谷中村、廃村へ

谷中村を廃村にしてそこに貯水池を作り鉱毒を沈殿し、洪水を防ぐとして計画。土地収用法、さらに河川法を適用して村民の追い出しをはかります。漁具を盗み、堤防を毀して麦畑を水没させ、青年を遊興に誘って財力を失わしめ、古道具屋に農具や家具、樹木を買い取らせ、8倍もの苛税を課す、反対民の買収や供応、ありとあらゆる手を使って村民の追い出しを進めました。
 
野に下った正造は、この間村民とともに村の死守の為戦いを続けていきます。
明治40(1907)年、遂に谷中の16戸の残留民の家屋を強制破壊しますが、この破壊後の一家族の様子を寒村は「谷中村滅亡史」に次のように記しています。
「悽愴たる夜雨は来たれり、しかしてこれを凌ぐべき一枚の廂だになし。飯を喰わんとして要意せる鍋釜まで運搬されし梅吉の家族五人は、飢と寒さに慄えつつ、父子相擁いて痛恨の涙に一夜を明かせり。」
家屋を強制破壊された村民は、竹の柱、葦を屋根に麦藁を板敷きにするなど、仮小屋を作ってまで頑張っていましたが、大正6(1917)年ついに村を去らざるを得なくなります。こうして渡良瀬遊水地が作り出されたのです。
 
一生を足尾銅山の鉱毒と戦った、いえ、政府と戦ってきた田中正造は大正2(1913)年8月22日、『是からの、日本の乱れ……』の一言を残して、73歳の生涯を終えました。

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