ラオスの拘置所で救援を待っている3人の脱北孤児たち

 

                C O N T E N T S

 脱北孤児3人が強制送還の危機に! ・・・・・・・・ 北朝鮮難民救援基金
 咸鏡北道延社郡で配給作戦U ・・・・・・・・・・・・・ 金 紅星
 家庭薬キットの配給報告  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 北朝鮮難民救援基金
 調査報告―タイに国際NGO調査団を派遣・・・・・ 北朝鮮難民救援基金
 タイに愛と尊敬の気持ちを伝えます ・・・・・・・・・ 朴 哲圭
 脱北者交流会に参加して  ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 朝希 光 
 ただいま日本社会と格闘中 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 金 元植
 2歳の孤児が臓器売買の犠牲に?  ・・・・・・・・・・ シェルターJHL
 ラオスの拘置所からSOSの手紙 ・・・・・・・・・・・・ 3人の脱北孤児たち
   
 

脱北孤児3人が強制送還の危機に!

     ラオス政府は3人を釈放し、安全な通行権を与えてください!

 

 昨年11月、脱北した3人の北朝鮮孤児がタイへの不法出国の容疑で逮捕され、裁判の結果、禁固3ヵ月の実刑判決を受けた。
 しかし、彼らは未成年であるために、身元を引き受ける保護者が必要とされた。そのために、刑期を終えた後も解放されず、行き場を失っている。
 皮肉にもこれまで彼らの身柄を引き受けに来たのは、北朝鮮大使館の参事官と領事だけだった。子どもたち3人が刑務所にいる間、韓国大使館からは1度の面会もなく、子どもたちはアメリカ行きを希望していた。
 4月6日になって、北朝鮮側がラオス政府に対して子どもたちを引き取る行動に出たため、当基金は、急遽、東京の外国特派員協会で記者会見を開き、国際的なメディアを通じ広く国際世論に訴えた。
 同時に、米国の人権大使レフコヴィッツ氏、日本の斎賀富美子人権大使、麻生太郎外務大臣に歎願書を送り、問題解決に関与するよう要請した。しかし、米国とラオスの外交関係は良好ではなく、米国人権大使のこじれのない関与の仕方や政府間交渉には、大変な困難が伴うと予想される。
 また、UNHCR、米国、ヨーロッパのNGO、国際世論に注意を喚起し、送還を阻止するために各国駐在ラオス大使に要請書を出すよう求めた。
 さらに、民主党の中川正春議員には駐日ラオス大使への働きかけを要請した。
4月20日、衆議院外務委員会で中川正春議員がこの3人の件に関して質問し、その結果が当基金にも伝えられた。

1)日本外務省は南西アジア課を通じて 在ラオス日本大使館に訓令を出し、ラオス政府に以下の内容を伝達するよう指示した。
 「3人の子どもを北朝鮮に送り返さないこと」「3人の子どもの意思を尊重して、彼らの望む地に行くよう留意する」
2)さらに中川議員は、ラオスとアメリカ政府の外交関係の現況にかんがみ、日本政府が積極に仲立ちし、3人の子どもの意思が実現するように働きかけをすべきであると思うがどうか、と訊ねた。政府はそのように働きかけをすると答え、中川議員はさらに外務省は訓令を出すだろうと話した。
 ラオスではソンクラン(仏暦の正月)のため、官公庁が休みで、事態の解決に向けた動きは出ていない。
 以下は4月6日に北朝鮮大使館側がラオス内務省内で3人の面会並びに、身柄の引渡しを要請したとの情報に基づき、急遽、駐日 ラオス大使に宛てた歎願書である。

4月25日追記
 ラオスの3人の脱北孤児が釈放され、韓国大使館で保護される!

 不法入国で3ヶ月の禁固刑の刑期を終えた後も、ラオスのビエンチャン刑務所で拘留され続けていた北朝鮮出身の孤児3名が、55日ぶりに釈放された。
 NGOをはじめ世界の世論が成り行きを注目していたが、韓国大使館が3人の身元を引き受け、4月24日の現地時間午後2時30分、大使館構内に保護された。
 孤児たちは、大使館でこれまでの事情のいきさつに関する調査を受けた後、希望する定住地の再確認を求められたものと思われる。
 孤児たち3名の氏名が4月26日午前8時45分発バンコク行きタイ航空便の旅客予約者名簿にあることから、バンコク経由でソウルに直行するものとみられる。

 

写真は4月12日、東京の外国特派員協会で脱北孤児3人の救援を訴えるために
開かれた記者会見の一場面です。
 この会見で、在ラオスの韓国大使館が3人の救援に動かなかったことが指摘されました。
 この事実が公表された後、朴大使は脱北孤児3人が北朝鮮国籍の保持者であったので、
大使館側が公式に乗り出すには制約があったとあわてて釈明しました。

                                            2007年4月09日
                  要 請 書

北朝鮮出身孤児3名の早期釈放及び安全通行権の保障に関して

ラオス人民民主共和国大使館
〒106-0031 港区西麻布3丁目3-22
電話:03-5411-2291、03-5411-2292


特命全権大使:シートン・チッニョーティン 閣下
 日本の非営利活動法人、北朝鮮難民救援基金は、人道、人権団体として以下のことを閣下並びに貴国政府に要請します。
昨年11月から、首都ビエンチャンの刑務所に不法出入国の疑いで3カ月の実刑判決を受け、服役中の北朝鮮難民の孤児3人が、北朝鮮領事によって身元引き受けされ、北朝鮮に送還されようとしています。
 具体的には、北朝鮮領事が4月6日午後3時頃、ビエンチャン刑務所を訪れ、3人と面会し、身元引き受けのため、中心部から4kmほど離れたラオス内務省外国人担当部局の責任者に面会、身柄の引渡しの交渉を行ったようです。その後、3人の身柄はいったんビエンチャン刑務所に戻されています。
 私たちが憂慮するのは3人の孤児は、いずれも未成年でありながら刑に処せられ、3カ月の刑期が終わってもなお拘束を解かれずにいることです。
 そのうえ懸念すべきことは、3人の孤児が北朝鮮に引き渡された場合、北朝鮮に送還され、厳罰に処せられるのは明らかで、何の例外もありません。また、食糧がないために、彼らが北朝鮮に送還された場合、餓死する恐れさえあります。
 3月末に3人に面会した北朝鮮難民救援基金の救援担当者は、彼らが定住先に米国を希望していることを把握しております。当基金は、孤児を受け入れるアメリカのNGOとも連携して、3人の身柄を積極的に引き受ける関与を表明します。
3人の孤児のうち2人は姉弟で北朝鮮咸鏡北道会寧市出身でそれぞれ1993年8月8日生まれの13歳の姉・崔香(Choi Hyang)、1995年生まれ3月12日生まれの12歳の弟・崔赫(Choi Hyok)。残る一人は咸鏡北道茂山市出身の少女で1990年4月7日生まれの17歳・崔香美( Choi Hyang-Mi)です。
 ラオスを経由してタイに出国しようと昨年11月、メコン川を渡河中にラオスの国境警備警察に逮捕され、不法入国及び不法出国容疑で3ヵ月の実刑決を受けていたが、刑期が終えてもなお釈放されていない状況が続いている。
 姉弟の兄弟は、99年に母親が食糧難で餓死、その後親戚に預けられていたが、経済的な苦境のため親戚からも追い出され、物乞いをして暮らし、孤児となってしまいました。2002年に仲間の孤児とともに中国に渡り、中国で暮らしましたが、中国でも非合法的な身分のために安心して病院での治療や教育も受けられないためにラオスを経由してタイ国に入国しようとしたものです。
 三人のうちの最年長の崔香美は幼いときに父親を亡くし、母親の手で育ったが、食糧難で2001年に脱北したが、母親は人身売買の犠牲になり中国人に売られ、愛情のない結婚を強いられています。香美自身も人身売買の犠牲になりながらも、優しい朝鮮族に助けられましたが弟は行方不明のままです。
 将来の夢はデザイナーになることでどうしても米国に定住したいと願っています。
 彼らは未成年であり、刑期も終えていることから速やかに釈放し、第三国への定住の安全通行権を保障することを要請するものです。ラオスからの出国に当たっては本人たちの意思を十分に尊重されることを願っています。               敬具

                     特定非営利活動法人 北朝鮮難民救援基金  理事長 加藤 博

   ラオスの拘置所からSOSの手紙       

 ラオスの首都ビエンチャン郊外の拘置所に収監されている3人の脱北少年少女たちが7日、拘置所の鉄条網から現地の支援者に救援を要請する手紙を送った。北朝鮮大使館関係者から激しく追及された後に書いた手紙で、切実な心情が表現されている。(注:表紙写真はこの子供たちです)

 ◆ チェ・ヒャンミさん(17)の手紙

 おじさん、こんにちは。4月6日午後2時半ごろに朝鮮大使館から人が来てわたしたちを尋問しました。そこでわたしは「死んでも北朝鮮には帰らない。韓国人だ。全部忘れた」と叫びました。もし北朝鮮に送られたら死にます。

 おじさんはわたしたちに悪いことはしていません。(おじさんは)わたしたちの親戚や実の父でもありません。もし本当に北朝鮮に送られたら生きる希望はありません。チェ・ヒョクとチェ・ヒャンは弟妹なのでわたし一人で生きるつもりもありません。二人の面倒をみるという約束をまもるために、おじさんに藁をもつかむ思いで手紙をかきました。

 

 ◆ チェ・ヒャンさん(13)の手紙

 

 おじさん、わたしたちも広く知られることは望みませんが、北朝鮮以外なら公開どころか地獄でも行きます。4月6日に北朝鮮大使館から人が来ました。脅迫するかのように侮辱し、声を張り上げ、共産党の配慮がどうのこうのと言いながら。あんな党の配慮なんかいりません。

 どうか誰でもいいですからわたしたちに自由をください。だめですか?わたしたちは自由を求めてここにきました。そしてそのために死ぬかもしれない不幸な子供たちです。もし誰かが自由をあたえてくれたなら、その恩は一生わすれません。どうか北朝鮮にだけは行かせないでください。お金を使って助けてくれたなら、いつかそれ以上にたくさんのお金と愛をお返しすることをキリストの名で誓います。神様はご存知です。そしてわたしたちを殺そうとする人たちを許さないでしょう。

     ◆チェ・ヒョク君(12)の手紙

 アメリカのおじさん、こんにちは。
 わたしたちがここにいることを北朝鮮は知っています。北朝鮮人が尋問に来て、勝手に書類をつくって持って行きました。
 もしおじさんが助けてくれなければぼくたちは皆死にます。なぜなら北朝鮮にはかえりたくないからです。帰っても一生牢獄ですから。 救ってくれたら、大きくなって必ずお礼をします。本当に自由に生きて行きたいです。助けてください。 
  2007年4月6日夜 チェ・ヒョクより。自由。自由。自由。

     米2トン、咸鏡北道延社郡で配給作戦U
             人を助けるって、気がふれたのですか!?

                                      作戦責任者  金 紅星 * 

 報告します。私は2月X日、中国の古城里の税関を通過し援助物資を持ち、北朝鮮税関に向かいました。中国の税関は30分で簡単に終わりましたが、北朝鮮側の税関では3時間以上もかかりました。
 なぜかといいますと、北朝鮮の税関検査は北朝鮮に在住する親戚の確認から始まり、身体検査、荷物の検査があります。それが済むと税関職員が自分たちの必要としている物品を要求します。この「検査」が終らなければ通関検査は終りません。必ず中国製のタバコ、リンゴ、バナナ、みかんなどの果物、子供用の菓子などを用意しなければ、無事に通過するのは困難です。
 私の検査は時間がかかりすぎ、結局目的地の延社に行くトラックは、午前中の検査でも終らない私を積み残して行ってしまい、交通手段がないことが分かりました。泊まるところもないと言うので、しかたなく別の三長の町に行かねばなりませんでした。そこには旅館はなく、民泊といって一般の家の人に宿泊を頼んだのですが、山の中のあまりにも貧しい家で、宿賃としてコメ10kgをあげました。
 翌日、延社から来た自動車に乗って移動したのですが、途中でガス欠になり、木を燃やしながら走り続けました。普通は2時間30分で行ける距離が、5時間もかかりました。
 延社の市場は活気がありません。人々の購買力も大変衰えているように感じます。中国から行商でやってきた人の話では、一つの品物を売るのに、昨年の2-3倍の時間がかかると嘆いていました。

延社の物価
 延社の物価状況は以下のようです。コメ1250-1300W(ウォン)/kg、加工したトウモロコシ(細かく粒状にしたもの)390W/kg、未加工のトウモロコシ390W/kg、トウモロコシ麺は390w/kg、大豆500w/kg、鶏卵1個160w、豆腐1丁160W、食用油2600w/kg、暖房用柴1台車1500W。
 この物価は、土地の水準からは大変高いものです。一般の家庭では自分の畑で収穫したジャガイモ、あるいは延社郡で収穫されたジヤガイモが主食でした。生活に少しゆとりがあるましな家庭は、トウモロコシとジャガイモを混ぜてたべ、又米を食べている家庭もあります。
 一方で、寒空の中で家もなく放浪している放浪者が目立ちます。この人達は政府が用意している合宿所にいますが、食糧は自分で解決しなければならないので物乞いをしています。盗みに失敗し半死半生で血だらけになって倒れている人も見かけました。

あんたは精神病患者か?
 私は助けてあげなければ、明日がないような人たちを見つけては、場所と時間を教えて食糧を渡しました。そのときに他の人に見つからないようにしなければなりません。食糧をもらった人は他の人にばれないように何処かへ姿を消すのです。
 このように人を助ける人は、私以外には誰もいないと思いました。誰もかわいそうだからと言って助けることはありえないことでした。「あなたは精神病患者か」と疑われました。

商売をしなければ生きられない
 今、北朝鮮の人は大なり、小なり商売をしなければ生きていけません。中国製の中古の服の商売が多く、豆腐屋、飴作り、酒作り,中国や韓国産の米の商売もあります。
 お酒の原料は、ジャガイモです。飴は砂糖で作っていました。味噌はジャガイモと栗で作ります。石鹸は木を燃やした木灰を利用しています。
 幼稚園に通う子どもたちは、食べ物を持参して行きます。人民学校の生徒たちは冬休み中に肥料を集め、また学校の運営資金にするために兎の毛皮を集めたり、芝刈りのために毎日山に出かけます。女の子達は柴をくくりつけた縄を自分の腰に巻いて引っ張りながら山を降りてきます。

週2回の生活総活
 大人は毎日職場に出勤しなければならないのですが、給料は1ウォンも出ないのです。ですから、職場を持っていない人は、自分の食糧のために時間を使うことが出来るのですが、職場に席がある人は職場のない人より貧しいのです。
 こんな状態にありながら、週2回は必ず生活総活をしなくてはいけないのだそうです。一体何を総括するのでしょうか。
 2月16日の金正日の誕生日には、子どものある家庭だけに、子ども一人あたり飴1袋、お菓子1袋が配給されました。その日のために特別に飾られた金正日の肖像画に、子どもたちは真夜中から花束をささげていました。

公然と物品をねだる
 私は準備した2トンの米を密かに、毎日、来る日も来る日も少しずつ、目立たないように、本当に食糧を必要とする人に配り続けました。
 外国人を担当する郡の外事部門も予算がないらしく、全て自分たちで賄わなくてはならないようです。今回、私は外事部門の担当者から「壁紙、布を支援してくれ」と公然とねだられたのです。
 次回、この地域を救援対象として食糧配給作戦するときは、必ず「壁紙、布」を持っていかなければ、円滑に救援事業をすることはできないでしょう。
 (原文は朝鮮語、訳は基金翻訳グループ)


感謝の手紙

 今日、孫を連れて親戚に食べ物をもらうために延社にやってきました。延社の市場である中国人と会いました。あまりにもみっともない、哀れな身なりをした孫と私に同情してくれたのでしょう。私と孫を連れて市場の中の食堂で昼食を買ってくれました。又別れるときにはお金もいただきました。
 これは本当に真実なのか、夢なのか、私は一瞬頭の中が、ぼーとしてしまいました。
 世の中にこんな人がいるのですか。
 聞くところによると私に食事をくれた人は、本当に困っている人に渡しなさいと言ったといいます。
 見たことも、あった事もない、父母兄弟でもないのに大きな援助をしてくれた方に心から感謝し、手紙を送ります。今日の出来事は、死ぬまで忘れません。
 世の中のこんなにありがたい方の健康とご長寿を祈ります。 
                                      2007年2月10日
                                 漁郎郡 チョウ・スンボク

  中国内脱北難民、北朝鮮内部への家庭薬キット配給報告 *
  中国延辺

図門地域 

中国延辺

龍井地域 

中国延辺

延吉地域 

咸鏡北道

茂山地域 

咸鏡北道

延社地域 

’06年 8月     11セット  15セット    
’06年 9月      15セット    
’06年10月  15セット  11セット  15セット    
’06年11月    15セット    20セット  
’06年12月    15セット      20セット
’07年 1月        30セット  
’07年 2月     9セット      
 合計  15  61  45  50  20

キット1セットは風邪薬、胃腸薬、消炎剤、抗生剤、栄養剤など150元(2,500円)分

          調査報告
        タイに国際NGO調査団を派遣
                過密な収用施設、激増する流入、苦慮する政府    
*

 流入する北朝鮮難民の実態調査のために2月25日から3月1日までの日程で、NGOの国際調査団がタイに派遣された。
 調査団は北朝鮮難民救援基金の加藤博理事長を団長として、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の宋允復・事務局次長、特定失踪者問題調査会の真鍋貞樹専務理事、韓国から人権ボランティアの金尚憲氏、カナダからケート・ニールセンさん、ヘルピング・ハンズ・コリアの李ジョンスンさんらが参加した。
 調査団は25日、脱北難民から聞き取り調査。26日、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と保護支援者と面会、聞き取り。入管局、警察にも聞き取り調査を行ったが、バンコクの入国管理局長には任期の交代期との理由で面会要請に応じてもらえなかった。
27日はバンコクから北部のチェンライ県に移動。ビルマ国境のメーサイ県の出入国管理局次長のプロフィーリングを受けた。
ビルマとタイを分ける国境の川辺のレストランで昼食後、脱北者が多く上陸すると言われているラオス、ビルマ、タイの三国の国境が交わるゴールデン・トライアングル地区を視察した。
 28日はチェンセン警察、チェンコン警察を訪れ、署長、担当官による丁寧な説明を受けた。バンコクに戻りタイの人権弁護士のグループメンバー、NGOと意見交換をおこない、3月1日記者会見を行い、全ての日程を終了した。
初日、ラオスからタイに越境し、バンコクの韓国領事館に保護を求める直前の北朝鮮難民の女性2人にインタビューできるという幸運に恵まれた。
 女性からの聞き取り調査では、北朝鮮側の女性のブローカーから中国側に行けばいい仕事があるから○○のところに行こうと誘われ、中国側で夕食をご馳走になり一晩泊って目が覚めると、中国側に手引きした女性は既に姿を消している。中国側の宿の人間から、手引きした女性のところに行こうと、さらに内陸の地方に送られた。此の様なことが繰り返されるうちに、自分が何処かに売られていく運命を悟ったという話が、涙ながらに語られた。
この27歳の女性は、中国国内で「妻」として、労働力として5回も人身売買された経験のあと、やっと当基金のネットワークと接触し救出された。

上記写真は初日の2月25日、調査団のメンバーがタイに越境してきた北朝鮮難民女性2人(手前の後姿の2人)にインタビューをしている光景です。


 2日目は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の代表から説明を受け、質疑が行われた。
昨年6月の軍事クーデター以後、暫定軍事政権の難民に対する政策の変更とその影響についての説明があった。タイ政府から国内法を厳格に適用する命令が出され、難民に対するいっせい逮捕が始まった。その結果として、不法入国者を収容する入管局の収容所が過密状態にあること、UNHCRの介入の余地が減ってきていることなどが注目される。
それまで、弾力的に運用していた出入国管理によって、国外退去者が必ずしも収容されないために過密状態が避けられていた入管局の収容所が、軍事政権の法の厳格な適用方針によって一転、過密状態になってしまった。
また脱北者を保護してきた支援者たちも、その活動が密入国幇助になるとタイ入国管理局から警告を受け、韓国大使館からは保護支援者に対し脱北難民を遅滞なくタイ警察に出頭させるよう指導がされているようである。そのため、バンコク市内に滞在する脱北難民は居なくなったといわれている。
 午後からは、クーデター前まで北朝鮮難民を熱心に受け入れ、保護をしていたキリスト教関係者と面会する。
ここでは、入管局に差し入れに行っている経験から、収容所の過密ぶりについて紹介された。
100人程度を収容する部屋に300人が収容されているために、一度立ったら座る場所がない。夜寝るとき足も伸ばせない。あまりの過密さからフラストレーションが高まり、言い争い、喧嘩がたえない。喧嘩が起きて不穏な状況になったために、外部からの差し入れが2月末から3月10日まで禁止措置がとられたほどである。
 収容されている部屋についている4箇所のトイレの便器のうち、2箇所は故障して使えないためにいつも順番待ちの状態である。また熱帯地方のため、汗を流すシャワーもなかなか順番が回ってこないために衛状態が悪化し皮膚病になる人が増えているとも聞いた。
3日目は、空路北部タイ、ビルマ国境のチェンライ県に飛んだ。ラオス、ビルマ国境の密入国者を集結させるメーサイ入国管理局を訪れた。
 北朝鮮からの密入国者について80パーセントは女性であると明らかにされた。子ども連れの女性もいる。10歳くらいの子どもから70歳を越す女性まで広範囲にわたっている。
管理局責任者によれば、脱北者も元主婦、労働者、農民、教員、看護婦、美容師、企業の経理担当者と多岐にわたっている。
メーサイ入管局内では’05年に拘束した北朝鮮難民は100人であったが、’06年には367人となっており、拘束者の数が3.6倍に急増している。今年は2月までですでに87名を超えており、このままのペースで増えると400人を超えるのではないかと危惧されている。
特定失踪者問題調査会の真鍋専務理事は、独自に入手した昨年の拘束された脱北者総数を900人と明らかにした。この数字から、’07年度の拘束者数は1000人を越えるもの推定される。
 地方の入国管理局、警察は急増する脱北難民を不法入国者として扱っているものの、「相手国に送り返さない」との基本方針とともに「人道的に取り扱う」という中央政府からの指示を忠実に遵守している。
また、調査団に対するタイ側の応対は丁寧で親切なもので、事情の正確な理解に役立った。
しかし、脱北難民を不法入国者として扱っているために、収容、保護する人道支援家が密入国幇助として処罰される可能性があり、問題がないわけではない。
 タイは難民条約の批准国ではないが、UNHCRの最高評議員となっていることからすれば、難民条約31条「不法入国を理由として刑罰を科せられない」を尊重し、人道支援家の拘束、逮捕、国外退去などの処罰を行わない何らかの保証が与えられていいと思う。

4月25日追記
待遇改善と早期の韓国入国を求めて
バンコクの入国管理局で北朝鮮難民がハンガーストライキ

タイのバンコクで流入する北朝鮮難民の保護、支援をする現地のボランティアから、バンコクの入国管理局の収容所に収容されている北朝鮮の女性317人のうち314人が、4月24日夕よりハンガーストライキに入ったと伝えてきた。
 3人は韓国大使館員の説得に応じて夕食をとったが、残り全員が夕食を取ることを拒否した。
 ストライキ参加者の要求は、収容所内の待遇改善と早期の韓国への送還を求めると言うもの。
 女性を収容するバンコクの入国監理局の房は100名が収容能力であるが、ここに317名が詰め込まれている。
 収容能力の3倍と言う超過密であるために、一度立ち上がったならば、座る場所がないほどだ。そのために収容者のフラストレーションは高まり、喧嘩が耐えない。
 その上、収容所内に設備されている4箇所のトイレのうち2箇所が故障し使えない。熱帯の高温多湿のため。シャワーは欠かせないが、それもままならない。
 天井のファンは2箇所しかなく、冷房施設も過密ぶりに焼け石に水の状態だ。
 男性の北朝鮮脱北者は100人、そのほか収容所以外に50名から70名が隠れ住んでいると言う。

上記写真は最終日の3月1日、在タイの各国メディアとの記者会見の光景です。(正面に向かって座っているのは調査団の面々)

     元脱北者からのメッセージ
      
タイに愛と尊敬の気持ちを伝えます

                                朴 哲圭(人権活動家)  

これは韓国人の人道支援家が経験した数々の救出劇の事例の一部を、編集部の求めに応じて寄稿していただいたものである。                  (編集部)


 2000年の12月15日、若い北朝鮮脱北者のカップルが、タイ国北部のチェンライ県の片田舎に、長い旅路のはてにたどり着いた。
 このカップルは北朝鮮から脱出する以前に、清津出身の妊娠した北朝鮮女性が中国から強制送還され、清津の国家保衛部の拘留所で強制的に中絶されるのに居あわせた。
 「外国の種を持ち帰った」というのが中絶の理由だったが、赤子はそのまま放置され、誰もその生命を救うことは許されなかった。その現場の目撃者となったのだ。12時間後に赤子は息絶えたあと、ビニール袋に入れられ、どこかに持ち去られた。
 彼女は苦痛にたえかねた表情でそんな惨たらしくも厳しい経験を語った。
 ラオスとタイの国境からチェンライ市に向かう車の中で、臨月に近い妻は吐き気を訴え、運転手に車を停めるように頼んだ。彼女は車から這い出し、国道の脇の溝に顔を近づけて嘔吐を続けてから、症状が収まるまで道端にへたり込んだ。
 驚いたことに、この光景を見ていたのだろうか、道端の農村の家から一人のタイ人の老女が急ぎ足で駆け寄ってきた。冷たい水の入った素焼きの甕とグラスを持って、彼女に差し出したのである。そして妊娠している彼女の背中を優しくさすり、家でしばらく休養するように、粗末な家に招きいれた。
 これはタイの田舎に見られる典型的なタイ人の優しさの表れだ。
結果としてみるならば、この老女の思慮深い振る舞いが、北朝鮮人の難民を助けたのである。タイの田舎に住んでいるこの年配のタイ人女性が、彼女たちが北朝鮮から逃げてきた難民であるとは、想像もしなかったことだろう。しかし、情けをかける相手が外国人であっても、タイ人であっても分け隔てなく介護したであろう優しさには心あたたまる感情がこみあげてくる。
 この脱北者カップルは、通常とは比べ物にならないすばやい手続きでタイからの出国が認められた。幸運にも2001年1月、韓国に入国が許され、男の子を無事出産したのである。
 この感動的な話は過去4年間、この夫婦に会うたびにくりかえし聞かされる。タイ人の優しさを賞賛する。道端で受けた親切な行為に感動して、感謝の気持ちをこめて誕生した男の子にウンテ(運泰)と名前をつけた。
 「優しい子どもに育っておくれ」「人を助ける大人になるんだよ」と母親は子どもを寝かしつけるときに話していると言う。 
タイ人に救われた北朝鮮難民は、この例だけではないだろう。同様の経験をした人はもっと多いはずだ。タイ人とタイ国に対して尊敬と感謝の念を持ち続けている脱北者たちは数多くいるに違いない。
 タイに流れ込んでいる北朝鮮難民は、祖国で処刑の危機を察知して逃れた人だったり、飢餓、貧困、人権不在、抑圧の犠牲者だったりする。
 脱北者たちは疑いなく難民の地位を定めた1951年の難民条約および1967年の議定書に適合している紛れもない難民であり、保護を受けるべき人たちなのだと言いたい。

    脱北者交流会に参加して
        
頑張っている仲間たち
                                 朝希 光    

 2月18日(日)、大阪市内のスパワールドにて、脱北者支援民団センターによる関西在住の元在日同胞脱北者の交流会が行われた。民団や支援団体の関係者も含め30名ほどが参加し、お風呂でさっぱりした後、ちゃんこ鍋を食べながらビンゴゲームやカラオケを楽しんだ。
 昨年12月と今年2月に入国した脱北者4名もとても楽しそうに会に参加していた。就業や言葉の問題、今後の生活に対する不安を抱えている彼らにとっては、日本で長く生活し、いろいろ経験してきた脱北者に悩みを聞いてもらったり、アドバイスをもらったりすることができる有意義な機会であり、とても心強かったと思う。
交流会は約1年ぶりに開かれたということで、皆さんは終始楽しそうに語り合っていた。「旧正月に1人で家にいると北朝鮮にいる家族を思い出し、精神的に辛くなる」という脱北者の話から日程も配慮されているという。今後も支援団体らが協力し、脱北者の入国後、できるだけ早い時期にこうした交流の場がもてれば理想的ではないかと思う。
 個人的に印象的だったのは、自分と同世代の青年との再会であった。5年程前に会った時はまだ来日したばかりで声をかけても俯きかげんでさみしげな印象だったのだが、表情もとても明るくなり、皆の前で堂々と、気持ちよさそうにマイクを握って歌っていた。私が転職を考えている話をすると、資格をとった方がいいと勧めてくれ、話を聞きながら、すっかり地に足をつけて生活している様子が感じられた。新しく来た脱北者に経験を語ることはできるけど、自分が努力するしかないと言い切っていた彼も日本にきて相当努力したのだと思う。交流会で近くに座った青年も、日本にきて約8年、これまでは働き詰めだったけど、夢を見つけたので今春からは勉強するつもりだと語ってくれた。
 日本に来て1年ほどの女性も現在、仕事に勉強にとても頑張っている。来たばかりの大変だった頃を思い出すからと、新しく来た脱北者と話すことを少し躊躇する彼女も、日本に来てからも大変な日々だったと思うが、それを感じさせない明るさと、会うたびにどんどん上達する日本語に驚かされ、私はいつも元気をもらっている。
 私が接した20代の若者は、多くの時間を勉強に費やしたいという向学心を持っているものの、生活のために必死に働かなければならず、疲れてなかなか勉強もできないのが大きな悩みのようだが、それでも慣れない日本で懸命に努力して生きている。
基金のホームページで北朝鮮の厳しい現実や脱北者のことを知り、大きな衝撃を受け、それと同時に北の地で懸命に生きている人々が私には大切な仲間に思え、早く会って話がしたい、自分が数年前から韓国語を学んできたのも仲間と話がしたかったからだと感じたのが約6年前。想いばかりが強くて何もしないままあっという間に月日が過ぎてしまっていたが、目の前でビンゴゲームを楽しんでいる皆さんの笑顔を見ながら、この席に同席でき、時間を共にできたことがとても幸せであり、感謝であった。
最近になってようやく少しずつ基金の活動に参加させてもらっているが、実際に脱北者の方と接してみて、自分にできることがあまりにも小さいことを感じる。
 逆に私の場合は皆さんから元気と勇気をもらっている。私にはまだまだ知らない、見えていないことが山のようにあるだろうし、直接的に脱北者の方に対してできることは無いに等しいが、これからも日本に来て頑張っている仲間と一人の友達として時々会っていろんなことを語りたい。自分でももっと北朝鮮に対する知識や脱北者に対する理解を深めていきたい。
そして彼らが日本の社会に慣れ、生活も落ち着き、いろんな面で余裕ができてきたら、北朝鮮や韓国、アジア地域で懸命に生きている仲間たちのことも一緒に考えていきたい。

    朴さん、ただいま日本社会と格闘中
                             定住定着担当 金 元植    *

 朴さんは4歳の時、一家で北朝鮮に渡った。一家は咸鏡北道穏城郡の炭鉱に配置された。1990年代の食糧難で飢餓から逃れるために’99年に中国に脱出した。
中国では非合法的な身分のために逃げまわらなければならず、苦労の連続だった。ある時は働いた金を責任者が持ち逃げしたために、一元の金も手に出来ず絶望のどん底の時もあった。
偶然、中国で活動する韓国のNGOから日本の北朝鮮難民救援基金を知るようになり、2006年末には息子一人を連れて日本に戻ることが出来た。
日本に戻ってきてはみたものの、日本語はほとんど出来ないし、年齢も50を超えているために、仕事もそう簡単に見つかるとは思えない。最初の苦労は日本語だ。親族は朝鮮語が出来ない。朴さんは日本語ができない。一体どういうことになるのか。幸い日本の親族に理解があって、温かく迎えてくれるとのことで親族のところに身を寄せることになった。とはいえ、言葉の通じないもの同士、ハプニングの連続だったに違いない。
 およそ4ヶ月ぶりに朴さん父子の近況を尋ねてみた。
朴さんは民団(大韓民国民団)の地方支部団長が社長をしている会社で、マンションなどの基礎工事(コンクリートの流し込みなど)の仕事に、団長の好意で就職することができた。
就職活動するにあっては年齢のこともあり、建築現場での仕事なので、年を重ねても仕事を続けられるか心配をする人もいる。
現場では、主な仕事は機械が担い、その補助をしているみたいだ。現に70歳近い方も仕事されているから心配は要らないと も言われた。朴さんは毎日早起きして弁当を作り、仕事に出かけている。この仕事は思ったよりも大変ではないらしく、彼にあっているようだ。彼の弁では、長く仕事をしたいとのこと。
果たして仕事があるのか、日本の社会でうまくやって行けるのか、悩み事は多かったが、仕事が確保されたことにより、それまでの精神的不安定状態から解放され、苛立ちが消えた。落ち着きを取り戻し、将来への人生設計を描くゆとりが生じたみたいで、傍から見ていても安心していられる。
 息子の朗君も4月から中学の夜間学級に通い、昼は日本語学校でT先生の手ほどきを受け、6月まで通う予定。そこには、日本語の基礎を習得させたいという父親の朴さんと親族の意向がこめられている。夜間学級の先生によれば、思ったより日本語がよく理解できている。他の外国人生徒の場合、ほとんど日本語が理解できない生徒もいるようだ。
朴さん親子のよき理解者である日本のいとこに当たる方に、朗君のことを尋ねてみた。「朗君はアルバイトを考えていますか」と。すると「今は日本語の勉強に専念させるつもりです」との返事が返ってきた。本人はアルバイトがしたくて街のアルバイト募集の張り紙を見て面接に行き、「来てくれ」というところもあり、また勇んで行ったが断られたこともあったという。
朗君は父親やいとこなどの親族の皆が「日本語習得に専念しなさい」という言葉をよく理解し、今は朝に家を出て日本語学校、夕方からは中学の夜間学級へ行き、夜遅く家に戻る生活を続けている。

2歳の孤児が臓器売買の犠牲になる!?
              北朝鮮人の母親は逮捕強制送還、父親は行方不明

                                       シェルターJHL      *

 4月2日、当基金のシェルターJHLから緊急の救援要請の電話連絡があった。
 2歳の幼児が、突然孤児になり、引き取り手がいない場合、現在臨時に世話をしている人が第三者に売り渡す危険がある。そうなれば、土地柄、臓器売買の犠牲になるかもしれないとの憂慮を伝えてきたのだ。
それによると、3月30日、中国山東省青島(チンタオ)市内で青島市公安局(警察)が、居民身分証などの一斉調査を行った模様である。市内の韓国料理店内で働く従業員の一斉調査の際、公民証を持たない北朝鮮女性一人が拘束され、取調べのため公安局に連行された。
 この女性は脱北者で、中国朝鮮族の男性との間に2歳になる1女がいる。夫婦は韓国料理店に住み込みで働き、幼児もここで育てていた。
 2歳の幼児がいるにもかかわらず、突然公安が女性を連行、逮捕したことに食堂に働く関係者は、驚きを隠していない。母親が4日を経過しても戻らないところから、北朝鮮に強制送還されたと、従業員たちはささやきあっている。
幼児の父親は、「妻」の拘束を知ると後難を恐れていち早く雲隠れ、現在行方不明だ。
 父親は幼児の世話が出来ないために、食堂の従業員仲間に世話を頼んだものの、頼まれた側は、仕事の合間に子どもの世話をするために仕事や生活に支障が出ていると訴える。
 父親はやむなく、吉林省和龍市に住む親戚の氏名と電話番号を子どもの服に残していた。そして、父親は市内の某所から、電話で子どもの服に残してある電話番号の親戚に連絡をしてほしい。もし親戚が引き取らないのであれば、あなた方が誰か知り合いに子どもを渡して欲しい、と電話を切った。
 連絡を受けた吉林省和龍市の親戚は、自分たち親戚の中で引き取れる人が誰も居ないため、当基金のシェルターの一つであるJHLの責任者に、面倒を見てくれる人、養子にしてくれる人を探して欲しいと依頼をしてきている。
 事件の発生からすでに時間が経過しており、このままなんらの結論も出ない場合、現在緊急避難的に面倒を見ている韓国料理店の知り合いが、第三者に「引き取り」を頼む可能性が高くなる。
 そうなると、2歳児の運命は、次から次へと転売され、最終的には最も高い値がつく臓器売買マフィアの手に陥る、と土地の事情通は語る。
 山東省の青島、煙台、威海などの沿岸部の都市部を除けば、伝統的に極貧地帯がひろがるこの省ではさまざまな人身売買が行われており、犯罪の多発地域でもあることから、不法滞在している北朝鮮女性が産んだ身寄りのない子、自分の意思表示も出来ないなど悪条件を併せ持つ孤児が、最悪の場合は臓器売買の犠牲になることも考えられる。
  当基金としては、この子どもを先ず安全な環境に移し、養育してくれる中国朝鮮族を今緊急に探しているところである。