〈わかりやすさ〉とその敵
有田昌史 Masashi Arita

 本誌先号に掲載された澤尚幸氏の論考「わかりやすさについて」で提示されている問題は、氏が取り上げた現代音楽というジャンルについてのみならず、文芸作品にも当てはめてみることができる。そこでは、大胆な発想の転換、すなわち、従来しばしば無思慮に劣った作品の特徴とみなされてきた〈わかりやすさ〉、つまり平明さ、娯楽性、あるいは「当然の感情」の表現に、積極的な意義が存することが示唆されている。我々は、このような発言がはっきりなされるだろうとは予想しつつ、つまり我々自身もこのような考えを頭の中に持ちながら、自覚的にそれを捉え直そうとはしなかった。いったんそれを始めると、そこから様ざまな、結構厄介な問題が持ち上がってくるからである。
 我々はもちろん、〈わかりやすい〉作品を不当に貶めようとは思わない。けれどもそれは、〈わかりやすい〉作品とそうでない作品を同等に扱い、先入観を持たないということであって、〈わかりやすさ〉が難解さに優越する特別な何かを持つ、と考えるのは、逆の場合と同様に不当なことだ。それは澤氏も詮から御承知であろう。しかし、それでも彼は「わかりやすい」ことがこれからの音楽であって、その萌芽はもう現れている。社会の流れに沿えば、これがフツーのことであり……」と言っている。時代の要求として、〈わかりやすさ〉が主流となるであろう、ということなのだ。つまり彼の言う〈わかりやすさ〉というものは、芸術作品に有益な効用をもたらす要素として定義されている。従って、まず最初に、我々は彼の言うところの〈わかりやすさ〉を理解しなければならない。「詩にルビをふるとやすっぽくなっていけない。下手にわかりやすくしようなんて思わないことだ。」というような反例で澤氏に詰め寄っても、笑われるのがオチである。
 まず、澤氏の言う〈わかりやすさ〉とか、安易である、という意味でないことだけは確かだ。けれども、我々はしばしば、わかりやすい作品を安心して安易に観賞し、あるいは制作する。わかりやすい音楽には注意はあまり向けられないし、イージーリスニングというジャンルがあるように、注意を向けないで聞き流すための音楽が需要を持っているのである。そして、我々の時代においては、そのように聞き流すための音楽、あるいは電車の中で読んで駅に着いたら捨てられるような文庫本や雑誌が、世界の古典や名作以上に求められ、消費されているのだ。安易な作品というのは、衝立てのようなものである。雑音や醜い風景、嫌な現実などを遮蔽するために作られたもので、本来はそれ自体の観賞が目的ではない。それでも、汚いよりは美しい方がましなのであれこれ工夫され、ついには人々の注目を受けるほどの洗練に達したものもあるが、そもそもはそれ自体無視され、忘却されるべきものである。ここで僕が言う安易さというのは、作品そのものの質を指しているのではない。上のような使途に供されるために生産され、人々がそのような態度で消費している、という関係のことである。
 受け取り手の注意を要求せず、また受け取り手も注意したがらない安易な作品が多く生産され、その需要は増すばかりであるが、澤氏の言う〈わかりやすさ〉というのは、こうした安易さを指すものではない。澤氏ははっきりと、「わかりやすいということは、『作曲家のイメージの中に入りやすい』ということだと言い換えることができる。」と言っている。つまり、〈わかりやすさ〉というのは、受け取り手が作者の提供するイメージに、より簡単に注意を向け、新たな印象を得ることができる、ということで、先に述べた安易さとは正反対の概念なのである。
〈わかりやすい〉作品とは、「考えるヒント」をもたらす啓発的な作品だ。従って、受け取り手に関心を向けられるために産み出される。従って、澤氏が言う意味での〈わかりやすさ〉が、我々が一般に考えるようなわかりやすさ、すなわち飾りのない平明な作品構成ではない。だから、表現上難解な作品の方が理解のために受け手の意識の集中をより多く要求する分だけ、より注意深く扱われるようにも思われる。難解な作品の良くない所は、作者も受け手も充分理解できていない理論や概念が複雑に作品の周囲を取り囲むことによって、お互い何となく分かった気分にされてしまうことである。そこには不必要な論理の飛躍や、無関係な理屈との混乱などが生じることだろう。
 ある作品が広く愛されるということは、それだけ誤解されたり、換骨奪胎される危険がますことである。そして〈わかりやすい〉作品は、愛着や思い入れを呼びやすいだけに、作者自身の「イメージ」にどこまで受け手が辿り着けるのかが心配になる。小説家や詩人に向かって、誤解のないように書いて下さい、などと言えば、「そんなことまで俺が責任取れるか」と叱られるだろう。しかし、読者にとっては、(概ねでいいから)まっとうに読めるか、というのは常識を問われる問題であり、受験生にとっては試験の問題となる。正しい答えというものはないのだが、それでも我々は一応のコンセンサスを持たねばならない。その作品を我々が頭の中で整理したり、友人にそれを紹介したりする際の、いわば作業仮説として必要だからである。
 澤氏は、最近の「新展開に属する音楽」が、「『さらり』とした爽快感をもっている」という。それが従来の音楽との違いであるというのだ。「今までは、人間性とか、苦しみとか、泥臭さとかいったものが芸術全般の表現の対象となっていた、しかし、時代はそういった重さを要求していない。」そして、新しい音楽とは、「何かを訴えかけようとするのではなく、ある身近な物事に対して、共通に抱くだろう感情」、言い換えると、「ごくごく当然の感情」を、「ちょっとばかり膨らましてあげようというのが、今からの音楽の特徴になろう。」と言っている。ここでは、こと芸術だというとすぐに深刻ぶりたがる我々の気取りが揶揄されているのだが、小説や詩について考えれば、僕とほぼ同じ二十歳前後の若者はかなりの割合で、そうした深刻な気取りをも既に「ごくごく当然の感情」としてしまっているのである。現代詩の雑誌の新人作品欄を見ていると、人間性や泥臭ささえもがすでに共通のイメージによってグロテスクな相同性を持ち、既に若い世代が自閉に向けて共同戦線を張り始めているのが見て取れる。裕福な家庭に育ち、学校でもそこそこいい成績をとっていて、遊び上手で友達もいっぱいいるような人が、自分が今にも死にそうなほど精神的な負傷を負っているように言ったりする。あるいは、恋人について書いていても、相手の素顔がまるで見えてこない、故意にそういった要素を削除したような詩が大多数を占める。澤氏が言うように平明なのは、日常の生活感や身体感覚は、深刻でなければならぬ、憂鬱でなければ純粋芸術とは言えない、というような根拠のない思い入れに阻まれ、歪められて、ありのままに、伸びやかに表現されることがなくなってしまっている。若い世代がそこまでウツウツとしてしまったのは、こうした「当然の感覚」日常の感覚が芸術作品にならないと思い込んでいるためなのだ。現代詩や短歌などのジャンルでは、そういった思い込みから脱した書き手が何人かいるが、小説では、いとうせいこう、干刈あがたなどを思いつくぐらいで、とにかく新人賞を取る作品にそういったものは少ない。やはり、素材として若者の生活自体がどうしようもないくらいにつまらないからだろうか。しかし、既に「当然の感情」が「考えるヒント」を与えてくれない現状においては、若い書き手はもう一度自分の生活を掘り下げてみなければならないはずだ。
 澤氏の主張は、終始〈わかりやすい〉ものである。彼はただ、我々が束縛されがちなあらゆる既成の規範に対し、距離を置くべきだと言っているのだ。しかし、僕には彼の言う「何でもあり」という現代芸術の状況の中で〈わかりやすさ〉が「一種明解な規則」であるとは信じがたい。先に述べたように、〈わかりやすさ〉は単なる表現上の簡明さにとどまらないのだから、〈わかりやすさ〉そのものとは、天才が何ら生得的なものではなくその業績によって初めてそう承認されるように、作品によって常に事後的に確認されるものなのである。規範のように捉え所はないが、我々が規範から解放されるための足掛かりとして、〈わかりやすさ〉は確かに必要なのであるが。
(「妃」10号、1991年11月)