田中庸介詩集『山が見える日に、』のレスポンス。
● 穴もぐり
鼎談 佐々木幹郎×稲川方人×荒川洋治 (「現代詩手帖」1987年4月号)
佐々木 毎月、ぼくらはいろいろ選び続けてきたわけだけれど、結局投稿作品を読んだ時に作者が何と別れてしまったかということがどこかに気配としてでもあるのは強いんですよ。作品を読んでいてそれが何との別れかは具体的にぼくらに見えるはずはありませんが、それを感じさせてくれるような作品は読んでいて緊張感があるような気がします。例えば中村ひろ美さんは既に詩的出発を果たしていると感じさせられます。中村ひろ美さんの今回の作品を読んで、この人はいくつかの可能性があると思うんですが、物語性をこの作品の中では強く出してきています。最後で「姉」という一語で止めるところなどは、一挙に物語の構造をふくらませているわけで、その手腕に魅かれました。
稲川 中村ひろ美さんとか安曇夏彦さんとかは、今の佐々木さんの言葉で言えぱ別れ以後の人で、ぼくはなるべく別れ以前の人を挙げたいとこの一年間ほど絶えず思っていましたけれど、あまりいませんでしたね。その中で田中庸介さんの「穴もぐり」というのは別れ以前の可能性を感じた作品なんです、
佐々木 田中庸介さんは一七歳で、荒川君が選んだ大橋一誠さんは一八歳ですが、この二人の作品を並べてみますと、田中さんの方はある種の欲求不満を持ちながら、その欲求不満の対象が何であるのか、何も焦点を見つけられずに書き連ねていったらこうなるということをとても素直に出している作品だと思うんですね。それに対して大橋さんという人は現代詩を勉強しすぎているところがあって、言葉が現代詩の古めかしい様式を踏んでいると思うんです。こういう書き方も、いずれ自然に卒業するにしても十代の頃には割合と安易にやってしまうわけですね。でも作品全体を通して言うと、言葉のスタイルは整っていますが、排け口の見つからない欲求不満の存在感はここにもありますね。
荒川 大橋さんはイメージを見ると濃度がこいものを感じたんですね。この時期は言葉に対して稀釈液をふりかけるところがあって、なかなか原質的な言葉を出さないことがあるんだけれど、大橋さんの場合は割と出ているところが感しられて、「雲」や「山脈」という言葉なんか生々しく角ばった感じが残っていると思うんです。そういう意昧で面白いなと思いました。斯波四郎の「山塔」という小説なんか、思い出しました。青黒い感じを。
稲川 田中さんの「穴もぐり」は言葉の呼吸のようなものが感じられたんですね。詩を読んでいるかどうかは分かりませんが、この人は批評を読むのは好きなんじゃないでしょうか。それに作品の構成もしっかりしているように思ったんですね。◇
ライナーノート 夛田真一 (「トレッカーズ・カフェ」2000年6月)
パチンコ屋で時間をつぶす、ゲームセンターでシューテュングゲームに耽溺、ヘヴィメタル(死語かしら?)の音響にヘッドホンステレオで浸る。これらはみな、ピアノを人前で弾く本番の舞台を控えた、リハーサルが終わって本番までの時間の過ごし方の工夫の一端である。どれも効果をあげ、またあげなかった。つまり練習が足りていればいい演奏ができるし、そうでなければ、それなりといったことにかわりはないのだが、それにしても本番前の時間の過ごし方について、けっこう戸惑う。そんなときに読む「穴もぐり」が、好きだ。とくに、「そうなってくるとむろんあなたは鼻眼鏡だろう/巷に氾濫したげげげ現代詩の惨状から見ると/まんざら高すぎる思いもしないわけではなかった」というところに何ともいえないフレーズの高揚感があり、まるで音楽のようだ。実際、今の現代詩が惨状なのかどうかはおいておいて。先日、本番を控えた舞台の袖で、この詩を眺めていた。音楽とは全く異なるアプローチなのにそれでも音楽的な構造が、ちょうどよい落ち着きを与えてくれた。詩の非現実からハレの舞台へのシフトがとても心地よかった。ちょっとケレンみのある、自分らしい演奏ができた夜だった。◇
● 今日、電話をかけて
選評 吉増剛造 (「ユリイカ」1988年8月号)
途切らないように、持続を、運行を、作品にも心にも、想像の細かい働きにも……。こうした内心の声をききつつ、僕もそうしたいと思いつつ読んでいる。田中庸介さんは、心なし前の作品よりも静かになって、しかし開口鋭くなり、
道路を切る。お兄さん
下水工事の序でに地鎮祭もやる
四角、神主
むきだすのが
この”切れ”は、ふかい、と感じさせる。何故だろう。おそらく、「むきだすのが」につづく空白、沈黙にはさまれて一層”切れ”がふかくなる。
● アフリカ
鼎談 ねじめ正一×吉田文憲×川崎徹 (「現代詩手帖」1989年1月号)
ねじめ 田中庸介くんはどうですか。
吉田 迷ったんだな、これは。好きな詩なんだけどね。「アフリカ/沙漠/パセリ」もいいと思うんだけど……。
ねじめ 俺はやっぱり「アフリカの詩人さんラテライトの詩人さんだってばおしゃれな」というこれさあ、ラップじゃないかなあ。きのう一人でノッてたんだけど。いままでの田中庸介くんというのは上手いよ。抜群だと思う。でも読み終わったときに、こいつ器用な頭いいやつだなあって……。いままで書いてきた田中庸介くんの詩って自分が楽しんでいないんだよね。でもこの作品はいままでの田中くんとは違うなあ。僕なんかは頭悪いってことを売りものにしてやってたんだけど、谷川さんに「あなたよりも馬鹿な人はまだ世の中にはいっぱいいるんですよ」と言われてガクッときたんだけどね(笑)。彼はいつも、頭が良くてすいませんていうのがあるのね。頭のいい子のやさしさってのを感じるの。頭が良くてすいませんと口で言ったら嫌味だけどさ。
吉田 さっきの水戸浩一くんでしたっけ、彼と違ってひらがな、カタカナ、漢字が非常に面白いよね。その効果、面白さを楽しみながら書いている。
ねじめ 音だけでここまでは、なかなか出来ないと思うよ。いとうせいこうの喜びそうなラップじゃない。
吉田 ただ、前の田中くんの詩を知っているからね。違う詩を書いたなあ、と興味を持ったんだけど。アフリカってもので普通、ひとが連想するイメージとか風景みたいなものをそんなに裏切らない、イメージコピーみたいなお洒落な詩なんだよね。書く方も楽しんで書いてるのね。ホテルのロビーみたいな所に、風景として飾っておきたい詩だね。
川崎 いいと思いますね。
吉田 「パプリカアフリカパプリカアフリカパプリカアフリカ」。読んでいる、目で追っているだけで楽しくなってくる。
川崎 小林旭の車の歌みたいな(笑)。……最後どうしてもこういうふうになっちゃうんでしょうか。ここで含みを持っていますね。含みを感じる。
吉田 「り」の音がどこかで響き合っている。音が織物みたいになってて、そのタペストリーのなかから音がとても良く聞こえてくる。終わりがちょっとキマリすぎかな。
川崎 最後から四行目の「……パプリカ」で終わっていると、気持ちいいなあ。
いつもはこういう詩じゃないんですか。
吉田 ええ、全然。
川崎 チャレンジしたんだ。
ねじめ つい、汗かいちゃったって感じなんじゃない? 当人はそんなつもりじゃなかったのに(笑)。後で恥ずかしがったりしてな。
吉田 「アフリカ」の虚構の風景を、紋切り型になぞっている。そのことを本人はよく知っている。ちょっと、音で「アフリカ」をおしゃれしてみたってとこかな。
ねじめ いままでの詩はさあ、ねじめ正一の文体でやったり吉増さんの文体でやったり、出来ちゃうんだよね。みんなやっちゃう。ねじめ正一の詩なんか俺より上手いんです(笑)。
川崎 ねじめさんがそれを真似したりして(笑)。こういう人たちが、詩以外のものをどれだけみるのかに、興味がありますね。
ねじめ そういう点では、さっきのすごいことがいっぱいあるってこと、彼はわかってると思うのね。だからそんなに詩に対しても深いりはしないと思うし。入れる距離というのは彼らはちゃんとわかっていると思うなあ。さっきの高岡くんにしてもね。絶対無理しないと思う。そこが彼らのいいところだなあ。映画もビデオも芝居も観て。◇
● 青。七月
ライナーノート 杉山えつこ (「トレッカーズ・カフェ」2000年6月)
「筑波に行った。車は二台で、ブルーバードとユーノスだった。」と書き出されるこの詩では、走り出したら止まれないような都会の日々を背後にアクセルが踏み込まれていく。次第に加速していく言葉たちが、サイケデリックな色の氾濫へと変わっていく。「ブルーバード」「仮面ライダーの眼が赤く光るブレーキ灯」「白い鼻毛」「自殺防止用の銀色の柵」「木製の黒と白の勾配標」……。
そして「真夏の太陽がぎらぎら/ぎらぎら」と照りつける中、寺の日陰は寒く、アスファルトはひからびた色を見せている。抜け道をさがすが、海は紫色。「緑色の木が絡み付いている」。
言葉が、というよりも、それぞれの色合いが浮かんでは消えていく。そして、すべての色の底に沈んでみえる、痛ましいほどの「青いブルー」。◇
● 秋霖。
選評 吉増剛造(「ユリイカ」1988年11月号)
田中庸介さん「秋霖」─”秋は寂しい”一葉の、落葉もとおく行きたいのに離れられない。◇
● 湖、
詩の「ゲリラ」を擁護せよ 鼎談 岩成達也x川端隆之x井坂洋子 (「現代詩手帖」1999年12月号)
川端 慶応大学のSFC院生の井庭崇さんのホームページに「Poem Generator」という、アクセスするたびに自動作成システムが言葉を新たに並べ、詩を作ってくれる面白いコーナーがあって、(http://www.sfc.keio.ac.jp/~iba/auto/)、この詩はいわば「記述→認識」系の作品ですよね。パソコンの自動「記述」が偶然に新しい「認識」を導き出している、なかなかいい詩句もあるのですが、どうもポテンシャルが低い。哲学用語とか難解な単語は使われていないんですが、リアルさが薄い。ぼくが最近アクセスしたときは、「アルバムは初めて/紅茶は街角」という詩句を作ってくれたのですが、その井庭さん本人が「意味ありげな詩が自動作成されるんです!」とコメントを付けているように、意味"ありげ"止まりなんですよ。田中庸介の詩集には、「アルバムは初めて/紅茶は街角」に似た言葉の明るさがありますが、「湖、」という詩では、「美しい/美しいごみは語られていた。美しい扇形の/ごみは五百円」という詩句があって、「美しい」というリアルさの薄い、詩で使いにくい言葉を、「ごみ」とか「五百円」とかいった猥雑な言葉と混ぜることによって、リアルに書いているんですね。
岩成 たしかにリアルかもしれないけれど、彼らがそれを知ってて書いていることがこちらにすぐにわかってしまうように書くんですよね、なぜか。
個人的にはこの田中さんと高岡さんでは、高岡さんのほうが自分の「小さな感覚」をより豊富にもっていて、それに沿って言葉を選んでいるような気がするな。田中さんのほうが頭が良いし、よく勉強してそうだけれども。
井坂 あっちのコンビニのお弁当のほうがこっちのコンビニのお弁当のほうが美味しい、とか、これってEメールの手紙でお話ししているような感じですよね。それを、それらが一篇の詩としての意味が醸成する前に切り取るわけですよ。そういうテクニックはあるんだけれど……。それはあえてやっているんだろうけど、だから何? という感じは拭えない。◇
● 夏の山
本の森 井上彰夫 (「山の本」30号 2000年1月)
田中庸介氏の作品をまとめて鑑賞できて評者はすっかり嬉しくなった。
全部で十四の作品が収めてあるが、以前、本誌13巻のインタビューで詩人が言及した〈道路を切る。お兄さん〉で始まる「今日、電話をかけて」が収録されているのも嬉しかった。この詩が〈下水工事は/いつ終わるのだろう。水に濡れて/金属製の刃//夜、空気がなまあたたかく湿って。//過激な、〉と終わると書けば、作者は平明を旨とする詩人と誤解する読者がいるかもしれないが、分かりやすいと評されても、そこは現代詩人。代表作の〈おしゃれなパラソルだった詩人さんパラソルだったパプリカパラシュート草原のおしゃれな詩人さん夏の、パラソルだったら走る、夏の。〉と始まる「アフリカ」をはじめ、ほとんどの作品は手際よく盛りつけた言葉のサラダ、楽譜のない音楽だから、読むひとは目まぐるしく明滅するイメージに目暈を感じるかもしれない。それでも〈お彼岸ですから墓に行った。秋の〉と始まる「お饅頭。おはぎ、」や、〈これは幸福だ、夏のきれいな/雀蜂が飛び去っていった。〉と終わる、「土曜日の朝、四回にわたる雀蜂の侵入の試みとガラス窓によるその撃退について」はイメージの飛躍が少なく、評者のような門外漢も(誤解ではあろうが)まとまった映像を脳裏に刻むことができた気がする。北八ツの縦走を描いた〈北八ヶ岳は森と、岩の道が印象的だった。〉で始まる「夏の山」は他の作品と少し違った印象を受けたが、これは作者の幅の広さを示すのであろう。◇
● お饅頭。おはぎ、
日本語の水準 横木徳久 (「現代詩手帖」1999年12月号)
あまり気乗りはしないが、いくつか紹介しておこう。まず、高岡淳四『おやじは山を下れるか?』と田中庸介『山が見える日に、』(共に思潮社)。
コインランドリーに、ごきぶりがいた
放っておくと飛びました、困るので
窓二枚の間に生け捕りにしました
僕は煙草をくゆらせながら或る女性のことを考えていたのです
煙草が嫌いで、くわがた虫をつかめる女性。
(高岡淳四「ごきぶり」冒頭部分)
墓地は
風が切れている。秋の陽射しが
霊園の並木をかすめて、その橋を渡って
そっちじゃなくって、方向は大変に逆ですがな。昔は十数万円だったのに
現在は一区画壱千万円以上します、でも利殖できない
お墓は売却できない。お墓ころがしは禁止されております霊園ですから
びっしり灰色の山である。墓石であるから灰色である。私たちのお参りは
幸せな、
秋のお彼岸。
(田中庸介「お饅頭。おはぎ、」最終連)
ワープロで引用していると、すぐに変換できるので、二人の詩語はおそらくワープロの語彙に支配されたところで書かれているのだろう。およそすぐれた詩というのは、ワープロで引用していてもけっこう手間がかかるものである。ワープロによる書字がもたらす弊害について、詩人ならもっと敏感であってほしいものだ。
そうした安直さと詩としての稚拙さには目をつむるとして、二人の作品において特徴的な点は、それぞれ一般学生、小市民という次元で書かれていることだろう。つまり自らを卑小な場に置きつつ、それに対応する言葉を紡ぎ、時としてささやかな批評を加えるやり方である。珍しくはない方法だが、自分から言葉が離れていく事態を避けるには、ある程度は有効である。だが、それが詩として熟するにはまだまだ時間がかかるだろう。◇
● 土曜日の朝、四回にわたる雀蜂の侵入の試みとガラス窓によるその撃退について
音楽的現代詩の読み方 澤尚幸 (「妃」10号、1991年11月)
「どうこう読むのが、詩の読み方です。」などといわれないのが現代詩の良いところだと、ついこの間から思っている。ついこの間というのは、ついこの間現代詩というものを知ったからだ。ところで、これだけ現代詩があるけれど、いったいどんな風に読んでいるんだろうという疑問もあって、ここでは自分の読み方というのを考えてみることにした。題材に選んだのは、田中庸介氏の「土曜日の朝、四回にわたる雀蜂の侵入の試みとガラス窓によるその撃退について」である。
私の場合は、自分が音楽愛好家? ということもあって、なんでも、音とか、色とかなどのビジュアルなものにしてしまう。だから、ご多分に漏れず、現代詩の場合もそうだ。例えば、
野菜サラダはヘルシーである。
などと書いてあると、音の上ではなんかサラダボールのガラスの音とか、サラダから、飛びちっている水滴の音とかが、聞こえてくる。また、画像としては、まず、野菜サラダ、それも冷やしたガラスのボールに盛られたのがでてくる。それが、ヘルシーというリズムにのって、「ひょい! 」と、テーブルから空中に浮かんだりする。時は朝九時頃のようだ。
だから、本当に私の鑑賞は、メルヘンの世界にとび込んでいる様なものだ。もう一行選んでみよう。
トマトジュースはヘルシー、カットされた
これは、何か、そこらじゅうから、トマトがやって来て、そこから、ジュースが、滝のように降ってくる。それが、
カットされた
の一言によって、放送静止後のテレビの様に突然放送中止状態になってしまう。音は「ザーザー」言っている。
こんな風に、私の場合、言葉のイメージがそのまま、ストレートに入って来て、自分の中で、それを楽しむような読み方をしている。よく考えれば音楽には、「ここのドの音は何かを意味している」などというものはない訳で、これは音楽的現代詩の鑑賞である訳なのだろう。だから、言葉の連続、不連続とは別に、イメージの連続、不連続も、興味の対象となる。
しかし、これは、詩の内容が楽しいからで、暗い詩なんて、イメージが暗くなるだけだから、嫌いだし、当然、この言葉は何かの象徴であるなんて、考えたことも無い。
イメージとして何も伝わってこないなら、それは、伝える様に書かなかった作り手が悪かったからだ。
こんな風に現代詩を読んでいいなら、少しは読んでいてもいいと思っている。◇
● 桜の花のように
詩の領土 田野倉康一 (「現代詩手帖」1999年12月号)
まずは田中庸介の『山が見える日に、』から引いてみよう。
さらさらと流れている
国選弁護士は週末にはヒレカツ弁当を持ってピクニック
脈打つように降り注ぐ春の光のシャワーが写真に撮られまして
わかりやすいことは大切である、と言う場面の演技
済んだことを言ってもしょうがないし好きだったりするから
本当は好きだから、何を言ってもいい顔をしている
川の流れのように
桜は今年も手抜きせずに咲いている春の山を見に行こう
そこだけ明るい。透き通るステンドグラスのような観光をするだろう
徳川綱吉のことを〈つなきち〉と読んだら一ヶ月くらい話題にされるだろう
不愉快な話題性は私たちの特権だと思っている
そうした日々が消費されていく。そして次にうつる。
(「桜の花のように」部分)
必ずしも音に導かれるのではなく、かといってイメージの連鎖とも一概には言えない。強いて言えばただ繰り出されてくるばかりの言葉の呈示、とでも言えばよいだろうか。言葉の捩れは語のつながりにではなく、語と語、文と文の間の断絶にこそある。それはまた、開かれてはいるが通交しない言葉の目眩き消費、とも言えるかもしれない。◇
● 嗜虐的お化け屋敷の様相
生きている場所 北川透 (「ユリイカ」2000年4月号)
田中さんの詩が集めているのは、わたしたちの身のまわりに氾濫している、ありふれた表情をしたことばである。猥雑だったり、古い日本的な情念や生活慣習と溶け合っていたり、逆に新しがりやのファッションと馴染んでいたりしている。それがそのまま表現されれば、単に見慣れた退屈な世界が浮き出るだけで、これもまたローカルな詩になってしまう。そこでこの人が採用している方法は、そういう場所からことばを集めながら、それを無定形化(ルビ=アンフォルメル)することである。気持ちのいいほど大胆に飛躍する連想や、ことばの流動化が図られている。いわゆる詩語の概念からはみ出した、多様なことばには、いまを呼吸している気忙しげな気配や動悸が感じられた。わたしはそこを評価したが、推し切れなかったのは、彼のアンフォルメルの方法に徹底性が欠けているからだ。従って、ものに衝突するような語りの調子が持続しない。そのためか、印象としては、すぐれた資質を感じさせながら、詩を書くことに本気ではない、手を抜いている、そう思わせてしまう。そこが残念だった。◇
● 魔女の勝利
これを読むがいい! 枡野浩一x豊崎由美他 (「カエルブンゲイ」創刊号 1999年10月)
枡野 わたしと同世代の二人の詩人の詩集です。田中庸介さんと高岡淳四さんといって、彼らは二十歳くらいのころにとても活躍していたので、やっと十年目にして初めての詩集が出るというので驚いているところです。現代詩ってそもそも読んでもよくわからないんですよ。わざとわからないように、言葉の関節を外して書いたりする。だけども彼らは『現代詩手帖』の投稿欄で出て来たころから、言葉の意味はよくわかるし、ポップでちょっとチャーミングという詩を書く人だったんですね。そんなのそれまでなかったんですよ。現代詩はとても狭くて読者の少ない世界なので、どうしても辻仁成さんのようなものが幅をきかせてしまう。でも、彼は現代詩的なものに憧れているだけの人。この二人は逆に、現代詩のなかにいながらそうじゃないものに遠く遠く言葉を投げようとしている。現代詩を救う存在だと思っているんです。
豊崎 田中さんって人は鈴木志郎康と通ずるものがありますね。
枡野 そうなんですよ、鈴木、ねじめ正一っていう流れがあって。
豊崎 でもねじめよりはセンスあるよね。ねじめってわたしエラそうに(笑)。直木賞作家だもんね。辻仁成芥川賞だし、ロクでもないよね。◇
● 午後
中原中也賞選評 荒川洋治 (「ユリイカ」2000年4月号)
田中庸介『山が見える日に、』は平坦な情報的散文のあいまに、ここちよい「飛躍」が吹き込む。情報化社会のなかの「詩」の一端を示された気がするが、詩を書く作者のここちよさが気になった。◇
● オフ、
ライナーノート 三上その子 (「トレッカーズ・カフェ」2000年6月)
りんごを齧ったらほんとうに歯茎から血が出た時。上司に顧客のフォローをしてもらえなかった時。新品のM.A.C.の口紅が折れた時。久しぶりに会った昔の友人から馬鹿にされた時。誰かに、自分に、愛されなかった時。そんな時はすぐにこの詩を読むといい。
頁をめくって旅をしよう。「名もない野草の名が恋しくなった。」、と。「疲れているからさかしまになるようだった。」(ウン。ナンダカ疲レチャッタナ。)「怒りを掘り起こすようにして/スケッチ。流れていくのだろうか。」(流レテ欲シイヨ)。「ああ生命は、乱雑な、/花が咲いている」――。
霧雨。山小屋。悲しそうな小屋番。秋の初めの「オクチチブ」。もの言わぬ自然が、そっと教えてくれることがある。野原を、川を、すべてを心の風景として、丁寧に歩こう。「見たからね、私は/そして歩いた。」――この詩の繊細な抒情に、いつしか涙が流れてしまう。できなかったのは、そっと身をひくこと。霧に濡れた秋の木立がそう、語りかけてくるようだった。◇
詩の領土 田野倉康一 (「現代詩手帖」1999年12月号)
八〇年代の教養主義的な傾向に異議を申し立てるべく設定された(かもしれない)山をめぐるテーマ系が、それ自体は過剰な意味をまといつつも、そこへ登る(以上五字傍点)、そこを歩く(以上五字傍点)、あるいはそれを見る(以上五字傍点)、という現在性においては純然たる肉体的な時間しか持ち得ないという事態にこそ注意したい。おそらくそのあたりに田中、高岡両氏の「詩」の新しさ、というより新たな「詩」の領土があると思われる。ちなみにこのような肉体的時間の露頭が、言語においてはいわば「言葉」が「意味」へと到達するまでの音声、あるいはその写しとしての「文」の優位という事態を類推するとすれば大変興味深い。◇