第1部:資本の生産過程
第3篇:絶対的剰余価値の生産
第8章:労働日
この節の表題にある「ボヤール」とは、訳注によると、ロシアやルーマニアなどの領主、ある特定地域の封建領主を意味している。
マルクスは、歴史的資料や「工場監督官報告書」などの公的文書などにもとづいて、ドナウ諸侯国など特定地域の封建制社会における剰余労働欲求の実態と、資本主義社会を代表する当時のイギリスにおける剰余労働欲求の実態を、詳細に比較考察している。そのなかで、資本主義社会における「剰余労働にたいする渇望」が法的制限を受けるにいたる必然と、法的制限をも乗り越えようとする「渇望」の特徴をうきぼりにする。
資本が剰余労働を発明したのではない。社会の一部の者が生産諸手段を独占しているところではどこにおいても、労働者は、自由であろうと自由でなかろうと、生産諸手段の所有者のための生活諸手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えなければならない。[249]
とはいえ、ある経済的社会構成体において、生産物の交換価値ではなくそれの使用価値が優位を占めている場合には、剰余労働は、諸欲求の範囲――狭いとか、広いとかの差はあっても――によって制限されているのであって、剰余労働にたいする無制限な欲求は生産そのものの性格からは発生しない……。[250]
剰余労働そのものは資本主義社会に特有のものではない、ということは、第1部第7章第1節のなかでも述べられていた。
労働者が必要労働の限界を超えて苦役する労働過程の第二の期間……この剰余労働が、直接的生産者すなわち労働者からしぼり取られる形態だけが、もろもろの経済的社会構成体を区別するのであり、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から区別するのである[231]
マルクスがこの節のはじめのところで行なっている「アメリカ合衆国南部諸州における黒人労働」についての考察はたいへん興味深い。
その生産がまだ奴隷労働、夫役労働などというより低い諸形態で行なわれている諸民族が、資本主義的生産様式によって支配されている世界市場に引き込まれ、この世界市場によって諸民族の生産物を外国へ販売することが、主要な関心事にまで発展させられるようになると、奴隷制、農奴制などの野蛮な残虐さの上に、過度労働の文明化された残虐さが接木される。それゆえ、アメリカ合衆国の南部諸州における黒人労働は、生産が主として直接的な自家需要に向けられていた限りでは、穏和な家父長的な性格を保っていた。しかし、綿花の輸出がこれら諸州の死活の利害問題となるにつれて、黒人の過度労働が、所によっては黒人の生命を7年間の労働で消費することが、打算ずくめの制度の要因になった。黒人から一定量の有用生産物をしぼり出すことは、もう肝要ではなくなった。いまや、剰余価値そのものの生産が肝要であった。[250]
この指摘は、まったく同じとはいえないが、いくらか、日本の搾取形態にもあてはまる部分があるのではないだろうか。
日本では、鎌倉幕府の確立以後、承久の乱から関ヶ原の戦いまで、400年のあいだにおこったいくつかの大きな内乱をへて完成された封建制社会が、江戸幕府の鎖国政策のもとで300年つづいた。この約700年におよぶ日本封建制社会の内的発展の過程をつうじて、商品交換が発展し、江戸時代も後期には、問屋制家内工業や工場制手工業の発生とあいまって賃労働者が一定数生まれるなどの段階に至っていた【参考文献:『日本歴史 上』、新日本新書、初版1978年6月30日、[236,240-2]】。しかし、幕末における、当時先んじて資本主義を確立していた欧米諸国との接触によって、日本も資本主義の世界市場に引き込まれたことが、日本の資本主義化を促進する重要な契機になったことはまちがいない。
この過程のなかで確立された絶対主義的天皇制のもとで、国家権力の強制力によって、軍需産業といわゆる「殖産興業」(製糸産業、紡績産業など)を中心に資本主義産業の育成がすすめられた。同時に絶対主義的天皇制はその確立期からすでに軍国主義的侵略的政策をとっており、1874年には台湾侵略を開始し、1876年には軍事的恐喝のもとで日朝修好条規(江華島条約)という不平等条約をむすび、朝鮮への侵略的干渉と収奪を開始している。そのなかで天皇みずからが日本最大の大資本家、大地主として、地位を確立していった。
72年には600町歩にすぎなかった「御領地」は、86年には50倍にふえて3万町歩に、憲法発布の年89年には113万町歩となり、その翌年には365万町歩になった。当時の民有地の全国統計が700万町歩であった。……維新当時10万円ほどであった皇室の動産は、91年には1295万円とふえた。これらの財産がうみだす利子、配当などは、1年間で161万円にたっした。天皇の動産がふえていく過程で大きな役割をはたしたのは、のちの日清戦争で清国からうばった賠償金3億6000万円の約6%にちかい2000万円が皇室財産とされたことである。【『日本近現代史の発展 上』,1994年9月10日初版,新日本出版社、96-7ページ】
この過程で、農村部に依然として残っていた封建的地主制度が、急激に資本主義的生産様式に引き込まれてゆき、農民にたいする搾取も過酷さをました。明治維新期の天皇制政府の政策によっても、1871年の商品作物栽培の自由の認可、田畑の売買禁止と、1873年の地租改正などによって、その傾向が加速された。同時に、没落してゆく自作農民あるいは土地から切り離された小作人が、多数都市に集中することで、農村は、労働力の供給源となっていった。農村から集まってきた労働者が働いていた工場でも、労働者の大多数は、『女工哀史』【細井和喜蔵著、1925(大正14)年刊、1980年7月16日岩波文庫初版】に見られるような、封建的徒弟制度の名残の上に、「過度労働の文明化された残虐さが接木され」た労働条件下で、無権利状態のもとにおかれていた。
さて、イギリスの工場における剰余労働と、ドナウ諸侯国の夫役労働のような剰余労働との比較で、まずマルクスが指摘するちがいは、剰余労働の形態が「自立的に知覚できるか、できないか」という点である。
労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働からなるものとしよう。そうすれば、自由な労働者は資本家にたいして毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を提供する。それは、労働者が週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じことである。しかしこのことは目には見えない。剰余労働と必要労働とは互いに融合し合っている。それゆえ、私は、この同じ関係を、たとえば労働者は1分間ごとに30秒は自分のために、30秒は資本家のために労働するというように表現することもできる。夫役労働の場合には事情は異なる。たとえば、ワラキアの農民が自己維持のために行なう必要労働は、ボヤールのために行なう彼の剰余労働とは空間的に分離されている。彼は、一方を自分自身の畑で行ない、他方を領主の直営農場で行なう。それゆえ、労働時間のこの両部分は、自立的に並存する。夫役労働の形態においては、剰余労働は必要労働から厳密に分離されている。[251]
したがって、夫役労働の場合には夫役日数の増加というかたちで剰余労働にたいする渇望が現われ、資本主義的生産形態の場合には労働日の延長というかたちで剰余労働への渇望が現われる。
ドナウ諸侯国における夫役労働は、ロシアの占領を受けた時期(1829―1834)に、ときの総督となったキシリョーフ将軍のもとで公布された「レグルマン・オルガニク」(国家基本法)によって法的に整備確立された。この夫役労働の法制化が、それまで自然発生的であったドナウ諸侯国の夫役労働を過酷な状態におしあげる役割をはたしたことは、マルクスの研究の紹介([252-3])にくわしい。
一方、『資本論』第1部が刊行された当時にイギリスにおいて工場労働を制限していたのは1850年に発効した工場法であった。週6日の労働日の平均が1労働日10時間と制限され、法律の実行についての内務大臣直属の監督官の任命、彼らによる報告が半年ごとに議会に提出され公表されるべきことなどが規定されていた。実際、マルクスは、彼ら工場監督官の報告書を大英博物館(1973年に英国図書館が分離)で自由に閲覧できたのである。
ドナウ諸侯国のレグルマン・オルガニクが剰余労働にたいする渇望の積極的表現であり、その各条項がそれを合法化したものであるとすれば、イギリスの工場諸法は同じ渇望の消極的表現である。これらの法律は、国家の名によって――しかも資本家と地主との支配する国家の側から――労働日を強制的に制限することにより、労働力を無制限にしぼり取ろうとする資本家の熱望を取り締まる。日々ますます威嚇的にふくれ上がる労働運動を度外視すれば、この工場労働の制限は、イギリスの畑地にグアノを注ぎ込んだのと同じ必然性によって余儀なく行なわれたのである。この同じ盲目的な略奪欲が、一方の場合に土地を疲弊させ、他方の場合には国民の生命力の根源をすでに襲っていた。[253]
交換価値が剰余労働の目的となる資本主義的生産形態において、剰余労働の渇望が、労働者の「生命力の根源を」奪うほどに際限がなくなること、同時に、その渇望の制限が、資本主義的生産形態の維持にとっても「余儀なく行なわれる」典型例として、マルクスはイギリスの工場立法をあげている。ここに現在、日本で行なわれている「労働基準法」改定が、いかに歴史的発展に逆行しているかを見てとることができるではないか。イギリスにおける工場立法がまだ工場労働の実態に追いつかず、その実行がまだ完全でなく、ここでマルクスがフランスとドイツの国民の兵役適格性の低下――身長の低下を引き合いにだすような、イギリス「国民の生命力の根源をすでに襲っていた」実態については、フリードリヒ・エンゲルス Friedrich Engels(1820-95)の『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)にくわしい。
マルクスはこれ以降の叙述で、1850年工場法の制限下における、資本家階級の剰余労働渇望の実態を、工場監督官の報告書をもとに克明に紹介している。
ここでは労働者は、人格化された労働時間以上のなにものでもない。[258]
食事時間や休養時間から始終「こそどろ」され、法定時間を超えた過度労働を強いられながら、「全時間工」「半時間工」とよばれる、この分野の産業労働者たちと、現代日本において、変形労働時間制のなかで心筋梗塞や過労自殺に追い込まれ、一方で「パート」とよばれ「フリーター」とよばれて、正社員なみに働かされながら、雇用が安定しない状態におかれている労働者たちと、どれだけの差があるのだろうか。