中朝国境地帯調査報告

報告者 会津千里(ジャーナリスト)


PART4
PART3
PART2
PART1


PART4

固い決意で北朝鮮脱出 失敗したら 毒薬を飲もう!

─ ある帰国者一家の運命 ─


 「懐かしいお姉様 朝夕暮れの涼風は、もうすっかり秋の季節になり、其の間お姉様を始め甥たちも皆お元気ですか。ここに居る私たちも皆お姉様が心配して下さるお蔭様で元気です。

 お姉様の電話を受け取ってペンを取りました。お姉様も知っているだろうと思いますけれど、北朝鮮の生活は一口では言われない程です。自分が経験しないと分からないと思います。
 私たち家族四人が北朝鮮を脱出する時、毒薬を持って険しい道をたどり、川を越え山を越えながら、もし見つかったら家族四人が死ぬ決心をしました。でも神様の恵みで無事に国境を越えることが出来ました。中国に着いた時から好い人に会い、電話を掛けるようになりました。誠に有り難う御座居ます。

 私が中国に来る時、S兄さんとH(妹)に会ってきました。S兄さんは泣きながら無事に中国へ着くように、涙を流しながら、兄妹が別れる事がつらいけど、無事に中国に着いたら日本の姉さんに手紙を出すようにと言って・・・」

 10月末、兵庫県神戸市の姉のMさんに送られてきた手紙である。連絡を受けたMさんは、妹夫婦と子ども二人の一家四人をなんとか助けようと思案したが、この問題を誰に相談していいか分からなかった。

罰金は給与22カ月分

 周り回って北朝鮮難民救援基金に連絡が入った時、すでに一家には重大な危機が訪れていた。
 一家が吉林省延辺朝鮮族自治州公安局所属の辺防大隊図們支隊によって逮捕されてしまったのである。匿った一家も厳重な取り調べを受け、中心になって面倒をみた木賃宿の女主人の朴梅花さんは逮捕されて留置所暮らしを経験した。
 罰金は2万元(1元約日本円で16円、32万円相当)である。これは一般の中国人労働者の平均月収が900元であるから、およそ22ヵ月分になる。とてつもない大金である。

 Mさんの要請を受けて吉林省延吉市に急いだ。
「私たちは善意で一家を匿ったのに罰を受けるなんて。罰金をどうして払ったらいいのか分からない。親族中から集めても足りないかもしれない。日本の親族がなんとか助けてくれなければ、朴梅花は刑務所に収監されてしまう」
 朴梅花の母親は、私に日本の親族に手助けするように伝えてくれと懇願する。

 中国は北朝鮮からの脱出者を難民と認めていないから、単に不法入国者として扱っている。吉林省辺境管理条例によって刑罰が定められている。
 この条例の26条第9項に「燐国の不法越境人員を扶助し、残し配置すること」を禁止している。そして第5章奨励と処罰、第36条で「26条第9項の規定を破った場合、命令で活動を中止させ5百元以内の罰金を併科する」とある。 4人を匿った場合科料を乗ずるのは中国では一般的であるが、それでも規定に従えば、2千元であり、2万元ではない。この事について朴梅花の親族は、新条例で厳しくなったのだと言うのだが、確認できない。単に現場の裁量によるものなのかもしれない。
 場所は中国である。法治国家でなくて人治国家であるところに、罰金の合理性に疑いを持たざるをえないし、それをうち消すことが出来ない。それに改革開放路線の中国では、拝金主義であるから、なんでもありという側面もある。目的のために公文書偽造だって半ば公然とするお国柄なのである。

 釈放が無理ならせめて温かい衣類を着せたい
 一家の身柄が北朝鮮に戻ってしまえば、文字通りMさんは何もすることができない。だが中国に居るあいだなら面会出来る可能性はある。釈放されないならば、せめて温かい衣類を十分着せて北朝鮮に送還されるしかなくても。
 そんなMさんの必死の思いが基金に伝えられたのである。
 一家は朴梅花の実家に匿われている間、日本からの送金を待っていた。無一文で中国にやって来た一家は、じっとしている以外になにもする事がなかったのである。それに北朝鮮から一家を中国まで安全に連れてくる北朝鮮人のブロ−カ−の朴勝浩(パクスンホ)に3千元の報酬を支払う約束になっていた。それも、日本から仕送りが来ないうちは、この地から一歩も動くことはできなかった。

 「私の家に来たとき、着ているものすべて脱がせて、風呂を浴びさせました。あの服装では、とても清潔とは言えません。とても汚れていました。何日も同じ衣類を着て、着替えもなく中国までやってきたのでしょう。 家族全員と娘婿の衣類まで集めました。下着は新しく買いましたから上着まで完璧に中国の朝鮮族になりました」
 一家4人は食卓にのったものは全て平らげたし、毎食炊飯器に炊いたご飯は一粒残らず食べ尽くしました。2週間近くの滞在で、いままでどす黒く栄養失調気味の顔は、健康な「人の顔」に戻ったと、朴梅花のオモニ(おかあさん)は語った。

 豆満江はすでに北朝鮮側、中国が側も氷結を始めており水流の中央に氷の固まりが流れるという程に気温が下がっている。
 冷気が頬を刺すように感じる。
4人は既に送還された。

 辺防大隊図們支隊の拘留所を訪ねた。教導員長と称する係官が対応する事になった。通常は面会するのも難しいのだが、特別のル−トで手を回しておいたのがよかったのかもしれない。教導員長の部屋に通されて説明を聞いた。

 「4人は昨日図們市出入国管理の所定の手続きを経て、他の18人と一緒にバスで北朝鮮側に引き渡した。彼らの健康は問題ない。私と同じくらいに着ていたから寒さに十分耐えていけるだろう。
 朝鮮側に引き渡す際の書類には、『食糧不足で飢餓のために、食糧を求めて中国にやって来た。微罪』と書いておいた。
 1ヵ月から3ヵ月の禁固、重労働くらいで放免されるだろう。無一文で放免されても、彼らは行くところがないから、必ず中国にやって来る。厳罰はない。心配いらない。
 朝鮮から中国に食糧を求めて不法入国者の数は数えきれないほど多いのだから、いちいち全部を逮捕することは出来ない。犯罪や通報があった場合のみ逮捕する。彼らは再びここにやって来るのは間違いないだろう。北朝鮮に送り返されたものは再び中国に戻ってくる。二度送り返されたものは、三度目も中国に戻ってくる。彼らはそうするしか生きる道がないのだ。
 同じ朝鮮族として、彼らの運命には同情するが、任務は果たさなければならないので、辛い仕事だ」

 およそ一時間ほど、話し合った。
部屋には留置場の各房の様子が一目で分かるように監視カメラから送られてくる画像が、10台のテレビスクリ−ンに映し出されていた。
 建物の外では、拘留中の北朝鮮からの二人の女性の脱出者が、部隊の公安の監視の下で白菜の外葉を包丁で落としてキムチを漬ける準備をしている。

ブロ−カ−の暗躍

  もともと一家が捕まったのはブロ−カ−同士のトラブルが原因だった。関係者の話を総合するとこう結論ずけることができる。 一家は北朝鮮を脱出するのにブロ−カ−の朴勝浩に中国まで安全に連れていってくれれば、3000元の謝礼をする。中国では延吉のブロ−カ−が一家の身柄を引受、一家の希望を実現させることになっていた。

 朴勝浩は一家を連れて豆満江を渡った後、3時間ほど歩いて図們市までやって来た。自分は、一家4人を朴梅花の木賃宿に置い後市内の別の宿泊所に行ってまま戻らなかった。一家は無一文で、食事をする事もできなく、一晩を過ごし、翌日になっても朴勝浩は現れる気配がなかった。一家を泊まり客として受け入れた時から、北朝鮮から来た不法入国者だと直観していた朴梅花は、同情半分で食事をさせ、宿屋に置いておいては、人の出入りが多く目立つと説得し、実家の方に身柄を移してしまった。

 連絡を受けてやって来た延吉のブロ−カ−の張明国は、一家がいなくなった上に、北朝鮮のブロ−カ−の朴勝浩とも連絡が取れなくなって狼狽した。
 朴梅花に対して張明国は「自治州公安局の者だ。北朝鮮から来た四人がいるはずだ」と身分を偽って半分脅して、居場所を突き止めようとした。しかし朴梅花は、この脅しに乗らず、「知らない」と言い通した。
 どうにもならないと判断した張明国は泣き落とし戦術に出た。
 「この間は嘘を言って申し訳けなかった。4人と朴を探すために言った嘘だ。頼むから4人を返してくれ。俺の飯の種を奪わないでくれ」
 それでも事態が変わらないと見るや、今度は脅しに出た。
 「それならお前の家族を目茶苦茶にしてやるからな、覚えておれ」

 張明国は朴勝浩が自分と組んでこの一家四人をだしにしてひと儲けしようと考えていたが、朴勝浩が心変わりして地元の朴梅花と組んだ。裏切ったと思い込んだ。せっかくの儲けを台無しにされたので、報復しなければ収まらなかったのだろう。「密告」による通報がされた。それから数日後自治州公安局辺防大隊ら捜査が入った。それでも、朴梅花は一家4人の在り処を言わなかった。11月5日未明、公安局辺防大隊の捜査は朴梅花の実家を急襲し、一家四人と関係者全員を逮捕し連行した。取り調べが終わったあと一家四人と朴梅花が公安局辺防大隊図們支隊に留置されることになった。朴梅花は罰金2万元を11月20日までに支払わなければ、刑務所に収監されることになっていた。

 神戸のMさんは、一家4人が2週間にわたって、寝食の世話を受け、温かい衣類を着せてもらったことに感謝して謝礼金を送った。 北朝鮮に送還された一家4人が、辺防大隊図們支隊の教導員長が言うように「3ヵ月位の禁固刑、強制労働くらいで済む」ならば、彼らにはまだ生きる希望も、未来もある。
 しかし、恐れるのは強制収容所送りになることである。私にはその可能性がどうしても否定できない。教導員長が言うように「一度中国に来た者は必ず、再びやってくる」という言葉を信じたい。

 日本に帰国後、報告のためにMさんを訪ねようとしたが、Mさんは「北に送り返されてしまったのですから、わざわざ報告には及びません」と力なく語った。その言葉には、肉親の口で言い表せないほどの落胆ぶりがひしひしと伝わって来るのであった。

<注>
 Mさんに宛てた手紙には、誤字や一部意味の取りにくい箇所がありますが、原文の雰囲気を壊さないように再現しました。また文中のアルファベットは、北朝鮮に残っている親族の生命のに対する迫害の恐れがありますので、イニシャルを使いました。

 ご意見、ご感想をお寄せください。

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PART3

「私はオモニとアボジの墓を作った」  北朝鮮孤児(11歳)の体験


 10月初めの吉林省延辺朝鮮族自治州は紅葉のはしりに入る。ポプラ並木の葉も少しずつ散り始める。冬の前触れが確実に運ばれている。やがてキムチを漬ける季節である。
 畑のトウガラシは、まだ赤くなりきらない一、二の房を残して、真っ赤っかである。庭先に取り入れられたトウガラシが秋天の光を受けて真紅の艶を放ち、赤煉瓦の民家をさらに赤く染る。

 図們市から延吉に向かう舗装された国道から横道にはいり、踏み固められた道を集落に向かって歩くと20数軒の小さな朝鮮族だけの村がある。 案内役をしてくれたボランティアの青年の後について一軒の比較的大きな民家に入った。
「あなたが出来るかぎりでいいから助けてやってくれ。本来なら私がしなければならないんだがここでは自由にならない」
私が北朝鮮からの難民を救援する運動に関わっていると知って、韓国に亡命した帰国者から頼まれたのであった。
彼の話によれば、北朝鮮からの孤児が中国で乞食をしている数は、想像がつかないほど多いと言うのである。
かねてから機会があれば実際にその子どもたちに会ってみたいと思っていた。

「弁当を忘れた」と息せき切って一人の女の子が車座に座って話し込んでいた養父母と私たちの輪の中に飛び込んできた。突然の訪問客に驚き慌てて「アンヨンハシムニカ」と挨拶をした。
 養父のキムヨンチョル(仮名)さんが、「お客さんが来ているから、学校が終わったら早く帰っておいで」というと、「ネ−」(は−い)と元気良く返事して弁当箱を抱えて近くの学校に向かって、駆けだしていった。

 この女の子は名前をリヨンエ(李英愛)と言い12歳だと言ったが、満年齢では11歳だ。キムヨンチョルさんの説明によると、彼女が彼の元に「養子」としてやってきた事情は次のようなものだった。
 「私のところにやって来たのは98年6月だった。延辺のキリスト教会の信者のキムさんから、あなたを見込んで頼みたいと言われて、同じ朝鮮民族として断るわけにいかなかった。私もキリスト教の信者だし、引き受けるか引き受けないか身の上話を聞かなくても、事情は十分わかる。ヨンエが私のところに来たときは、ガリガリに痩せていた。この辺りにいる11、12歳の子どものようにふくよかではなかった。ここに来て三度の食事をきちんと食べたら、3ヵ月で太ってふくよかになったし、体重も36キログラムになった。外見はよその子どもと違わないが体が弱い。診療所の医者の診断では、肝臓がよくないないようだ。いずれ病院に検査に連れていかなければならないのだが、病院で診察を受けるのにもお金が必要で、今は一家が食べていくだけで精一杯でとても病院に行く余裕がない」
 延辺ではただでさえ雇用が少なく、停滞する経済のために活力がない。食べられるうちは、良しとしなければならないのかもしれなかった。

 リヨンエが学校から帰って来ると、私の求めに応じてこれまでの自分の経験を語ってくれた。

 「私は中国と北朝鮮の間を15回往ったり、来たりした。98年3月に北朝鮮から中国に渡った時まで孤児院で暮らしていたんです。
 オモニ(母さん)の名前はキムオクハと言います。97年1月19日、肝臓の病気のため33歳で死にました。そのときアボジ(父さん)は、食糧不足の中で栄養失調で、眼の瞳の上に白い蝶のような斑点ありました。アボジは目が見えなくなっていたのです。オモニが死んだときアボジは目が見えないので、オモニの墓を作ることが出来ません。それで私がアボジと一緒に働いていた家鴨の養殖場の人の家まで行って、オモニが死んだことを伝え、一緒に墓を作ってくださいと頼みました。アボジは、涙を流すだけで何もする力がありませんでした。墓は住んでいた山の裏側につくりました。
 アボジは、オモニの死後7ヵ月後の8月22日に食べるものがないために死にました。再び私がアボジと一緒に働いていた家鴨の養殖場の人の家まで行って、アボジが死んだことを伝え一緒に墓を作ってくださいと再び頼みました。
 アボジの姉さんが新浦に住んでいると聞いていますが、どこに住んでいるか知りません。オモニの兄弟が清津に住んでいると聞いていましたが住所を知りません。


 スプ−ン三杯のトウモロコシご飯

 私は咸鏡北道茂山郡降仙区にある孤児院で暮らすことになりました。孤児院では勉強もさせてくれましたが、煉瓦運びとか建築の資材を運ぶ仕事もしました。食事は三度カンネギパブ(トウモロコシご飯)でしたが、スカラ(スプ−ン)で三回すくうとなくなってしまう量で、何時も空腹でした。

 孤児院にいる年長の男の子で中国に行っては捕まって送り返されて来る仲間がいました。その男の子によれば、中国に行けばいい暮らしが出来るという話です。いい暮らしとは、食べたいだけ食べられ寝たいだけ寝られ、誰も命令しないと言うのです。私もいつか必ず中国に行くと考えました。 それで何度か実行しましたが、中国側の村で公安に通報されて捕まり、北朝鮮に送り返され孤児院に戻されました。孤児院に着くと叱られますが殴られることはありませんでした。しかしせっかく中国で貰ったシャツ、上着などは取り上げられました。それを着ているとまた中国に逃げ出すというのです。たしかに中国に行けば、食べる事が出来るし、服も着れるのです。ですから何度捕まっても中国に行きました。何度も失敗しましたが、だんだん失敗しないようになり、15回目に和龍市というところまで行き着くことが出来たのです。

 15回目は、98年3月、氷りついた豆満江を歩いて渡りました。そのときは3人で渡ったのですが、中国側の岸にたどり着いた時にすぐに、ばらばらになりました。3人で中国の村の家に食べ物を下さいと歩くと目立つのです。三人で行けば貰えないことが多いのです。一人ならたとえ少しでも貰えることが分かっていました。


 逃げてきた者を匿えば罰する

 村のあちらこちらに警告板が立っていて「物の売り買いをしてはいけない。逃げてきた者を匿ってはいけない。匿った人は罰せられる」と書いてあるのです。

 自動車が通る道に出て歩いていると、運良く木材を積んだトラックの朝鮮族の運転手がトラックを止めて、途中まで乗せてくれました。私が北朝鮮から来た事を知っていたみたいで、だまって、パンを食べなさいとくれました。
 何処まで行くのかと聞かれましたが、なんと答えていいか分かりません。中国の土地の名前を知らないんです。それで、人がたくさんいて、食べ物がいっぱいあるところと答えました。
 運転手は笑って、それなら延吉だなと言いました。私はそのとき自分は延吉に行くのだと思いました。しかしそのトラックは別の場所に行くというので、延吉へ行くトラックはどちらに頭が向いているかと聞きました。運転手はまた笑って、分かれ道で、こっちに行くトラックは延吉に行くと教えてくれました。教えられたとおりの方向を向いているトラックを探しました。私を乗せてくれたアジョシ(おじさん)運転手が、漢族のトラック運転手を連れてきてこの子を乗せてやってくれと頼んでくれました。和龍に着いたら延吉へ行くトラックを探せ、とアジョシ運転手が教えてくれたのです。私はそのトラックの荷台に乗せてもらうことになりました。

 和龍市はとても大きな町でした。市場があり、食堂だけが集まった市場もありました。私は食堂だけが集まっている市場に行きました。そこで優しそうなアジュモニ(おばさん)が商売をしているのを見つけました。お客が食べ残したククス(ウドン)を捨てるのを見て、仕事を手伝うからその残った食べ物を捨てないで私に下さい、と言いました。
 するとはじめはアジュモニは大変驚いた顔をしていましたが、すぐに「いいよ。おいで」と言って、食べ残りが入った丼にス−プを足してククスも少しいれてくれたのです。食べ終わって食器を洗って返したら、アジュモニ(おばさん)が気にいってくれて、そこで働くことになりました。大変おいしいククスをアジュモニが作って、食べた後の食器を洗うのが私の仕事でした。仕事をつらいと思ったことは一度もありません。

 夜は食堂の椅子を並べて寝ました。ここで働いている間は十分食べることができて幸せでした。しかしこの幸せは長くは続きませんでした。私が働いていた隣りの食堂で働いていた朝鮮から来た17、8歳の姉さんが、中国の公安に捕まってしまったのです。いつまでもそこにいれば、私も逮捕されてしまいます。
 食堂のアジュモニが、延吉市行きのバスの切符を買ってくれました。氷ついた豆満江を渡ったのは3月の初め、一週間かかって和龍市にたどり着き、6月にはせっかく慣れた場所を去らなければなりませんでした。アジュモニが私に次のように言いました。
 「延吉に着いたら延吉キリスト教会に行きなさい。そこに行けば誰かかが助けてくれるから」

 バスは2時間くらいかかって延吉市に着きました。「教会に一番近い場所で下ろして」と食堂のアジュモニが車掌に頼んであったので心配ありませんでした。教会はすぐに見つかりました。とても大きな建物で、屋根の上に十字架がありました。それまで教会と言われてもどんな所か知りませんでした。建物の中に入ると、キムさんというアジュモニが、私の話を聞いてくれてそこで保護されることになりました」

今リヨンエは近くの学校で、小学校の2年生に編入して勉強している。


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PART2


  9月中旬の中国東北地方の黒龍江省、吉林省はすでに長袖とジャンパ−などの上着が必要になっていた。上下の夏服のス−ツできめいた同行者は風邪をひいてしまい、地元の露天商人から秋冬用の長袖シャツを買い込む羽目になった。

 今回の旅行の目的は、ニュ−スの2号でも紹介してあった、救援を希望する申在植さんの基本的な人的事項、家族関係などを聞き取り調査をするのが主要な目的であった。そのほか北朝鮮から脱出した帰国者の一家族が、吉林省長春市で日本への帰国を求めているとの情報があったのでその確認と調査をすることが目的であった。
 日本出発前には予期していなかったことだが、当基金の活動を聞いて、「ぜひ会ってもらいたい」と韓国に定住した在日の北朝鮮帰国者から懇請されたため、中国で放浪をしている北朝鮮の孤児たちを面倒見ている中国の朝鮮族の人たちと面会し、孤児たちの聞き取り調査も行った。

 申在植さんについては、別に字数を割くのでここでは割愛する。


 保衛部と中国公安の合同捜査、逮捕の危機

 一家は98年6 月、夫が単身北朝鮮を脱出してから十カ月目に再会することができた。互いの無事を喜んだが、現在の場所も生活を始めて既に3ヶ月が経っている。安全上限界にきている。ここを去り別の場所を見つけなければならない。一つの場所に長く滞在するのは危険だ。密告される恐れがある。北朝鮮の保衛部は脱出者に対して懸賞金を掛けているし、手先になって動く朝鮮族のならず者もいるからだ。

 長春市に身を潜めている四十六歳のK・スン、妻のK・プクスン(仮名)、息子のK・イル(仮名)の一家三名は一度、北朝鮮の保衛部の要員の要請で逮捕に来た中国公安の追手に拘束される寸前だった。知り合いからの電話連絡で間一髪の差で逮捕を免れる際どい経験をした。
 そもそもK・スン一家が北朝鮮を脱出しなけれならなくなったのは、父親が1963年に帰国したときに持ち帰ったカメラとモ−タ−ボ−トのエンジンがもとでスパイ容疑をかけられたのがきっかけだった。1976年2月父親が「スパイ」として逮捕されて1年8ヵ月の取り調べの後に、反共宣伝分子とのレッテルを張られ、耀徳監理所(収容所)に送られ1978年5月に死亡した。 「こうなると私は出身成分が悪いと大学から退学させられ、反動の息子のレッテルを張られて就職もできず、友人たちは私を避け、会うことも怖がった。この時から北朝鮮社会での生活の前途は完全に遮られてしまった」

 K・スンは重なる経済的な困難と政治的な侮辱に苦しめられながらも歯を食いしばり暮らしていた。
 頼まれた軍需物資の闇商売が密告されて安全部に逮捕され、取り調べを受ける。軍の担当部署から手を回してもらって一度は自由の身になったのだが、再度逮捕される危険があった。なにしろ軍需物資の闇商売である。捕まれば軍関係者に類が及び銃殺刑になる将校が出るのは避けられない。それだけでは済まない。

 父親がスパイ容疑で逮捕され、すでに一家は反共宣伝分子、スパイの家族のレッテルが張られていたのに加えて、K・スンも反動不満分子という評価が成分表(身分表)に新たに加わっていた。今度逮捕されたら不満分子の罪で無条件処刑になるのは目に見えていたのであった。犠牲を出さないためには北朝鮮から脱出する以外に方法がなかった。1997年8月K・スンは北朝鮮に二度と戻らない決心をした。再会できるまで妻子は厳しい監視と嫌がらせ、それに輪をかけた食糧の不売に泣いた。中国のこの地も安全ではない。いつ北朝鮮の保衛部と中国の公安の合同捜索の手が何時伸びてくるかわからないからだ。一家は生きていく場所がない。一家は生きていける安全な第三国に行く方法を模索している。

 基金は一家が緊急に避難しなければならない時に備えて緊急避難資金を支給した。


 増える北朝鮮の孤児たち

 食糧不足から北朝鮮では一家が離散し、家族崩壊が進んでいる。子どもが親の元を離れたり、親が子どもを置き去りにするケ−スが増えている。 延辺朝鮮族自治州の和龍(ファリョン)市では北朝鮮からやって来た孤児たちが、市場で「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」を歌って、お金を貰って暮らしている、と聞いた。どうしてもそんな光景に出会いたいと思った。余りにも出来すぎた話ではないかと思ったからだ。

 生鮮食品の売場、雑貨、衣類売り場、食堂だけの市場などくまなく三度ほど回ってみたが、ついに歌を歌う北朝鮮からやってきた「小さな芸人」たちに会うことは出来なかった。彼らは9歳から15歳くらいまでの少年少女で、お客が食べ残したおかずやご飯、ウドンなどをもらって食べている。食堂の主人たちも彼らの運命に同情して、残り物を彼らに与えている。だから孤児たちは生きていかれるのだろう。
 土地の事情通に聞くと、彼らは神出鬼没だそうだ。彼らも捕まれば北朝鮮に送還されるからだ。彼らは国境の図們江を渡り、中国の都市まで歩いたり、トラックの荷台に乗せもらったり、もぐり込んだり様々な方法を使ってやって来る。バスにのる僅かな金さえ、一食食べる金も、着替えもなくやって来る。
 市場の物売り台の下にもぐり込んで寝たり、他人の家の納屋や物置も彼らの寝床だ。夏はいいがこれからは零下になる季節だ。どのようにて耐えて生きていくのだろうか。長白山に近いだけあって最低温度はマイナス20度Cまで下がるのは珍しくないないというのに。

 子どもたちは中国の公安に逮捕されて北朝鮮に送還されても大人と違って、拷問を受けたり処刑されたという話は聞かない。だが食べるものがない北朝鮮に送り返されても、収容先の孤児院から再び逃げだすしかない。孤児院では一食に出されるトウモロコシご飯はスプ−ンで3回すくえば終わってしまう量なのだそうだ。いくらなんでもこんな僅かな量で我慢できるわけがない。だから機会さえあれば何度でも川を渡って中国にやってくる。北朝鮮と中国の間を15回も往復した子どもさえいる。

 咸鏡南道端川(タンチョン)市テンポン洞に住んでいた金ジョンスン(12歳)はそんな少女のひとりだ。
 こうした孤児ばかり8人を分担して面倒見ている朝鮮族の家族に会った。彼らも決して豊かでない。中国の延辺は韓国経済と密接に関係だから、韓国がIMF(国際通貨基金)の管理経済となってからはその直撃を受けて青息吐息なのだ。
 それでも、なんとかご飯を食べさせ、学校に通わせている。戸籍がないために学校では2倍の学費を要求されて苦労している。
 「長白に世話をするひとびとを配置してしていますが、ここは北朝鮮の地から非常に近いために数えきれないほどの子どもたちが、ご飯を下さいとやってきます。余りにも数が多くて全部を面倒見ることはとてもできません。大部分の子どもたちは山に穴を掘り寝ています。あわれな子どもたちは雨の降る日は行き場所がなく、あちこちに集まり身震いしています」
 子どもたちの面倒を見ているキムチョルさんはかわいそうな子どもたちを目の前にして手をこまねいている自分を嘆いていた。

 私は、彼から救援の援助を頼まれた。話を聞けば聞くほど、事情を知れば知るほど無い知恵でも軽い財布でも出さざるを得ない心境だった。
 一人一人は非力でも、会員、読者の皆さんの善意と力を合わせれば一人でも多くの子どもを助けられるのでないか。いつしか私はそんなふうに考えるようになった。日本に戻ってからもキムチョルさんの訴えが頭をはなれない。いい知恵があっら是非教えてほしい。


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PART1


 7月中旬からおよそ10日間中国吉林省延辺朝鮮族自治州に滞在した。北朝鮮から脱出者の実情を把握するためであったが、問題が治安問題とリンクしていて、微妙で危うい性格のために慎重に行動する必要があった。
 具体的な例証としては5例のヒアリングができたが、全ての事例について直接面談方式が取れない事情もあり不満の残る結果であるが、今までこのような調査はなされていないので、北朝群脱出者の過酷な運命を理解する一助になれば幸いである。

 中でも興味深いのは1960年代に「帰国運動」で日本から北朝鮮に帰国した人物が含まれていたり、帰国者の娘が2名含まれていたことであった。 滞在した期間がちょうど7月26日の北朝鮮の最高人民会議代議員選挙の投票日と重なっていたため、中国に滞在していた北朝鮮国籍の保有者は一斉に北朝鮮に帰っていった後だった。そのため、中国に滞留している人数は少なくサンプリングの環境としては良好とは言えない状況であった。最高人民会議代議員選挙は、国政調査を兼ねるという意味合いもあって、戸籍に実在しているかどうか厳密に調査されるのでどんな事があっても本国に戻らなければならない事情がある。
 従って、26日を過ぎても中国に滞在する北朝鮮人は二度と北朝鮮に戻らない決心をした人たち、あるいは戻ることができない人たちである。

 私が会った人たちは、いずれも中国で非合法的な存在であるために、「身柄の安全確保」を名目にした中国在住の朝鮮族の「保護」下にある。中国に知り合い、親族などがいない場合、そして中国語ができない場合は、彼らに頼るしか生きる道はない。非合法で出国、中国に入国した瞬間から非合法的な存在とならざるを得ない。
 彼らは、闇から闇に取引されていく商品である。残酷で過酷な未来が待ち受けている。
 「保護」といえば善意のように響くが、文字通り「」付きである。

 北朝鮮から中国に脱出してきた人たちの数は、東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)で20万人に達すると言われている。この数字の根拠について、北朝鮮人民武力部所属の貿易担当者に聞いたところ、労働党の内部通達でこの数字が使われており、脱出者の中に占める帰国者、及びその家族の人数は1パーセントを越えていると言う。つまり、2千人は中国に滞留していることになる。にわかに信じがたい数字である。
 いずれにしても北朝鮮脱出者は、中国で金づるとして人身売買、人質として扱われており、北朝鮮に戻っても地獄、中国にいても地獄という境遇にあり、重大な人権侵害にさらされている。

 こうした悲劇をなくすためには、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が中国に難民センターを設置し、救済することが求められる。以下は調査事例である。

調査事例1
保護−「人身売買」につながる事例

氏 名       : 不詳 28歳 女性
中国入国時   : 1998年5月末−6月初め
北朝鮮出国地点: 咸鏡北道三峰労働区
中国入国地点  : 吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市関山屯
中国入国方法  : 非合法、図們江を渡河
保護者       : 中国朝鮮族 47歳 男性・C
斡旋先      : 広州にある韓国企業の食堂の下働き

調査事例2
保護−性的隷属 (内縁関係を強制されている)

氏 名       :  K.福順 42歳 女性 名古屋出身
中国入国時    :  1998年3月9日
北朝鮮出国地点: 北朝鮮咸鏡北道三峰労働区
中国入団地点  : 吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市開山屯
中国入国方法  : 非合法、図們江を渡河
保護者       : 中国朝鮮族 47歳 男性・C
斡旋先又は居住地:
  延吉市内に2LDKを借りて、囲っている。家賃1ヵ月 100元、3ヵ月前払いした。
  偽の身分証を3000元で作った。
  匿った当時の状況:北朝鮮から着てきた衣類を捨てさせ、中国の衣類を買って与えた。北から脱出してきた人を助ける場合、企共の輸送機関を利用できないので、移動時には、脱出して安定するまで少なくとも5000元を要したと言う。

備 考      :
   6歳の時帰国運動で父母とともに北朝鮮に帰った。咸鏡南道清津市に住んでいた。家族構成は不明。帰国当時の生活は恵まれていた。父親が酒を飲んで生活上の不満を漏らしたことが原因で収容所送りになった。残された家族は反革命分子の家族、子供といじめられ、社会的差別を受けた。咸鏡北道茂山に嫁に行ったがなじめず、会寧に移り住んだ。夫は肝臓癌で死亡。夫の氏名、家族構成など不明。日本語による会話がある程度可能である。
  K.福順さんは、Cから逃れたい旨を通訳を通じて表明している。しかしながら、K.福順さんとの面会、聞き取り調査をCが拒んでいる。

コメント     :
  Cとの面談の中でも5人の女性を斡旋している。斡旋先はこれまで黒龍江省牡丹江付近の農村で嫁の来てのないところに売り飛ばす。一人あたり6000元という。
  K.福順さんは自由を望んでいるが Cは、手放す意思はなくで自分の手元に置いている。


調査事例3
保護−移動の安全の斡旋

氏 名        : 不詳 女性、49−50歳くらい。咸鏡南道  元山市出身
中国入国時     : 1998年6月末日
北朝鮮出国地点  : 北朝鮮咸鏡北道三峰労働区
中国入国地点   : 吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市開山屯
中国入国方法   : 非合法、図們江を渡河
保護者        : 中国朝鮮族 47歳 男性・Cの同業者
斡旋先又は居住地: 龍井市市内に隠れ住んでいる。

備 考        :
  夫の氏名は盧真(進)、13歳の子供がいる。家族ぐるみの脱出の模様。現在牡丹江方面に移動を計画中。最初に女性が脱出し、後から夫と子供が合流した。調査担当者との面会を拒否
  日本に兄さんがいる。かつて送金の援助があった。
  斡旋料を支払って中国国内の移動を依頼している模様。

調査事例4
保護−人質(日本からの援助金の配分、人身売買につながる可能性)

氏 名       : K・オッキ 35歳 女性、会寧出身
中国入国時    : 1998年5月末日
北朝鮮出国地点 : 北朝鮮咸鏡北道
中国入国地点   : 吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市開山屯
中国入国方法   : 非合法、図們江を渡河
保護者       : 中国朝鮮族30歳代、漢族男性二人組によって匿われている。
居住地       : 龍井市市内に隠れ住んでいる。

備 考        :
  日本からの帰国者の娘。父親は東京、母親は福岡県福岡市の出身。
  日本に親族がいるが、父母の兄弟の代から子どもの代になっているため援助に消極的である。それでも本人は日本に帰りたいと希望しているし、希望を捨てていない。
  K・オッキの場合、中国の朝鮮族の家に匿われて住み、漢族の男が売り先を探し、売り飛ばす役目をしている。この男はこれまで黒龍江省方面に6000元で売った経験がある、と語っていた。

  二人の男は、日本からの援助があれば、援助の半分を謝礼として受け取ることでオッキさんと合意が出来ている。日本から援助が無い場合、オッキは「嫁に行く」と調査担当者に語った。つまり、「嫁に行く」とは言葉を変えれば、売り飛ばされることを意味している。匿っている側の立場は「安全に保護をする」報酬を求めているので、「嫁に行かせる」のもよし、あるいは、このまま置いて金づるとしておくのもよいとの判断である。問題の本質は、これらのケースが人質であることに変わりはない。
  日本の親族が助けてくれない場合、調査担当者に助けてほしいと懇願した。一方で二人の男は、話が細部にわたると話を妨害した。話が聞きたければ、2000元づつ払ってくれと要求するほど、金に執着を見せている。

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