脱北女性の証言

■二人の娘と共に地獄を経て
 私は北朝鮮出身の女性で、今年(2005年)40歳になります。1980年に高等教育を終えたのち、労働党党員になるためのキャリア・コースとして軍隊に入りました。軍隊では、1980年8月から1987年1月までの約7年間、ピョンヤンにある防空部隊に勤務しました。約5年間は地方管区人民委員会(local district People’s Committee)の上級公務員であり、また1987年4月から1997年5月までの10年間は工場の在庫管理者をしていました。1988年には運転手と結婚し、二人の娘が生まれましたが、1997年に離婚しました。

■北朝鮮の刑務所で切断された私の赤ちゃん
 1995年、工場の在庫管理者としての収入だけでは家族を充分に支えていけなくなったため、私は中国の靴を北朝鮮の地方の市場で売るという商業活動に従事するようになりました。労働党党員としては資本主義的な活動をすることに対する警戒感を持っていましたが、その当時は、どうにかして生きのびなければならないという厳しい現実のせいで覚悟を決めました。その結果、1995年5月に私は地元の警察に逮捕され、平安北道ピョンソン市にある軽警備刑務所での6か月の服役を言い渡されました。当時私はすでに妊娠6か月でしたが、刑務所の看守は妊婦に対する配慮などほとんど持ち合わせていませんでした。刑務所での労働は非常に厳しく、我々受刑者は、例えば重い藁の束を運びながら裸足で走ったりしなければなりませんでした。妊娠しているからといって重労働から免除されることはありませんでした。

 刑期2か月目に、私は突然破水し、陣痛が始まったのでうずくまってしまいました。赤ちゃんが産まれようとしていたのです。刑務所の看守は私を簡易診療所に連れて行きましたが、その頃には産道から胎児の両方の足が出ていました。私はその後20時間くらい意識を失っていました。目が覚めた時、私はまだ同じ手術台の上にいました。その台の下に布に覆われた物があり、赤ちゃんの頭だけが見えているのに気づきました。布を取ってみると、とても恐ろしいことに、男の子の赤ちゃんの体がばらばらになっているのを発見しました。私はこの悪夢のような光景を目にして、ショックのあまり悲鳴を上げました。赤ちゃんの遺体は、すぐにどこかに運ばれてしまいました。その部屋には、今にも赤ちゃんが産まれそうな約10人を含め、およそ30人の妊婦がいましたが、私がこの病室にいた3日間で、産まれた赤ちゃんが窒息死させられるケースを10件見ました。それを実行するのは、8?10人の警備員グループです。このぞっとするような苦痛の間じゅう、女性たちがベッドを取り囲むカーテンの向こう側で抑えきれずに泣き叫んでいるのが聞こえました。警備員たちは赤ちゃんの遺体を汚い麻袋に入れて運び去りました。私の健康状態はとても悪く、唇をひどく噛んでいたため、何日間も水を飲むことさえできませんでした。安全のため情報源を明かすことはできないものの、当時の刑務所での信頼できる情報によると、毒を盛られて産まれた赤ちゃん(babies poisoned and delivered)は内臓を摘出され、残りの肉の部分は乾燥させて挽かれ、酒と一緒に看守たちに出されていました。

■聖書を読んだことで公開処刑された私の従兄弟
 1998年10月、私の母の死後最初の誕生日に合わせて開かれた小さな親族の集まりで、私は親友に「だれが国家の指導者になるかなんてどうでもいいわ。私はただ、一刻も早い統一を望みます。それだけよ。」と言いました。この発言のせいで私は国家保安局(State Security Agency)に逮捕されましたが、農民である従兄弟、キム・ヨンサムから聖書を受け取ったことで単独に厳しく取り調べられ、彼も聖書を読んだということで逮捕されていました。実は、彼は中国から3冊の聖書を受け取り、夜遅くまで聖書を勉強していたのです。彼の妻がその秘密の勉強のことを当局に密告し、彼は拷問を受けてその聖書のうちの1冊を私に渡したことを白状しました。

 私は手足を縛られ、3日間天井から手を吊られ、全身を角材でひどく叩かれました。これは北朝鮮の真冬のことでした。尋問者は時々、私の冷たい体に冷水をかけ、外に通じるドアを開け放しにしたので、私は突き刺すような風に晒されました。吊されている状態のまま用を足し、動悸を通じて血が頭から背中へ流れるのを感じました。腿は大きな丸太のサイズにふくれあがってしまい、膝の痛みは耐え難いものでした。そこではとても汚い食べ物を食べさせられたので、時には我慢して食べることができませんでした。粗末なトウモロコシ粥のせいで吐いてしまったり、スープ皿の底には砂が溜まっていたりしました。私はひどい食べ物に対する抵抗として、1週間近く飲食を止めました。当局側は私からの情報が必要だったので、私の口に角材をはさんで無理に口を開けさせ、口に米のスープを流し込みました。そして、男性の警備員が私を裸にして2週間懲罰室に入れました。その部屋はとても狭かったため、立ち上がったり体を伸ばしたりすることができず、排泄物を受け止めるために床に空いている小さな穴の上にただしゃがんでいることしかできませんでした。壁にはギザギザに尖った金属片がついていたので、壁に寄りかかることはできませんでした。クロスチェックのため数回従兄弟に対面させられましたが、彼はとても惨めな姿をしていたので、最初に見たときは彼だということがわかりませんでした。彼の両脚は折れ、指には爪がなく、ひどい怪我をして弱っていたので、話すことも殆どできませんでした。その年の12月、咸鏡南道シンポ市ヤンファリにある農協近くの丘の中腹で、彼は公開処刑されました。懲罰室から出された後、私は何日間も歩けませんでした。30日後、例の親族の集まりで「自分ならキム・ジョンイルより上手くやれる」と言った男性を見かけたら直ちに報告するという条件付きで、とうとう私は釈放されました
(*ここに添付された韓国の医療証明書は、外的衝撃による脳しんとうと膝蓋骨の重い怪我を証明している)。

■二人の娘と共に、中国への最初の脱出
 この頃までには、北朝鮮の受刑者に負わされた人間性を奪うような待遇にとても幻滅していたので、釈放の数日後、二人の娘(14歳と11歳)と共に中国に脱出するため国境近くの町に逃げていきました。1999年1月上旬のとても寒い日に、娘たちを連れて何とか中朝国境を越えることができました。1ヶ月間、夜間に雪山を歩き、1999年3月25日に吉林省吉林市に到着しました。私たちがそのような厳しい試練を生き延びることができたのは、全く奇跡と言うしかありません。

 1999年6月上旬、中国から韓国に行こうとして、娘たちと共に中国・ベトナム国境を越えました。この時私たちは発見されて、ベトナム側の警備犬に噛まれ、国境警備隊に逮捕されました。ベトナムで2ヶ月間拘留された後、釈放されて中国に戻りました。中国に戻った後は、一時しのぎの小屋や橋の下などに住んでいました。

■中国当局による北朝鮮への送還
 非常に運の悪いことに、私たちは2002年7月10日に逮捕されてしまい、図們市にある中国の国境刑務所に送られました。そこでは約1週間取り調べを受け、その後北朝鮮に送還されました。北朝鮮に到着するとすぐに、女性警備員による検査のため裸にされ、お金を隠していないかどうかを調べるため、とても不快なことに肛門と膣まで検査されました。私の14歳と11歳の娘も、この侮辱を免れませんでした。私たちはオンソン地区国家保安局で15日間留置され、この間に10人以上の収容者が残忍な警備員の手で殺されるのを見ました。

■出産時に殺された6人の幼児
 上記の期間の後、私たちはオンタン地区オンソンKunupのオンソン地区労働鍛錬所に1ヶ月間行くように命じられました。ここでは、収容者に対する通例の残酷な処遇に加えて、乳児の殺害も行われていました。鍛錬所には収容者用の大きな部屋が2つあり、一つは男性用、もう一つは女性用でした。乳児の殺害は、女性たちが戸外へ働きに出る昼間の時間帯に女性用の部屋で行われていました。時には、女性たちが労働を終えて部屋に戻ると、まだ出産中の女性がいたりすることもありました。そんな時、女性の労働者たちは、出産が終わり乳児が殺されるまでの間男性用の部屋に送られました。収容者たちは、隣の部屋にいる母親たちの呻き声や赤ちゃんの泣く声を聞くことができました。30センチ四方の小さな窓から、乳児の殺害を秘かに盗み見る者もいました。

 ある日、鍛錬所で頭に負った古傷のせいで激しい頭痛がしたので、他の収容者が男性も女性も皆外で働いている時に、私は労働を免除され、小さい子どもたちと一緒に男性用の部屋にいることを許可されました。昼食後、私は女性用の部屋に来て、収容者に「国家保安局(SSA)おばさん」と呼ばれていた女性職員(本当はキム・オクスンとかいう名前でした)を手伝うように言われました。女性の部屋に入ると、6人の女性が下半身裸で横たわって出産中でした。ある男の子の赤ちゃんがちょうど産まれたばかりで、女性医師はまだ泣いているその赤ちゃんを逆さに持っていました。医師の手はビニールシートで覆われ、血だらけでした。医師は、5%デキストロースを母親に静脈注射するための手助けを必要としていました。明らかに、この母親は何らかの方法でこの「貴重品」を買うことができたのです。私は自分のブラジャーを使って彼女の腕を縛り、殺菌もせず、注射針を適当な位置に固定するテープもないまま、注射をしました。その午後、その部屋にいた女性たちから、女性医師が彼女たちの膣に薄青い液体の入ったカプセルを挿入していたことを知りました。その約6時間後、女性たちの陣痛と出産が始まったのです。その日私は、叫び声と血のただ中で6人の出産に立ち会いました。6人の赤ちゃんはみな生きて産まれた男の子でした。出産に時間がかかった女性たちの赤ちゃんは、夕方に産まれました。暗い部屋には灯油ランプが灯され、部屋にいる人は皆、灯油の煙のせいで鼻が黒くなっていました。赤ちゃんたちは全員窒息死させられ、布にくるまれて何時間も床に放置された後、どこかに運ばれていきました。女性たちは皆、出産後に地元の警察によってやはりどこかに連れて行かれました。私たち収容者には彼女たちの運命はわかりませんでしたが、彼女たちは解放されたのだと言う収容者もいました。

■剣で打たれる
 この出来事の後、地方警察の拘留所(provincial police detention camp)に送られ、私たちの故郷の警察がやって来て私たちを引き取るまでの約1ヶ月間拘留されていました。私はある日そこで、それ自体がすでに重い木のバケツを使って、井戸から水を汲み上げる労働を課されました。警備員は、私が水を汲むのが遅かったためにとても怒り、剣で私の左腕を叩いたので、肉が切れてしまいました。私の腕には今でもその時の傷痕が残っています。私の故郷の警察署では、またも1ヶ月間恐ろしい取り調べを受け、2002年11月の終わりにようやく釈放されました。

■二回目の脱北と韓国への到着
 その20日後、私は身を隠し、2002年12月6日に2度目の脱北を果たしました。2004年4月1日には何とか韓国大使館に入ることができ、同年9月に韓国に到着しました。