

ラオスとビルマ、タイの国境を悠然と流れるメコン河
脱北者は「自由と安全と希望」の地をめざす
C O N T E N T S
| 北朝鮮難民救援、定住政策を急げ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | 加藤 博 |
| 売られた17歳の少女の運命 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | 柏倉光太郎 |
| 26歳のコッチェビとの出会い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | 林 秀一 |
| 私たちは日本に帰りたい! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | 会津千里 |
| 9月、北朝鮮人権状況国際会議inバンコク ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 海老原智治 |
| 10月、グローバルフェスタJAPAN2007 | |
| お知らせ | |
| 4回北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟総会inソウル | |
| 元教育里子たちとの1泊交流会 | |
| 定住、定着支援ボランティア募集 |
| 北朝鮮難民救援、定住政策を急げ |
| 加藤 博 |
わずか7メートルの10ノットしか出ない船外エンジンをつけた木造船で、青森県の深浦港にたどり着いた脱北者親子4人の事件は、日本中に衝撃を与えた。
北朝鮮の清津から850キロメートルの距離を10日間かけて日本海を横切り、奇跡的に日本上陸を果たしたからである。
日本では、これまで北朝鮮の人権問題と言えば、日本人拉致問題しかないような観があったのに、突然、北朝鮮難民問題が、突きつけられた格好になった。
北朝鮮難民が押し寄せる不安
いよいよ、これからは北朝鮮難民が次から次へと押し寄せてくるかも知れないと不安に駆られた人もすくなくないだろう。
これまで脱北といえば、陸路中国に脱出し、周辺国のモンゴル、東南アジアのベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、タイなどを経由して韓国、日本、アメリカなどに行くのが常識だったからである。
海路を使って日本に到着するとは想定外の事件で、各紙はその意外性に大々的に報じるほどの衝撃的な大事件になった。
地方自治体に対策なし
それでも現場の警察、地方自治体は全く蚊帳の外で中央の命令を待つしかなかった。青森県の地方紙記者は、県警からの情報が一切なく、中央紙から出し抜かれるばかりで地団駄を踏むばかりだったと悔しがる。
北朝鮮から難民が海路による大量脱出を想定するような論議が4−5年前に各省庁の関係担当者と官邸で行われたと報じられたことはあったが、今回の対応ぶりからは対策が十分に確定されていたとは思えない。
中央と対応を協議したことはない
海上からの難民は第一義的には海上保安庁の所管、陸地に上がる時点では入国管理局、上陸した後は警察とばらばらの対応になる。
気になるのは沿岸自治体や国の受け入れ態勢だ。脱北者の対応は各地を所管する入国管理局が担当、各地方自治体は国の要請にもとづいて行動するだけなので、中央と対応について特に話し合ったことはない、というのが地方自治体の反応だ。
今回は4人が韓国行きの意志を、日本上陸時点から明らかにしていたこと、折りしも韓国で日韓外相会議がおこなわれており、韓国外交通商相が即座に4人の意思を受け入れると表明したので、後は日韓の実務レベルの話になって一件落着となった。
日本に定住したいと言ったら?
しかしながら、4人が実は日本に定住したいのだ、と言ったらどうなるのか。
日本政府は上陸を認めた以上、人道的に処理しなければならない。難民認定をすれば、難民を収容する施設が必要になる。その上、脱北者が定住を求めた場合、社会生活を送るに必要な能力を身につけさせなければならない。義務教育程度の日本語能力、社会生活を送るのに必要な収入のある職業は最低限必要だ。
だが、脱北者を収容する施設はない。北朝鮮の工作員や犯罪者でない限り、上陸した所轄の警察署に留め置くことは出来ない。それならば入国管理局が収容するのか?現在、入国管理局が収容しているのは、入国管理法違反で強制退去令の執行までの間の収容を想定したもので、日本社会に積極的に受け入れるための施設ではない。そうならば地方自治体が受け入れることになるのか。しかしながら地方自治体も脱北者を受け入れることを想定した対策はない。
法律が整備されていない
結局、法律が整備されていない以上、海上保安庁、警察、入管、地方自治体の間をたらいまわしにするしかないのである。
今回の4人の脱北者の日本上陸は、日本政府も北朝鮮難民が海路日本を目指すことを全く想定していないことを明らかにした。
北朝鮮に拉致された行方不明者を調査する特定失踪者問題調査会の荒木和博代表によれば、日本海側の島根、鳥取、京都、石川、福井、新潟、秋田、青森、北海道に漂着した北朝鮮から来たと推定できる無人の船、あるいは死体の乗った遭難船の数は60艘を超える、と言う。
これらの船は、日本上陸をめざして、北朝鮮の海上警備の目を潜り抜けても、不幸にして日本に到達できなかったと考えられる。
難民運搬ビジネスの可能性
海路による脱北ルートは陸路とは違った危険と困難を伴うが、今後さらに安全性を工夫した方法があみ出される可能性は高い。北朝鮮の統治能力の低下、混乱次第で海上警備当局の一部が、難民運搬ビジネスをはじめる可能性だって一概に否定は出来ない。
そうなれば、ますます脱北者の受け入れ、定住対策は急がなければならない。
これまで日本に帰還した脱北者の数は、各種報道によれば130人以上だと報じられている。しかし、これは’06年の前半に出された数字で、現在は200人近い数の脱北者が日本で密かに暮らしている、と見るのが妥当ではないか。今後、その数は増えこそすれ、減ることはないだろう。
お寒い受け入れ状況
日本政府は、これらの脱北者を難民ではなく、人道的な見地から受け入れている。かつて日本に永住していた人で、59年から大々的に始まった「北朝鮮は地上の楽園」「民族自決権」などと朝野を挙げてのキャンペーンで北朝鮮に移住した元在日朝鮮人、日本人配偶者の3親等までを受け入れの対象としている。
これらの人々に対する日本政府の対策さえ全くない。昨年議員立法で成立した日本版「北朝鮮人権法」は、これから取り組むべき努力目標しか書かれていない、お寒い受け入れ状況なのだ。
受け入れまではするが、その後は住居にしろ、職業にしろ、日本語教育にしろ、全て
脱北者が陸路、空路、海路にかかわらず日本に定住を求めた場合、日本政府は人道的な見地から受け入れた者に対しては収容施設を整備し、日本語教育をほどこし、職業訓練をし、就業援助を行い、健全な日本社会の一員となれるように積極的に対策を立てるべきだ。
日本社会への定住を指導する母体は、政府機関だけで運営するのではなく、難民救援の立場に立って活動してきた実績のある
定住を考え、自立を目指す人々に対しては、日本社会の繁栄部分だけを語るのではなく、生活の厳しさ、生活慣習、文化の違いなども実生活に即して繰り返し説明し、納得させるきめ細かな、忍耐と愛情を持った人材が必要である。
それでも受け入れ、定住が困難と判断される場合は、より環境が整った韓国政府の受け入れを働きかける。この場合でも、政府間では交渉がまとまる可能性はなく、定住支援
| 売られた17歳の少女の運命 |
| 柏倉光太郎 |
金春花(キム・チュンファ)は、2001年の2月、外はマイナス20度にもなろうとしている冬の晩にシェルターJRD-01で出会った11歳の少女だった。母親は、北朝鮮咸鏡北道茂山郡の出身だった。この中国側の朝鮮族の農村は咸鏡北道茂山郡と豆満江をひとつ隔てたいわば隣村だ。
最初に少女に会った印象は、利発で笑顔のかわいい女の子だったという記憶がある。母親は自分と娘の安全を守るために村の朝鮮族の男と暮らし、少女は居場所がなくて可愛そうで同情心をかき立てずにはいられなかったのを覚えている。私の目の前から姿を消したとき、いい働き口があるからと、朝鮮族の男の誘いに乗ったのだと聞いていた。
今年5月、6年前に別れた少女が今は17歳になって、突然私たちのシェルターに現われたとの知らせに驚いた。かつての少女の表情から聡明さが失われ、思考回路が中断した時に見せる呆けた表情と動作に驚き、私は落胆を隠すことが出来ない。精神を病んでしまったのか。あの聡明さは何処に行ってしまったのか。この空白の6年間に彼女の身に何が起きたのか語るとき、ときおり苦痛に顔をゆがめ、泣き出すこともあった。
両親の離婚、継母の虐待
春花は、1990年11月、咸鏡北道茂山郡で、母親・崔美淑(チェ・ミスク)と父親・李ヨンホとの間に生まれた。
父親と母親は春花が2歳のときに離婚。金春花はお父さんと継母3人で9年間暮らした。継母の鋏などで刺された虐待の傷跡が、右手の甲に生々しく今でも残っていた。彼女の話では胸にも鋏で刺された傷跡があるとのことだ。
小学校の教育も、脱出してからの中国でも落ち着いた学校生活はつかの間の出来事で、教育らしい教育はほとんど受けておらず、ハングル文字も書けない。
祖母と継母と父親との4人暮らしのところに2001年2月、春花が11歳の時に実の母親が突然現れた。母親は春花を連れ一緒に中国へ脱北するが、春花は母親がいつ脱北して中国で暮らし始めたかを知らない。
だが、母親は既に中国で中国朝鮮族と一緒に暮らしていた。母親が結婚した男性は母より年下で、春花は「小父さん」と呼んでいた。ここで母、小父さん、おじさんの母親であるお祖母さんと4人で延辺朝鮮族の農村で暮らすことになった。
繰り返される脱北者狩の恐怖
実は、先に中国へ脱北した母親は娘のことが心配で娘探しに北朝鮮へ戻ってきたのだったが、再度娘を伴なって中国へと脱北してみたものの、延辺の農村での4人暮らしは楽なものではなく長続きはしなかった。
貧乏な暮らしのために、些細なことでも義理の父と母親の口論がたえなかったし、激しい喧嘩に発展することもあった。これが原因で誰かが公安に密告しかねないと周りが心配するほどだった。
時おり繰り返される中国公安の脱北者狩りの摘発が怖くなって、母親は娘の金春花を連れて自ら北朝鮮へ戻る決心をした。
そのとき日本の支援者たちが贈った教育資金をためた「日本円1枚と400人民元(当時は1元=15円)を持って北朝鮮に戻った」。
ここで日本円1枚と言うのは、1万円札1枚のことだ。確かに記憶がある。
これは2001年11月のことだった。
保衛部の監視、脱出、失敗、強制送還
北朝鮮へ戻っても、母親は病気で仕事は出来ず、また常に保衛部の監視下に置かれていて、生活はまた苦しくなってきた。
2002年の冬12月、母親は娘を連れて再び脱北を決心する。ブローカーに頼んで豆満江をうまく渡ったが、中国側でその日に中国公安に捕まり強制送還された。
「母さんはそのまま刑務所に入られ、幼い私はコッチェビ(浮浪児)たちを収容する施設に入れられた。そこで毎日牛の世話をする仕事を割り当てられ、毎日朝7時から夜8時まで働かされた」
2年後の2004年冬、春花は釈放された母と再会する。その一年後の2005年3月に母と共に再び中国へ脱出する。
中国の人身売買ブローカーの手に落ちる
しかし、脱北を手助けする北朝鮮ブローカーが母子二人とも中国の人身売買ブローカーに引渡し、母子はブローカーの間に挟まれ、延吉から瀋陽に乗用車で運ばれた。途中に警察の検問所はなかった。
ブローカーは春花を連れてきた所を「瀋陽」と言い続け、土地勘や地理の知識のない彼女に「自分の連れて来られたところは瀋陽」と信じ込ませた。彼女は再び私たちのシェルターに戻って事情を説明するまで、自分の売られて行ったところは瀋陽だと信じていた。売られていった場所には、船や魚網があったことを知っていたが、瀋陽には海がないということは知らないままだった。
郊外のある農家に監禁状態になり、そこには多数の男たちが出入りしていた。つまり嫁買いに来ていた男たちだった。娘の春花は背も小さくまだ子供だったので誰も手を出さず、売り手は何回も断れたそうだ。
母親は先に何処かへ売られて行った。何処に売られたのか、場所は今日まで不明のままである。
この人が私を買った
数日して昼3時頃、30歳代の若い男が現われた。春花をよく見つめて品定めをした後「連れて行く」と返事をしたようだった。それで、春花は4時ごろにその農家から解放され、その男と一緒に何処かへ移動し始めた。
「後で分かったことだが、この人が私を嫁として買った人だった」
何時間車で走ったか良く知らないが、やっとその男の家に着いたのは夜の8時頃だった。
「家の中に入ると10人ぐらいの人たちが集まっていて、私を歓迎しに来たような雰囲気だった。みな中国語でしゃべっていたし、笑いながら大騒ぎしていた。中国語の会話はまったく訳分からなかった」
夜が遅くなって、集まった人たちは一人ずつ帰り始めた。残っていたのは春花を連れてきた男を含む4人だけだった。
その日は、春花は別の部屋に一人で寝ることになった。次の日も、また次の日も同じだった。
3日後の朝、家の男たち3人は朝から荷物を整理し始め、何処かへ出かけようと準備している様子だった。3人はその日出かけた切りで、ずっと戻って来なかった。
そのときは3月で、農家では種まきがシーズンだったので、家に残っていたお婆さんと一緒に春花は畑に出る毎日だった。
4ヵ月後の7月15日、出かけていた男たち3人は家に戻ってきた。漁業で海に出ていたことがやっと分かった。その家は漁業を営む農家で、両親と双子の息子がいる4人家族だった。
この男がお前の夫だよ
男たちが海から戻ってきた夜、お婆さんが春花を連れてきたその若い男の前に春花を連れてきて何かしゃべっていたが、春花はその意味がわからなかった。
もう一人の30代の歳の男は何処かへ出かけていたのか、その時はいなかった。
お婆さんが春花の布団をその男の布団と一緒にしていた。やっと春花はお婆さんがさきほど何を自分に話していたか分かった。「この男がお前の夫だよ」ということだった。
しかし、不思議なことに私と「夫」になるその若い男が一緒に布団の中に入って寝ようとしても、お婆さんとお爺さんは部屋から出ようもしなかった。私たちの横に布団を敷いて一緒に寝ようとしているのだ。
親の前で無理やり関係を強制された
「『夫』は親たちがいても全く気にせずに私の服を脱がし始めた。その時の『夫』は既に裸になっていた。生まれて初めて男性の裸を目にしたのでとても恥ずかしかった。『夫』には従うしかなった。でも親たちが横で見つめているその前で、裸にさせられ、無理矢理、関係を強制されるなんてと思って本当に腹が立ち、悔しかった。抵抗しようとしても無駄だった。結局、男の腕力で抑えつけられ無理やりにその男の食い物になってしまった」
これはあくまで春花の推測だが、親たちは自分の息子が男として機能するかどうかを確認しようとしていたようだった。
春花を嫁にしたのは、双子の息子の弟のほうだった。
お前を2万元で買った
「お前を買うためにブローカーに2万元払ったのはおれだ」と、春花は後から「夫」に聞かされて分かった。
昼は農作業をして、夜になれば毎晩同じように「夫」から押さえつけられ、無理やり裸にされ、暴力的に性交渉を求められた。
一週間後になってやっと春花は「夫」と一緒の部屋で寝、親たちと別部屋になった。しかし、「夫」は毎晩寝ずに春花の体を虐めていた。下半身が痛くて、痛くて必死に抵抗したが無駄だった。
今度は兄が襲いかかってきた
性的奴隷な日々が続いているある日、「夫」の兄が誰もいない隙間を見計らい、昼にもかかわらず春花に暴行しようと襲いかかってきた。春花はもう男の顔を見ることすら怖くなってきた。必死に大声を出しながら抵抗すると「夫」の兄は逃げていった。
それでも夜になると夫の性的虐待が始まり、止まることはなかった。漁には出かけず、家族が毎日家にいる日でも続けていた。
その中で家族喧嘩も頻繁にあった。喧嘩になると、突然お婆さんはまるで精神病患者になったみたいに家の物を手当たり次第に投げたり、壊したりするのだ。
「夫」とも兄とも喧嘩になり、家にあるオートバイも全部壊してしまった。
またある日、「夫」の兄は、自分の弟がいない時に私に暴行しようと機会をうかがっていた。狙われた時は、助ける者もなくいくら抵抗しても無駄だった。一度成功すると、その後から兄も私に性的虐待をし始めてきた。
脱出を決意、このままでは死んでしまう
このような事が毎日のように続いた。このままではここで死ぬに間違いないと思い、毎日お婆さんからもらっていた1元、5元、10元の小遣い銭を貯め始めた。この家から逃げ出すには切符を買うお金が必要だったからだ。
ようやく400元が集まり、2007年5月20日、家に誰もいない隙を見て家を出てその村から逃げ出すことが出来た。
しかし、周りには誰も頼りにできる人はなく、母親の居場所を捜す方法もなかった。
そこで思い出したのは、6年前にお母さんと結婚し、自分も9ヶ月も一緒に生活していたことのある小父さんのことだった。それで延辺に向かうことにした。
延辺と書いた紙片は大事に持って
春花は中国の地理をまったく知らない。簡単に瀋陽、延吉と地名を書いた紙片を大事に持って、それを見せて尋ねながらバスに乗り、列車を乗り継いで延吉を目指したという。運よく途中で何のトラブルもなく、春花は家を出て3日後の早朝の4時にようやっと延吉に辿り着くことが出来た。
駅前で親切そうなタクシー運転手を選んで、昔の記憶を思い出しながら、行き先を告げた。6年前にお母さんと一緒に住んでいた小父さんの家を探すことも出来た。
小父さんの家に入ってみたが、頼りにしていた小父さんはいなかった。年老いた小父さんのお母さん一人だけが春花を迎えてくれた。何よりも同じ朝鮮民族で言葉が通じることから一安心する。しかし、もう6年も前のことでお婆さんは春花のことを忘れている。春花は小父さんと暮らした自分のお母さんのことを話した。するとお婆さんはやっと思い出したようだった。
頼りの小父さんは韓国へ出稼ぎに
しかし、頼りにしていた小父さんは1年前から韓国へ出稼ぎに行っていた。この家はそもそも、生活が貧しい家だ。お婆さんがひっそりとひとり暮らしをしていたので、お婆さんの力では春花を助けようもない。
お婆さんは春花をしばらく家で安心させた後、6年前に春花とお母さんを支援していた村の教会に春花の保護を要請してきたのだ。村の教会は公安の監視が厳しく、匿った場合の処罰が厳しくて春花を匿うことはできなかった。発覚すれば、教会は取り潰し、閉鎖され、莫大な罰金が科せられる。
今後の春花の運命はどうなるのか、中国に頼る身よりもなく、北朝鮮に残る親族もない。中国へ脱北してきた幼い少女が自ら運命を切り開くにはあまりにも過酷だ。
私たちのシェルターJRD-01は既に定員を超えており、これ以上保護することは無理だった。
中国国内にも居られない、北朝鮮にも戻ることが出来ない。こうした場合は、第三国を経由して韓国にたどり着くしか自分の身を守る方法はない。救援チームが早速編成され、地下鉄道の整備が始まった。
春花が無事中国を脱出し安全圏に到着できる保証はない。それでも1パーセントでも可能性があるなら、そこに挑戦するしか生きる道はない。無事に安全圏に到着することを祈るのみだ。
| 26歳のコッチェビとの出会い |
| 林 秀一 |
2007年5月15日、仕事の出張先である延辺のある北朝鮮レストランで食事を済まして外に出ると、乞食のような姿をしている背の小さい男の子が後を付けてきた。静かな人気が少ない街路まで付いてきた男の子は、突然前に出てきて「助けてください、私は北朝鮮から逃げてきました。」と声を掛けてきた。
「お前、知らない人に勝手に声を掛けて、北朝鮮から来たと言って怖くないのか?」と聞いたら「誰が良い人で誰が悪い人か、私は一目で分かります。私は韓国人か観光客にしか声を掛けません。」
「何で俺が観光客だと判断したの?」
「レストランの扉を出るときから二人は中国人でないことが分かりました。このレストランを訪ねる客は殆どが観光客です。」とニコニコしながら答えてきた。
― それでは分かった。どう助ければいいのか?
「私に300元(1元=17円)下さい。400元あれば清津に戻って、商売しながら年寄りのお祖父さんと一緒に暮らせます。昨日は韓国人から100元とこの服(着ていた服)、時計をもらいました。あと300元あれば、明日でも清津に戻りたいです。」
― 今はどこに泊まっているの?
「教会の近くの川辺で寝ます。」
― 1人で?
「はい」
― 今日はご飯食べたの?
「いいえ、パン一個しか食べていません」
― 何か食べたいものがあるの?
「犬肉(ケジャン)」
筆者はこの子のしゃべっている事が真実かどうか確かめるために、ゆっくり話してみようと思い、近くの犬肉専門店につれて行った。
とりあえずお腹いっぱい食べさせようと思い、大盛サイズの犬肉クッバ(具入りスープにご飯を混ぜて暖めた料理)ひとつに、帰りに持たせようと肉料理のお弁当二つを頼んだ。
生まれて初めて犬肉を食べるという。汗をびっしょりかきながら大きい茶碗のスープまで一滴も残さず全部干していた。
子供のときからあまり熱い料理は食べられず、熱いものには弱いといいながらすばやく食事を済ましていた。
お腹もいっぱいになり、徐々にこちらへの警戒も緩み始めたのか、質問にも淡々と答え始めた。
― 歳はいくつ?
「26歳」
― 何処から、何時来たの?
「3日前に、北朝鮮清津から来ました」
― 1人で?
「はい」
― 名前は?
「パク・ドンホです」
― 何で中国に脱北して来たの?
「両親は幼い時に亡くなり、お母さんの顔はまったく覚えていません。家には87歳の御祖父さんがいて、ずっと二人で暮らしていました。家には食べ物はまったくなく仕方なく中国へ脱北することにしました。中国へ来れば少なくとも食べ物には困ることはありません。」
― そんなに簡単に河を渡ることが出来るの?
「いいえ、大変です。今回、私は3回目だったので河を渡るルートを知っていたのです」
― どうやって河を渡るの?
「私は住んでいる清津から先に一週間歩いて国境近くの村に近づきます。もちろん昼は目立つので全部夜中に歩きます。夜中1時頃になると警備の人たちも寝始めます。その隙間をついて自分だけの知っているところから河を渡ります。中国に辿りつくと真っ先に近くの村にある教会に助けを求めます。2年前まで教会では保護したり、良くしてくれましたが、今は違います。ただ都会まで行けるバス代を持たして追い出すのです。」
― 自分でバスに乗れるの?
「教会の人たちがどこどこに行きなさいと教えてくれます」
― 何で北朝鮮レストランの前をうろうろしていたの?
「教会の人たちが教えてくれました。そこに行くと韓国人観光客が多いから金もいっぱいもらえると教えてくれました」
― 怖くないの?
「怖いです。しかし、生きて行くためにはそうするしかありません」
― 今の北朝鮮状況がどうなっているか教えてくれない?
「配給は殆どありません。私は生まれて配給をもらったことは一回しかありません。その時も町をうろうろしていたら大勢の人たちが袋を持って配給所に集まっているのを偶然目撃したのです。それで、私もすぐ家から袋を持ち出して列に並んでいたらもらったのです」
― 量は?
「お米25kgとトウモロコシ少しでした」
― それは何時のこと?
「はっきり覚えていませんが、多分2、3年前のことだと思います」
― 全員がもらったの?
「いいえ、その場にいた人だけでした。私の後に来た人たちはもらえませんでした。私は幸運でした」
― 普通はどうして暮らしているの?
「今回で中国に脱北してきたのが3回目です。中国でもらったお金でトウモロコシを買って食べました。トウモロコシだけだと量が足りないので、山で取った山菜も一緒に混ぜて煮込んで食べます」
― それでお腹いっぱいになるの?
「いいえ、足りません」
― 今回300元もらったら帰って何の商売をしたいの?
「まだ考えていませんが、400元あれば何とかなりそうです」
― 400元集まれば明日帰るの?
「はい」
― 今、300元渡すから明日北朝鮮に帰りなさい。国境近くまで見送りますから、明日どこかでまた会える約束は出来るの?
「もちろん約束できます。では、バス停の前に12時で如何ですか?」
― 分かりました。では明日また会いましょう。
筆者は次の日、約束した時間にその場所に行ってみたら、彼の姿も現れていた。大勢の人ごみの中から筆者を見つけた彼の顔は驚きというより喜びの表情をしていた。
筆者と彼を乗せたバスは徐々に中朝国境の町に向かって走り始めた。
| 私たちは日本に帰りたい!皆さんのご支援をお願いします |
| 会津千里 |
1960年代初頭に北朝鮮に両親と共に渡った在日の帰還者2人が、社会的な差別から逃れ、自由を求めて脱出してきました。
2人は50歳代の夫婦で咸鏡南道の出身。
2001年に日本に帰還した同郷のMさんに救援要請がありました。Mさんは何とか基金が援助をして助けて欲しいと要請してきました。
当基金として調査した結果、夫婦は脱北の際にブローカーが関与し、成功報酬として日本円で30万円の要求を受けていました。結局30万円が支払われなければ、夫婦は解放されないことを意味します。
しかし、夫婦に30万円の支払い能力はなく、日本の親族あるいは支援者が支払わない限り人質のままです。夫婦が日本行きを希望しているのでさらに金銭的要求は高まることが予想されます。
これまでの経験からすれば、おそらく最終的な決着を見るときには金額は2-3倍の60‐90万円を下ることはないと思われます。
此の様な場合、北朝鮮難民救援基金は彼らの身柄を保護できません。ブローカーからの離脱後に保護を求めてくる場合は保護すると言う立場です。
夫婦に基金の立場を伝え、ブローカーから離脱した後に連絡を取るように指示しました。数日して夫婦はブローカーから離脱後、再び基金の援助を求めてきたのです。
北朝鮮から夫婦に同行してきた、北朝鮮人ブローカーと彼らをかくまった中国朝鮮族は、夫婦が日本と通話する一部始終をそばで聞いていました。
結局、日本にいる親族が金を払わないと分かると、北朝鮮人のブローカーは、北朝鮮に電話連絡をし、「二人をどこか分からない所で始末してから帰る」と報告をしたのです。
それを聞いてしまった夫婦の妻は、夫と共に匿われていた家を深夜になって密かに抜け出し、山中に逃げ込んだのでした。深夜全く明かりのない暗がりで獣の鳴き声、遠吠えを聞きながらひたすら山の奥へ奥へと逃げ、5日間何も食べずに隠れていたとのことでした。
数戸しかない中国・北朝鮮国境の中国側の山中の村では、北朝鮮から来た脱北者が同情を得るふりをして昼間に偵察をし、夜になると数人でその家を襲い、テレビ、オートバイ、現金などの金品を奪う強盗事件が頻発しているので、公安の警戒も厳しいようです。そのために、夫婦は村から数度にわたって追い出されたと言います。
幸いなことに、基金からの電話連絡で朝鮮族の農民は当人たちが日本と関係があると判断したので、当座の安全は確保されています。
現在は吉林省の山の中で朝鮮族の農民の下で農業の手伝いをして3食を得ています。匿っている農民からの話では、着ている服もぼろぼろだったので、かわいそうに思い自分たちの服をあげたそうです。
夫婦の日本にいる親族は朝鮮総連関係者で、助けを求める夫婦を敵視しているので当てにすることは出来ません。
彼らを安全に匿うために、速やかに必要な手立てを講じる必要があります。
当基金は、人道的な立場から夫婦を救援する作戦をおこないます。しかしながら当基金は資金が枯渇しており、計画の実行に困難をきたしています。ことは急を要するのでとりあえず人を派遣しますので、皆様の深いご理解とご支援をお願いします。
| 9月17−18日 北朝鮮人権状況国際会議を |
| タイ・バンコクで開催します! |
| 海老原智治 |
会場:チュラロンコン大学政治学部プラチャーティポック・ラムパイパンニー棟4F会議室
| 10月、あなたもボランティアスタッフ! |
| グローバルフェスタJAPAN2007に当基金も参加します |
| お手伝いしてくださるボランティアを大募集しています! |
今年も
そこで、当日、基金の展示ブースにおいてお手伝いをしてくださるボランティアを大募集します。
ボランティア参加をしながら、同時にグローバルフェスタも楽しもう
昨年は2日目の後半に雨が降り出すといった残念な状況に見舞われたものの、1日目は快晴に恵まれ、たくさんの来場者が訪れました。また、昨年は229の各種団体が参加し、今年もほぼ同数の参加が見込まれています。
例年、この時期は秋晴れが広がる日が多く、過ごしやすい天候のなかでボランティアをするのはとても快適です。また、フェスティバルに参加している様々な日本の
前回は、強制収容所の様子が描かれたパネルや北朝鮮の教科書の展示をはじめ、書籍・DVD・Tシャツなどの販売を行いました。今年も同様に、展示や物品販売を行う予定です。
当日は、基金のブースでの資料配布や、展示品などの簡単な説明などを手伝ってもらうことになります。わからないことがあれば、その都度補助をしますので特に心配はありません。「フェスタ」というお祭りイベントですから、できるだけ多くのボランティアの参加にしていただいて、より盛況になることを期待しています。
開催期間中のご都合のいい時間だけでも結構です!
ボランティアに興味のある方は、北朝鮮難民救援
(tel:03-3815-8127 もしくは
皆様のご協力をいただけますよう、何卒よろしくお願いいたします。
1日だけでも結構です。
9:30〜18:00の間でご都合のい
い時間。短時間でも結構です。
場所:日比谷公園(
交通:東京メトロ丸の内線・千代田線
「霞ヶ関駅」
下車徒歩2分
都営地下鉄「内幸町駅」徒歩2分
東京メトロ日比谷線「日比谷」
徒歩2分
JR・東京メトロ「有楽町駅」
徒歩6分
内容:基金ニュースなどの資料の配布、書
籍などの販売、展示品に関する簡単な説明など。当日、わからない点などがあれば、その都度補助をいたします。
注:グローバルフェスタJAPAN2007についての詳細は以下のサイトでご参照ください。
| お知らせ |
■第4回北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟総会(IPCNKR)がソウルで開かれます!
第4回の北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟の総会が、8月28―30日の予定で
ソウルの新羅ホテルで行われます。国際議員連盟の総会ですが、NGOも参加します。
北朝鮮難民の中国における実情、北朝鮮女性と子どもの難民の実情、人権、保護などの
具体的な救援対策、国際連携などまで話合います。
参加登録は無料ですが、往復航空券、宿泊費などは自己負担でお願いいたします。会議の詳細ならびに、お申し込み・お問い合わせは下記の事務所へ電話、あるいはE-mailで。
■元教育里子たちとの1泊交流会に参加しませんか?
当基金は北朝鮮で孤児になった子どもたちを教育里子として中国で応援してきました。今では1期生全員がソウル、釜山などで学校に通ったり、社会人として働いています。皆さんの募金によって支えられてきた子どもたちは、健康で立派に育っています。
ソウルで北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟の総会が開かれる機会に、会議の前後を利用して8月27-28日あるいは、30-31日の1泊2日の交流会を行います。希望者は事務局までお申し込みください。
■定住、定着支援ボランティアを募集しています!
北朝鮮から必死の思いで中国に逃れ、また中国政府の逮捕、強制送還から逃れて日本を安住の地と定めて戻ってくる元日本人妻、夫、元特別在留許可を持っていた在日朝鮮人の数が、やがて200人に達しようとしています。
ほとんどの人が40年以上日本語や日本社会と断絶していたため、生活習慣、日本語でのコミュニュケーションに問題を感じています。相談相手や日本社会への定住をたすけてくださるボランティアを募集します。詳細は事務局まで。
■ビジネスパートナーを探しています!
日本に定着を希望する人が、自立するためには仕事が必要です。日本語が十分できないなどのハンディのある人ですが、自力更生の意欲のある人を雇用できる企業、法人、個人の方の協力を求めます。職場を提供してくださると大いに助かります。
■小口定期寄付金を募ります!
脱北者の保護、難民認定を求める活動を安定的に発展させるために、基金の財政基盤を拡充する必要があります。
そのために郵便貯金口座による自動払込み制度を導入し、会員・支持者から広く小口の定期寄付金を募っています。
この制度を利用することによって、金融機関に出向く時間も節約され、振込手数料も1件につき25円と安くなり、個人負担もなくなります。さらに、通帳に納入記録として「難民救援基金」と記帳されます。
ご協力くださる支援者の皆様は、当