよく見えないほどです。 一日も早く治療を受けながら、自由を感じたいのです。
 今も、中国公安の取り締まりで、恐怖な毎日を過ごしている私を是非助けてください。

 

人身売買の犠牲者

名前:******* 
生年月日:196*年*月**日 
出身地:******* 
孤児

思い出すだけでも身の毛がよだつ、小説みたいなことをどのようにしたらすべて書くことができるでしょうか。
私が2歳の時、父が死亡して、4名のおばと1名の伯父が私を育てくれました。いとこの兄弟姉妹は、私にとっては親兄弟のようでした。

苦難の行軍時期(95年から98年まで)の当時、戦争現場と同じような状況で、引き続いて親戚に依存することができませんでした。
その時期は、道端で死にそうになった人たちを助け、中国へ連れて行ってくれる人たちがいました。そうした人たちは、本当に正義のあるように見えたので、私は彼らについて中国に行くことにしました。当時は妊娠中でした。

ある日、私を中国に連れてきた人は、私を3000元で売って、私の目の前から消えていなくなりました。
それ以来、ひどい、悪夢のような逃避生活が始まりました。初めて売られて行った所は吉林省のスラン(舒蘭県)でした。一ヶ月後に、何十里もの山道を歩いて逃げだしました。
 汽車駅で物乞いをして貯めた金で延吉に戻りました。
しかし、逃げ出しても行くところがありません。中国では人身売買にあって、うまく逃亡できたとしても、再び人身売買にあわなければならないのです。
逃げ出しても、頼って行くところがないので、再度人身売買に会わなければならない運命でした。

二回目に売られて行ったところは遼寧省葫芦島(フルト)というところでした。そこは言葉の通じない漢族だけしか住んでいないところです。 そこでは性暴行と暴力を繰り返し受けて、苦しみに苦しんで、人として我慢ならないすべての侮辱と恥辱を受けました。そこから三ヶ月ぶりに逃げ出しました。途中パスと汽車の中では聾唖者の振りをしながら、朝鮮語が通じ朝鮮族が多く住んでいる延吉に戻りました。

延吉市に着いたものの、既に妊娠していたので、次第に出産が近づいてきました。
しかし、道端で出産することもできなくて、仕方なく三回目に天津市のどこかに売られることになりました。
そこはアパートの5階でした。初日から部屋に閉じ込められてしまい、外から鍵がかけられ、中からは開きませんでした。
数日の後、現れた中国人は中国語で何か言うのですが、私には聞き分けることができません。わけも分からないうちに、男は屈辱的な性行為を要求してきたので、私は抵抗しました。そうすると、獣のようになって私に暴行を加えてきました。出産月になって腹が出ていたのにもかかわらず、お腹を足で蹴飛ばしまでしました。そして強姦までしたのです。

  私は中国では何の合法的な身分がないので、男の暴行を中国公安に申告することも出来ないし、逃げ出して公安に捕まったならば、強制送還されるという惨めな結果を想像したくなかったので、ただ暴行されるがままになっても仕方ありませんでした。しかし、我慢するのも、暴力を受けるのも限界があります。そんな恥辱を受けながら暮らしたくなかったのです。

窓から落ちれば死ぬと分かりながらも、生きて逃げ出すために、5階の窓から死を覚悟して飛び降りました。
 しかし私のような人はなかなか死なないようです。5階から落ちたところは幸いに板材とゴミが積んであったところなので、脚の骨が折れ、胸部が骨折しました。
飛び降りた現場には、人々が集まってきました。しばらくする車が来て、私は天津市公安局に連れて行かれ、公安局隣の病院に収容され、入院しました。
幸いに妊娠した子供は無事でした。翌日、病院で20日余りの早産でした。病院で15日くらい治療を受けた後、私は北朝鮮へ送還されることを知りました。
「是非私を延吉へ送ってください」
泣きながら天津市外事課課長に頼んだのですが、汚い言葉で悪口されました。
私は脚にギプスをし、生まれて一ヶ月もならない子供と一緒に丹東に送られました。そして新義州集結所に引き渡されました。
今も片一方の脚の骨折は、大体治りましたが、少し短くなって使うのに不便であまりうまく使えません。

病院にいる時、同じ病室にいた中国の人たちとその家族がお金200元と服をくれました。このお金のおかげで、3ヶ月間の長い集結所生活を終わることができました。
集結所の暮らしは、3ヶ月だがとても難しく、身の毛がよだつ時間でした。集結所で同じ部屋に一緒にいた女性も何人かが餓死して、伝染病にかかって死にました。
向かいの男の監房はもっと惨めでした。多い時は一日に6人ずつ死んで行くこともありました。
集結所から出ると冬になって、服装もありませんでした。
大人は問題ないけれど、子供は問題でした。満身創痍になって集結所を出たが、北朝鮮の冬はほんとうに苦しいものでした。
北朝鮮では冬を過ごすことができなくて、夜に子供を背負って氷った国境の河を越えました。着いたところは和龍市南坪でした。夜道を歩くことができなくて、一家のドアを叩きました。この家は**の****の家でした。そこで一晩過ごし、いただいた経費で延吉まで行きました。

延吉にいる***の親戚は子供が可哀想だと150元をくれました。

 翌日***の紹介で黒竜江省のある村へ行きました。初めて売られないで、紹介を受けて行ったのでした。
到着した家は、年寄りのお母さんと老とった息子が住んでいました。そこで子供までいる私を受けてくれたので、その家で3年間暮らしました。
その間にその人の願いで息子一人を生みました。
後で知ったことですが、その人は泥棒をした経験も、たびたびけんかをして刑務所に入ったことのある前科者でした。そうするうちに工場施設で窃盗し、逮捕されて、また刑務所に入りました。

私は一人で二人の子供を育てることができないので、長男を山東省のある所に養子に出し、次男の養育は夫の母親に任せて、2006年秋にお金を儲けるために延吉へ戻りました。

九死に一生を得て生かした子供が7歳になっても、勉強させることができなくて他人に養子にだした母親の心は、血涙が落ちます。

延吉に来ると、韓国牧師という人が私を韓国まで送るから、覚え書きに印章を押しなさいと誘います。韓国行きを誘いながら脱北者たちに性暴行をするし、無視しながら詐欺を働き、売ってしまおうとする人たちがいました。
しかし、その間何回も詐欺を受けた私は断って、食堂で洗い場の仕事を探しました。
そこでコック長をしている今の主人と付き合いました。私の身元を知っていてもいろいろと手伝ってくれました。取り締まりがあればその人は、私を連れて何回も家を変わって暮らしました。最後は今の山東省で暮らしています。
主人は経済状況が悪く、借金も多いので、韓国へ出稼ぎに行くことなりました。私は今どこも行くことができない苦しい境遇に陥っています。
この頃、山東省でも公安局の脱北者に対する取り締まりが厳しいです。
私には、国籍もないし、約束もない人生を送らなければならないのです。辛い生活から脱したいのです。切実な心でお願いします。助けてください。

よろしくお願いします。