詩誌時評
「湾岸戦争詩」論争を出発点として
高岡淳四

『現代詩手帖』が7月号の特集「詩になにができるか―ことばとはなにか」で、『鳩よ!』の「湾岸戦争詩特集」および、藤井貞和氏が湾岸戦争に関連する詩を『飾粽』に発表したことについての反応を取り扱っている。稲川方人氏は、二価値的なものが精神的な光景として崩壊した後のイメージとしてある「先進国」においてなにを成すべきかを問い、谷川俊太郎氏は、「普通の読者」をずっと持ち続けてきた立場から詩にもいくらかの「力」があるのだと楽観し、瀬尾育生氏は、藤井氏が湾岸戦争の詩で「正義」を振りかざしたのだ、と倫理的な選択を迫られることに対しての不快感を示し、荒川洋治氏は、自身の詩の形態をとってアクチュアルな問題を扱おうと試みてきた立場から、作品だけで全てを言えなかったのかと藤井氏を攻撃し、藤井貞和氏は、問題の当事者としての立場から、詩の作品の底上げをするためには、複雑なアクチュアリティに対して打って出ることも必要だったのだと反省癖に悩まされながらもいい、白石かずこ氏は、実際に海外の詩人と関わってきた立場から、瀬尾氏にオメデタイと片付けられた詩人たちの擁護をし、吉田文憲氏は、アルバイトで生計を立てている立場から、お金がないから『鳩よ!』の原稿依頼に応じたときの内面の葛藤を書いており、川端隆之氏は、「私は無力なオタクゾクです。」という立場から、(笑)いながら現状を眺めている。
 各氏がそれぞれの立場を持って、様々な思惑が行き来するのは当たり前のことであるにも拘らず、各氏とも現代詩の未来に対してポジティヴな姿勢を示さずにはおれなくなったことを素直に喜びたい。詩が持つ「悪」について語る谷川俊太郎氏に稲川方人氏が語るがごとく、「ある立場や詩的価値の決定が問われているんじゃなくて、そういったところからの上昇・飛躍が詩の言葉に問われている」のである。いまや、現代詩の暮れなずむ夕日の中でやがて来る詩の死を待っているという幻想は意味を失ったことを現代詩人たちは明確に自覚し始めた。さらに言えば、詩人たちは現代詩が現在陥っている状況を病的であると認識し、そこからの回復の方法を模索し始めたと言うことができる。
 ここで言う病的な状態はこの度の「湾岸戦争詩」問題によって計らずも露呈された。荒川-藤井対談において荒川洋治氏が語るごとく、現代詩人たちは、彼らの間に一種の共同体を作り、その内部における自己愛によってお互いを励ましあいながら独自の価値観を支えてきた。共同体の中においては新しい感情、新しい言語表現、新しい生活を求めるという表現者にとって重要な姿勢が育まれてきたわけだが、発表される作品は、共同体内において切磋琢磨されてできた感情を同様にしてできた言語意識によって表現されたものに限られてきた。このような状況において共同体外部にある湾岸戦争というアクチュアルな問題に反応して作品を書いた藤井氏や『鳩よ!』の湾岸特集号に作品を掲載した詩人たちに対して、作品の善し悪しには関わらずにまず拒否反応が示されたのである。ここで問題とされるべきは、現代詩人の陥っている閉鎖性、いいかえれば一種の懐の狭さであるといえる。この閉鎖性は、もはや詩は死にいく表現形態であるという鬱的で、これから詩を書こうとする若者にとっては甚だ手前勝手な認識や、実際に精神に変調をきたす編集者や詩人がいたとかいないとかいった弊害をもたらしたと考えられる。
 しかし、現代詩を魅力的な場に変えるためにはまずこの閉鎖性を打破することが急務であることはいうをまたない。私がここで言う魅力的な場というのは、最も簡単に言えば、詩人たちが盛んに作品を発表し、その間で活発な議論が戦わされるような場所のことである。
 ここにおいて、詩壇が活性化するはずがないという認識があるがそれは、詩もまた社会によって規定されてある存在に過ぎず詩が社会に働きかける時代は終わった現在において詩が大衆に受け入れられるはずがないという認識によってなされるものである。そのような認識はもともと社会への志向を持たないで閉鎖的な世界に閉じ籠ることが好きな詩人によってなされたものだと考えられるのでこの場合意味を持たないのである。詩が社会に働きかけ得ないという現状があるとしても、それは詩の問題ではなくむしろ詩人の能力の問題だというべきである。湾岸戦争詩問題において、数人の詩人の社会に働きかけずにはおれなかったという立場が示されたのであれば、いま詩人に求められているのは自らの能力の底上げである。ここでいう能力とは社会に働きかける能力に限られない。現代詩が魅力的なものとなれば、大衆に読まれる詩人が一人や二人出てきても何の不思議もないといえる。
 問題となるのは詩人の批評能力である。それは第一には、提出される作品は、現在ある現代詩の言葉の技術のレヴェルに達していることが最低の線として要求されるので、詩人たちはその方面での努力を怠ってはならないし、そこで要求されるのは自分の言葉に対する批評力であるということである。第二には、詩人たちに、お互いを批評しあう能力を要求されるということである。それにはいろいろなアプローチがあるであろうが、とりあえずは作品が個人の内面をどのように言語によって表現しているかというレヴェルでの批評が可能であろう。ここでいうとすれば、第二の点において要求されている批評力がもしも詩の多様化を自粛する力として働くとすれば全くもってナンセンスである。たとえば今回の問題でいわれているような、「もともと詩は無力なものである。」というような認識や、「詩は(いわゆる)普通の人に対して悪として働く力を持っているのだ。」といった倫理観は個々人で掘り下げてもらえばいいわけであって、「普遍性を持ちえない」のである。
 次に問題となるのは新人の登場の仕方である。現状についていえば、新たに詩集を出した新人の作品を読むとき、なるほど言葉においては洗練されているが、個性においていわせてもらえば全く似通ったものが量産されているという感想をどうしても持ってしまう。現在の新人の登場の仕方とはすなわち、『現代詩手帖』や『ユリイカ』の投稿欄で新人賞を取って新人特集のときに作品を載せて貰えるようになる、詩の先生の教室に入って先生のご指導を仰ぎ先生の御墨付きで出版社に推薦してもらってそれなりの金額を負担して詩集を出版する、などというように分類できるわけであるが、いずれにしても新人がプロとして登場するまでのみならずその後も既成の詩人の強力な教育が行き届くわけで、このせいでこれは一体誰の詩かと判断するに困るような自体が起こるわけである。もちろんプロとして独り立ちできるまでは新人に対しての教育は必要なわけで、教育の後に個性的な作品が発表できるできないは資質の問題でもあるのだが、何時までも先生にくっついて仕事をしているとなかなか自由な活動ができないというのも本当なことを考えると、この現状は明らかに問題があるといえる。
 いま必要とされているのは現代詩という場において全てをポジティヴに考えることである。現代詩が詩人の共同体内のみで自足する場、言い換えれば詩人がお互いの言語意識を磨き、それだけで新たな世界の認識を切り開こうとする場としてあった時に日本の現代詩は言葉に対する意識を発達させたので、表現の技術においてはなかなか高い水準にあるということができる。この技術は現代詩の財産というべきであり、現代詩が次のステップに進もうとするときに、有用に働いてくれるものだといえる。これからの現代詩人には、自ら新たな詩のありかたの可能性を切り開いていく努力と、他者である詩人に対して、その活動の未来における可能性を見据えた上での建設的な批評活動が求められているのである。

(「妃」9号、1991年8月)