第1部:資本の生産過程
第4篇:相対的剰余価値の生産
ある一定の生産諸条件にある社会においては、必要労働時間、すなわち労働日のうち労働力の価値の等価物を生産する部分は、不変の大きさとみなしうる。第5章から第9章まで、第1部第3篇の考察ではこのことが前提となっていた。第8章の詳細な考察で明らかなように、必要労働時間を不変の大きさと仮定した場合においても、剰余労働時間が可変であるため、総労働日、総労働時間全体は可変であった。
では、総労働日、総労働時間に、ある一定の限界がある場合には、どのようにして剰余労働時間が延長されうるのだろうか。
剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応するはずである。すなわち、労働者がこれまで実際に自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が、資本家のための労働時間に転化する。変化するのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割なのである。[331-2]
労働力の価値より少ない価値の賃金を支払うという方法でも、さきの問題提起の答えにはなりうるが、マルクスの考察の前提となっているのは“等価交換”であるから、このケースは除外されている。
このことが前提される以上、労働力の生産または労働力の価値の再生産に必要な労働時間が減少しうるのは、労働者の賃銀が彼の労働力の価値以下に低下するからではなくて、労働力の価値そのものが低下するからにほかならない。労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は、必要労働時間の短縮から生じなければならず、その逆に、必要労働時間の短縮が、剰余労働の延長から生じるのではない。[333]
さて、
生活諸手段の価値が定まれば、彼の労働力の価値が定まり、彼の労働力の価値が定まれば、彼の必要労働時間の大きさが定まる。[332]
したがって、
労働力の価値が1/10だけ低下するということは、それはそれで以前に10時間で生産されたのと同じ分量の生活諸手段が、いまでは9時間で生産されるということを条件とする。とはいえ、このことは、労働の生産力が増大しなければ不可能である。[333]
いままで考察した形態における剰余価値の生産にあっては、生産方法は与えられたものと想定されていたのであるが、必要労働を剰余労働に転化することによって剰余価値を生産するためには、資本が、労働過程をその歴史的に伝来した姿態または現存の姿態のままで支配下におき、ただその継続時間を延長するだけというのでは、決して十分ではない。労働の生産力を増大させ、労働の生産力の増大によって労働力の価値を低下させ、こうしてこの価値の再生産に必要な労働日部分を短縮するためには、資本は、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産方法そのものを変革しなければならない。[333-4]
労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値と名づける。これにたいして、剰余価値が、必要労働時間の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分の大きさの割合における変化から生じる場合、これを、私は相対的剰余価値と名づける。[334]
マルクスは、労働力価値の低下をもたらす生産力の増大が、どのような生産部門に生じる必要があるか、ということを、丁寧に分析している。
すでに指摘されているように、労働力価値の低下は、労働力価値を規定する労働者の生活諸手段である諸生産物を生産する労働力価値の低下が前提となる。すなわち、生活諸手段の生産部門における生産力の増大が、労働力価値の低下をもたらすうえで決定的である。むろん、商品は、その原材料の生産から加工労働の全過程にわたるさまざまな労働過程をへているわけで、生活諸手段の生産諸部門における労働過程の変化は、その商品を生産する過程でかかわる、いずれかの労働過程におよんでいることになる。
たとえば長靴の価値は、製靴労働によってだけでなく、革、蝋、糸などの価値によっても規定されている。したがって、生活必需品を生産するための不変資本の素材的諸要素、すなわち労働諸手段および労働材料を提供する諸産業において、生産力が増大し、それに対応して諸商品が安くなると、労働力の価値もまた低下する。[334]
ただし、
個々の資本家が労働の生産力を増大させてたとえばシャツを安くする場合、彼の頭には、労働力の価値を引き下げこうして必要労働時間を“その分だけ”引き下げるという目的が、必ずしも浮かんでいるわけではない。しかし彼が究極においてこの結果に貢献する限りにおいてのみ、彼は一般的剰余価値率の増大に貢献するのである。資本の一般的かつ必然的な諸傾向は、これら諸傾向の現象諸形態とは区別されなければならない。[335]
「競争」をめぐる考察は、この章のなかでは本格的に行なわれる段階にはない。なにより、資本主義的生産の法則は、いまの段階では、まだその全容が考察されているわけではないからだ。
資本主義的生産の内在的諸法則が、諸資本の外的運動のうちに現われ、競争の強制法則として貫徹し、それゆえ推進的動機として個々の資本家の意識にのぼるさいの仕方は、ここでは考察されない……競争の科学的分析が可能なのは、資本の内的本性が把握されているときに限られる[335]
したがって、ここで考察される競争の強制法則は、あくまで、これまでの考察で明らかになったことにもとづいてのみ、分析される。
さきにマルクスが指摘しているように、労働の生産力を増大させて彼の商品を安くしようとする資本家の行動は、個別に行なわれる。その個々の資本家の運動が、生活必需品の生産にかかわる生産部門において行なわれる限りにおいて、彼は、その社会全体の剰余価値率の増大に貢献するが、ここでまずマルクスは、生活必需品の生産にかかわる生産部門にかかわらず、ある商品の生産部門で剰余価値が増大するケースについて、「特別剰余価値」という概念をもちいて分析している。
もし1労働時間が、6ペンスすなわち1/2シリングの金分量で表されるとすれば、12時間労働日には6シリングの価値が生産される。与えられた労働の生産力で、この12労働時間に12個の商品が仕上げられると仮定しよう。各個の商品に消耗された原料などの生産諸手段の価値が、6ペンスとしよう。このような事情のもとでは、個々の商品は1シリングになる。すなわち生産諸手段の価値が6ペンス、その商品が加工されるなかで新たにつけ加えられた価値が6ペンスである。いま、ある資本家が労働の生産力を2倍にし、それゆえ、12時間労働日において、この種の商品を12個ではなく24個を生産することができるとしよう。生産諸手段の価値が変わらなければ、個々の商品の価値は、いまや9ペンスに下がる。すなわち、生産諸手段の価値が6ペンスで、最後の労働によって新たにつけ加えられた価値が3ペンスである。生産力が2倍になったにもかかわらず、1労働日は相変わらず6シリングの新価値をつくり出すだけであるが、その新価値は、いまや2倍の生産物に配分される。それゆえ、各個の生産物には、いまではこの総価値の1/12ではなく1/24が、すなわち6ペンスではなく3ペンスが割り当てられるにすぎない。または同じことであるが、生産諸手段が生産物に転化するさいには、生産物1個について計算すると、以前は生産諸手段にまる1労働時間がつけ加えられたが、いまでは半労働時間がつけ加えられるにすぎない。この商品の個別的価値は、いまや、その社会的価値よりも低い。すなわち、この商品には、社会的平均的諸条件のもとで生産される同種の物品の大群よりも少ない労働時間しかかからない。その1個は、平均的には1シリングであり、言い換えれば社会的労働の2時間を表わしている。変化した生産方法によれば、その1個は9ペンスにしかならない、言い換えれば1時間半の労働時間しか含んでいない。しかし、1商品の現実の価値は、その個別的価値ではなく、その社会的価値である。すなわち1商品の現実の価値は、その商品が個々の場合に生産者に実際に費やさせる労働時間によってはかられるのではなく、その生産に社会的に必要な労働時間によってはかられる。したがって、新しい方法を用いる資本家が彼の商品をその社会的価値1シリングで売るならば、彼は、個別的価値よりも3ペンス高く商品を売るのであり、3ペンスの特別剰余価値を実現する。しかし他面、12時間労働日は、いまや彼にとって、以前のように12個ではなく24個の商品で表わされる。したがって、1労働日の生産物を売るために、彼は2倍の販路を、すなわち2倍の大きさの市場を必要とする。他の事情が同じであれば、彼の諸商品は、価格の引き下げによってのみ、より大きな市場圏を獲得する。それゆえ彼は、その諸商品を個別的価値以下で、しかし社会的価値以下で、たとえば1個10ペンスで、売るであろう。こうして彼は、相変わらず1個あたり1ペンスの特別剰余価値をたたき出す。[335-6]
このケースでは、生産力の増大は、必ずしも労働力の価値を規定する商品の生産において生じていなくてもよい。どの商品生産部門の資本家にも生じ得る傾向として、マルクスがここであげているのは、“より多くの商品を、より大きな市場で販売するために、それら個々の商品を社会的価値以下で販売しようとする傾向”である。
個々の資本家にとっては、労働の生産力を高めることによって商品を安くしようとする動機が実存する。[336]
さて、生産力の増大によって、1労働日に生産される商品個数が増え、個々の商品価値が、同種商品の社会的価値よりも小さくなるということを、“必要労働時間と剰余労働時間との比率”という点からみてみると、どのような内実だろうか。
必要労働時間が10時間、すなわち労働力の日価値が5シリングであり、剰余労働が2時間、それゆえ日々生産される剰余価値が1シリングであるとしよう。ところで、わが資本家は、いまや24個を生産し、これを1個あたり10ペンスで、すなわち合計20シリングで売る。生産諸手段の価値は、12シリングであるから、14(と)2/5個の商品は、ただ前貸不変資本を補填するだけである。12時間労働日は、あとに残る9(と)3/5個で表わされる。労働力の価格は5シリングであるから、6個の生産物で必要労働時間が表わされ、そして3(と)3/5個で剰余労働が表わされる。必要労働と剰余労働との比率は、社会的平均的諸条件のもとでは5対1であったが、いまではもう5対3にすぎない。……12時間労働日の生産物価値は、20シリングである。そのうち12シリングは、生産諸手段の再現するだけの価値に属する。したがって、8シリングが労働日を表わす価値の貨幣表現として残る。この貨幣表現は、同じ種類の社会的平均労働の貨幣表現よりも大きいのであって、その社会的平均労働の12時間は、6シリングで表わされるにすぎない。例外的な生産力の労働は、力能を高められた労働として作用する――すなわち、同じ時間内に、同じ種類の社会的労働よりもより大きい価値をつくり出す。しかし、わが資本家は、労働力の日価値にたいして、相変わらず5シリングを支払うだけである。したがって労働者は、この価値を再生産するのに、以前のように10時間ではなく、いまではもう、7(と)1/2時間を必要とするにすぎない。それゆえ彼の剰余労働は、2(と)1/2時間だけ増加し、彼によって生産される剰余価値は、1シリングから3シリングに増加する。そのため、改良された生産方法を用いる資本家は、同業の他の資本家たちよりも、労働日のより大きい部分を剰余労働として取得する。[336-7]
彼は、資本が相対的剰余価値の生産にさいして一般的に行なうことを、個別的に行なうのである。しかし他面、この新しい生産方法が普及し、それにともなって、より安く生産された諸商品の個別的価値と社会的価値との差が消滅するやいなや、右の特別剰余価値も消滅する。労働時間による価値規定の法則は、新しい方法を用いる資本家には、彼の商品を社会的価値以下で売らなければならないという形態で感知されるのだが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争者たちを新しい生産方法の採用にかり立てる。したがって、一般的剰余価値率が、結局、全過程を通じて影響を受けるのは、労働の生産力の向上が、生活必需品の生産諸部門をとらえた場合、すなわち、生活必需品の範囲に属し、それゆえ労働力の価値の諸要素を形成している諸商品を安くした場合に限られる。[338]
生産力の増大により大量の商品を生産できるようになると、それを販売するための市場確保のために、商品を一般的な価格よりも安くしなければならない。商品価格を安くするために、より一層の生産力の増大が追求され、さらにより多くの商品生産をもたらす。この一連の過程は、必然的に生産様式の変革を要求するようになる。量的な変化は、ある一定の段階で質的な変化をもたらし、質的変化はつぎの段階の量的変化をうながす。
個々の資本家の大量生産を追求する運動は、特別剰余価値への欲求に基づき個別的に行なわれるにしろ、この節のはじめにマルクスが指摘したように、労働力価値の低下という、その社会における相対的剰余価値をもたらす決定的な変化を生じるには、一連の生産様式の変化が、生活必需品の生産部門におよぶ段階が前提となる。
12時間という社会的平均労働日は、貨幣価値が変わらないものと前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産する。それは、この価値総額が、労働力の価値の等価物と剰余価値とのあいだにどう配分されるかにはかかわりがない。しかし、生産力が上がった結果、日々の生活手段の価値、それゆえ労働力の日価値が5シリングから3シリングに下がると、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。労働力の価値を再生産するために、かつては10労働時間が必要であったが、いまではもう6労働時間しか必要としない。4労働時間が自由になったのであり、それは剰余労働の範囲に併合されうる。[338]
商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとって、それ自体、どうでもよいことである。彼が関心をもつのは、商品のなかに潜んでいて、販売のさいに実現されうる剰余価値だけである。[338]
労働の生産力の発展、増大は、個々の商品を安くし、同時にそれらに含まれる剰余価値を大きくする。このことが、ケネーの提起した矛盾への返答となると、マルクスは指摘する。
ケネーは、次のように言う――「諸君も認めるように、生産をさまたげずに、手工業生産物の製造における諸費用または費用のかかる諸労働を節約することができればできるほど、この節約は、ますます有利である。なぜなら、その節約は、製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者たちの労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値を増大することにあると信じている」。[339]
ケネーが言う“諸労働の節約”は、労働の生産力の発展によるものであるが、資本家にとって、生産力の発展は、ある数量の商品の生産に必要な労働時間が“節約”されるということであって、労働時間総体の“節約”を目的とするものではない。
労働者が、彼の労働の生産力を増大させて、1時間に、たとえば、以前の10倍の商品を生産し、したがって商品1個あたりについて10分の1の労働時間しか必要としないということは、彼に従来どおり12時間働かせ、12時間のあいだに以前のように120個でなくて1200個を生産させることを、決してさまたげるものではない。それどころか、彼の労働日が同時に延長され、その結果、彼はいまや14時間のあいだに1400個を生産するなどということもありうる。[339-340]
労働の生産力の発展は、資本主義的生産の内部では、労働日のうち労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮し、まさにそのことによって、労働日のうち労働者が資本家のためにただで労働することのできる他の部分を延長することを目的としている。[340]