田中庸介のイベント・レポート

ひりひりするような痛々しさが、

 
〜「関ヶ原・大阪冬の陣」〜

2001年3月18日・午後3時開演・キャンパスプラザ京都

 

 

日曜日の京都はあたたかく、黒い冬物のジャンパーが暑苦しくなるような、そんな春の一日でした。花粉症が出だしたのを感じつつ、それでも現代詩手帖三月号の座談会でこの朗読対決イベントの出演者の平居謙さん長澤忍さんヤリタミサコさんにあそこまでいろんなことを言ったのだから見届けなきゃ、という思いで新幹線を降りました。エスカレーターで東京と違って右側に立たなきゃいけないのにハッとしつつ、長い駅の通路を抜けた駅前のごちゃごちゃの中に「キャンパスプラザ京都」はありました。キャパ100人くらいの会場は二階の集会室で、正面に墨絵みたいないかにも京都風の屏風が立っていて、そこにわざと焼け焦げを作った紙に「関ヶ原」と筆文字で書いたのが三本のテープで吊るされていました。演壇横の左右に椅子が七つずつ。その後ろにご丁寧にもおのおのの「武将」の名前が書かれたやはり筆文字ののぼりが立っており、ここが出演者の控え席なんでしょう。詩の東軍西軍の対決ということですが、大将が長澤さん平居さんということ以上にはあんまり東西の意味はないんでしょう。でも古都京都を意識した春らしく品のいい仕上がりの舞台ですね。看護婦のコスプレをした美人の女の子に1500円を払って会場に入ると、やはり「見届けなきゃ」という思いで東京から駆け付けていた思潮社編集の小田康之さんがいて、「やあやあ」ということになりました。しばらく見ないうちに髪をのばしてずいぶん貫禄がついちゃいましたね。NHKテレビの取材も入って、すこし物々しい雰囲気。

15時12分、定刻を少し過ぎて司会の大村浩一さんが前回と同じ赤ラメのジャケットで登場。この「関ヶ原」というのは東西にわかれてまず武将たちが対決し、最後に大将戦がある、というルールの説明。紅白歌合戦を意識した全員の入場、そして大村さんの開会宣言、「ウツクシイ カラダモッテ/イカサマノ ウタウタイ」で始まる自作詩「センチュリオン」の朗読などがあり、この方、とてもがんばっていますが、ときどき、というより、かなりしばしば、司会進行が痛々しく破綻してしまうので、MCはやはり完全原稿を作って暗記されたらよかったのにと思わされるところが時々ありました。ほんとにまじめな人なんですよね。大村さんの詩に「じゃ帰ろか」と軽口を飛ばした西軍の大将、平居さんはなかなかの出だしとみました。

●西の一番手、尾ヶ崎整さんはいきなりの女装で登場。ピンク色の洋服の股間に手をいれて膨らませたのはいいのですが、足がふるえてたりして見ているほうがはらはらしました。「乳首がない」女の子についての詩を読んだのですが、こういうねじめ正一調の物語詩は読み手が詩のわかりやすさに安心しちゃってる分、その物語がパフォーマンスの定型にからめとられる盲点がでてきやすいので、そういうところが難しいですね。隣で見ていた詩人の松尾一廣さんのノリもいまいち。

●続く東の一番手、松本和彦さんは「こわれた」ところを見せると予告してた通り、年に似合わないTシャツからにゅっと出た両腕にカラフルな模様入りのテープをぐるぐる巻きにし、ほっぺたにサクランボシールまで張った痛々しい格好で、ガスマスクをつけてうしろの楽屋から乱入してきました。最初はガスマスクの内側からのくぐもった叫び声から始まり、前の演壇のところまで来て、最前列の椅子につかまったり倒れたりしながら「ルンルン気分で朝の、」(表記曖昧)というリフレインの自作詩を朗読。東軍の大将長澤さんのコメントは「うーん、こういう松本さんは見たことがなかった」、と。このごろはちょっとやそっとのこわれ方では目が驚かなくなってしまっているのですが、それでもどう考えてもつくりものにすぎないような松本さんの叫び声のそのどこかに、ほんの少し「ほんとうのこと」が混じっているのを見届けることができたような気がしました。でもそれは回を重ねれば重ねるほど、練習すればするほど出しにくくなっていく無意識の部分なので、そしてそれを意識的に出せるようになるまでにはまた、けっこうたいへんな道のりがかかるようなものなので、ほんとによいものを見せてもらったという気がしました。

●西の二番手は千里中央さん。大阪の地下鉄の駅みたいなこの方は「せんり・なお」さんとお読みする女性で、この方も「こわれた」ところを演じていた。顔が横をむいたまま、お着替えをしつつ、「先生」にむけて何か身の上話みたいなものを続けるという「電波系」っぽい世界ですね。最後は平居大将に手押し車で搬出されてしまうという幕切れですが、たぶんそうするしか終わりようがなかったんでしょう。声がきちんとすきとおっていて、意味のひとつひとつが届いてくるのが心地よかったです。

●東の二番手はタケイリエさん。白いきれいなドレスを着て自作の詩集を読んだのですが、ふっとことばが途切れる間に緊張感があり、せまってくるリアリティを感じましたね。「男の耳はロバの耳 動物とおんなじ」(表記曖昧)というリフレインが、恋にぼろぼろにされた女の子のすごみを感じさせました。この方も朗読美人かも。

●「こわれた」系の朗読が続いた後、ここで西軍の平居大将から三番手の「忍びの者」の紹介。一人目は杉山さんというきちんと紺のスーツを着た男性で、和装の上田假奈代さんにもたせた掛け図の脱力系のイラストを見せながら、「フトンがふっとんだ」他の詩を読みました。このきちんとした服装とイラストはあきらかにボケを狙っているのですが、どこで笑っていいのかわからない、ボケの突っ込みどころが中空で静止したような詩に困惑してしまったのは、あまりにも一途なまじめさがあったからでしょうね。長嶋の声色がすごかったので、やっと観客は笑うことができて安心しました。最後の方の「ありがとうが言えない」は、「サンキュー」とか「グラシアス」は言えても「ありがとう」が言えない、という、どこかにあったような詩だけど、顔に似合った素直な詩なのがちょっとよいと思いました。

●西軍の「忍びの者」の二組目は平居大将の小さなお子さん二人が谷川俊太郎作「のみのピコ」を合唱。かわいい。でもそれだけ。と思ってしまったのは司会の大村さんの「子どもを使って云々」という強烈なつっこみのせい?

●東軍三番手は「詩のボクシング岡山大会」の実行委員ならびに準優勝者という妹尾直子さんの出場です。いきなり教卓を持ち出し、その後ろに立ってアナウンサーみたいに時事ネタを中心とした文章を淡々と読み上げ、途中で外人みたいなへんなふしまわしをつけた部分になり、最後にまた淡々とした口調で終わりました。これは「勝ち抜いてきた」ことの面白さとつまらなさが両方出てしまった詩だと思いました。落としどころがわかりにくく、まあ落ちがあるわけでもないんでしょうが、コンクールに強いものがいいものとは限らないというようなちょっといじわるな感想をもってしまいました。ごめんなさい。でも「経済援助交際」という単語が記憶に残りました。そんなような。

●西軍三番手の森下あさ子さんの詩「オーソドックス」はそのタイトル通りオーソドックスな朗読で、でも語尾の「てー」「たー」というところに力をいれすぎてるのががちょっと気にかかりますね。「本場パエリアはうさぎ肉を使用するそうだ」という完璧なつかみの出だしの一行ですべてを勝負した詩で、「子うさぎまみれ」「うさぎはなかない」というリフレインや「少しだけ泣いた」という落ちの弱さを差し引いても、この出だしが印象に残りました。二つ目に読んだ「粘着カップル」の詩も、そのネタで長く引っ張らずに「とうとう二人は粘着カップルになった」で終わっていればすっきりしていてよかったのに、と思いました。

●東軍四番手の新潟からきた魚家明子さんは去年思潮社からピンクの詩集『逆ねじ魚類図鑑』を出した新人で、詩集をあとで交換しちゃいましたが、詩のよさに舞台のよさが追い付いていかないというか。詩は二つで、一つ目の「図面に線を引くように」は「従順なからすぐちで/二人の間にしゃっきりと線を引くと」ではじまる詩ですが、はじめの三十秒くらい読み方のすごくはっきりしたところには好感をもちました。でも、だんだん現代詩の悪いところが全部出ちゃうような典型的な詩の朗読になっていき、難しい、印象がない、よくわからない、という感じ。詩行の「おそさ」を読み方の「はやさ」が追い抜いてしまうと、とたんに離人的なシチュエーションに観客は投げ込まれるので、すごく速く消耗していってしまいます。たまらずに二個めの詩では長澤大将がうしろから援護射撃。「同人雑誌『ザクロ』の司会をしたときの魚家さんの活躍」について、魚家さんの朗読を打ち消すように解説する長澤さんのハリのある声は意外に好印象で、「スクランブルエッグ、アスパラガス、タマゴ」(表記不明)などの詩句に声を重ねていくところ(一回まちがえた)がよかったです。「すてきな雑踏のなかで」のラストはやっと終わったという感じで「詩はやっぱりつまんないと思いました」とノートしてしまいましたが、詩集をいただいて目で読むとなかなかいいの。「一本の指で抑えてきた感情がぶわぶわとふるえて/蛇が脱皮するようにするりと殻を抜け出すと/後には乾いた骨が残る」(「深い森林の中で」)という詩がありますが、このさらさらしたキュートな感じが舞台で表現されていないのは何か読み方の技術に違うものが必要なのではないか、と思いました。

●西軍五番手は「ネットアイドル」の琴生結希さん。彼女のサイトには赤裸々なラブアフェアについての日記、詩が並べられていて、ヴァーチャルな人気が出るのもうなずけます。「発声練習」ということではじめた「あいしてるあいしてる」の連呼でつかみは完璧。で、肝心な詩のほうは「不必要な存在たちを」とかいうような書き言葉の連続だったので、「わざと難しい言葉を使って恋とか愛とかいうようなとってもファミリアなことを一所懸命語ろうとしている女の子」という、ヴァーチャルな想像力の上にのみ成り立っていたかわいさが舞台上であからさまにリアリティをはぎとられてしまっているところが痛々しかったですね。詩の内容も「ことばの重みと軽み」について書かれたメタ詩のようなものだったので、たしかにそういう「ことばのリアリティ」がこの方にとっては課題なんだろうな、というのもわかりますが、実はもうすでに、そういうリアリティ問題に対してある程度まではいわゆる「戦後詩五十年の技術」は解答を与えずみであって、そこから先にどこへ行くかということこそが問題になっているわけなので、聴いてるほうは問題を彼女ほど共有できなかったということでしょうかね。

●東軍五番手はさっき掛け図の持ち係をやってくれた上田假奈代さん。ピンクのお着物でぽつりぽつりと琴を爪弾くようなはんなりとした朗読で、「印刷されたなめらかさではなく/くちびると指先がゆっくり近づいてきて/私の星はあまい羽音につつまれている」(表記曖昧)というようなこんな感じの詩。会場中を歩き回ってやってくれたので、どこへいったのかふと見失い、ふと見ると目の前に来てくれていたのはうれしかったですね。

ここで休憩。取材をことわってしまってNHKの方ごめんなさい。
でもテレビは当分は他の方々におまかせしているので…。
後半は副将戦、そして大将戦と続きます。

●西軍の副将の「RADIO DAYS」は里宗巧麻くんの二人組ユニットで、「自分は舞台が好きで云々」というMCは完璧。うまいなあ。めかくしされ、荒縄で後手にしばられて、ユニットの相方に指示されたネットアイドル琴生さんにいじめられ続けるというようなちょっと倒錯的な演出で自作の詩を暗誦したのですが、「ことばの喚起力」というような言いふるされたタームのことをちょっと、思いました。「たとえばそれを/鳥と名付けます」というような詩句が風笛とボンゴの生演奏の効果音に乗せて語られていくのは、確かにそれだけのことはあるのですが……。終了後「はいはい」と明るく業界系なノリで司会者に答えて退場したところが好感を呼んでいました。

●東軍の副将のヤリタミサコさんは今回もまた「瞑・想・空・間」と書かれたいかにもいかにものTシャツで出演。一つ目の「非常に死んでしまった」何とかの詩は、まるですすり泣くような声で。次に趣向を変えて、アコースティックギターの弾き語りの「キャロル・マクスウェル」さん(たぶん日本人だと思う)とともに「平居謙のせいでこわれていく人がたくさんいます」「だれも傷付かない」「もっと傷つけよう」、平居謙『高橋新吉研究』(思潮社)の後書きやら吉増剛造のファックスについての平居謙の文章やらの朗読とか、とにかくまあそういう空間を一所懸命作っておられました。

ここで投票。はじめに貰ったわりばしを舞台に向けて投げる、という趣向で、東13西21で、西軍が優勢ですね。平居大将が「H詩賞」つまりエッチな詩を書いた人に対する賞(副賞はドリンク剤)を一番手の尾ヶ崎整さんに授与する一幕もあり、いやあ、平居さんもやっぱりMCがうまいですね、というところで大将戦に突入。

●東軍の大将の長澤忍さんはまずいきなり講演をしました。「田村隆一への手紙」という、たぶんこれは「ウルトラ」に書いた論文で、「20世紀病」「帝国」「郵便局」「キオスク」「そして消印」などのふしぎに田舎の無人駅みたいな郷愁を感じさせる単語をちりばめた注釈付きの文章が、ときどきオーバーな大声や「どんどん、きい」というようなアクションをまじえながら語られていくのは、ものすごくわかりやすかったです。例の座談会を契機として長澤さんの中で概念が今ふつふつとホットに沸騰しつつあるんだな、ということがよくわかり、全体としての滑らかさがとても好調で、前回のときよりもはるかに油が乗ってきた感じ、と思わせられたのはこの人だけでした。西軍の朗読を快刀乱麻を切るがごとくこきおろしたり、現代詩手帖に乗った詩の朗読も快調で、[田村隆一の葬儀に]「ぼくは参列したかった、その感情だけがぼくにとっての田村隆一論のすべてです」という幕切れがかっこよかった。

●西軍の大将の平居謙さんはチャイニーズコスチュームで、里宗くんに持たせたサンドバッグにカンフーシューズで蹴りを入れながら即興詩はやるわ、「浅い」「浅くない」「深い」「深くない」を繰り返す「浜辺かしら」(表記曖昧)という、以前の「Bed & Breakfast」の掲示板のぼくらの現代詩談義みたいな詩は読むは、里宗くん作曲の「詩楽譜のためのレッスンその1・第一次魚類宣言」を観客と一緒に上演するわ(「力産トケトケトケトケトケトケトケ……、南部に下り行け!」というのを観客が合唱する)、で大活躍でしたが、会場のだだっ広さもあり、今一つ会場が湧かなかったのが心残り、とあとで言っておられました。この「詩楽譜」という里宗くんのアイディアは「ポップ詩の朗読を音楽みたいに考える」というぼくらの考えの延長線上にあるもので、とても当を得たものだと思いました。里宗くんも『山が見える日に、』の上演プロジェクト、応援してねー。

●これで終わりかと思ったのに、またもや司会の痛々しい手違いでまだ長澤さんに五分の時間が与えられ、短い即興詩を一つやりましたがこれがまたよかった。長澤さんの独り勝ちですね。油が乗り切った詩人を見るのは気持ちがよいものです。内容は「笹川良一に殉死した友人」への挽歌、というおだやかでないものでしたが、このあいだの恵比寿のときよりももっとよく声がでており、かつ滑らかな進行であり、「詩」が彼の中で奥深く燃え続けているのがうれしかった。

というようなわけで最終投票は東10西22で、西軍が勝ったので次回も関西で9/15に行なわれるということになりました。みなさまお疲れさま。全体的に、場慣れしてきたことと、それから会場があまりにもきれいだったせいか、前回みたいな親密な感じはちょっとうすくなっちゃっていましたが、いい会でしたね。観客で来られていた詩人の田中宏輔さんにも十年ぶりに再会できたし。ポエトリ・リーディングも新奇性で目をひいた時期はもう通り過ぎ、これからは地道な「技術」の積み重ねで作品の「質」をゆっくりと追究しつづけていくしかないのかもしれません。でも、やるべきことがかなりはっきりしてきたと思うので、これからもこの調子で、あんまりまじめすぎずに、がんばってくださいね。そして長澤忍さんは現代詩手帖の座談会を足掛かりとして、今どんどんと詩の仕事を思想的に深めようとしている感じがありました。そういう人が同時代のどこかに一緒にいてくれるのはそれだけで、勝ち負けの問題をこえて、きょうこの場にいた人たちみんなの心に「詩」の炎を燃え立たせる限りなく力強くかつやさしい応援になるのではないでしょうか。

この公演は各人がまったく手探りの方法論で舞台上の「リアリティ」を追究しようとしていることがやっぱり痛々しく、そこから伝わってきたものはひりひりするような生の痛々しさでした。でもその痛々しさというのは、この人たちがそれぞれに現代詩の「現在」に率直に向き合おうとした結果であるようにも感じられてきました。それは「台本」とか「演出」に完全にカバーされてしまっている二流の芝居なんかには決して感じることのできない貴重な手ごたえで、とても力強い、まっとうなものを観せてもらったなあという気もします。よかったです。やはり京都まで行った甲斐はあったなあ、と思いました。

おしまい。

(3/18/01記、3/19/01加筆)