第1部:資本の生産過程

第3篇:絶対的剰余価値の生産

第6章
不変資本と可変資本



労働者は、彼の労働の一定の内容、目的、および技術的性格がどのようなものであれ、一定分量の労働をつけ加えることによって、労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは、消耗された生産諸手段の価値を、生産物価値の構成部分として、たとえば綿花と紡錘との価値を糸価値のなかに、ふたたび見いだす[214]

生産手段の価値が、生産物の価値に、そっくりそのまま移転する、ということ。このことをめぐって考察されているのが、この章である。

生産諸手段の価値は、それが生産物に移転することによって維持される。この移転は、生産諸手段の生産物への転化のあいだに、労働過程中に、行なわれる。それは労働によって媒介されている。では、どのように行なわれるのか?[214]

わが紡績工は、同じ時間内に、新たな価値を付け加える労働と、生産手段の価値を生産物に移転する労働と、二重労働を、行なっているわけではない。精紡工の同じ時間内の労働が、まったく相反する二つの結果を生み出しているということなのである。

結果のこの二面性は、明らかに彼の労働そのものの二面性からのみ説明されうる[214]

ここでも、ふたたびわれわれは、「労働の二重性」ということをふり返ろう。「具体的有用的労働」という側面と「抽象的人間的労働」という側面とを。

マルクスは「生産的消費」ということを言った。ある使用価値の消費によって、別の使用価値を生み出すという能力を人間の労働は持ち合わせている。これを、価値形成過程において、厳密に考察すれば

生産諸手段の使用価値のもとの形態は消えうせるが、しかし使用価値の新たな一形態で出現するためにのみ消えうせる[215]

というふうに言うことができる。きわめて“神秘的”な言い回しであるが、実際の労働過程を想像してみれば、すぐに合点がゆく。糸と織機でもってつくられる反物は、糸とはまったく異なる「使用価値」であり織機ともまったく異なる「使用価値」である。しかし、実際に、人の“織る”という労働行為によって、糸と織機という使用価値の形態が消えうせる(織機の場合にはその一部分が磨耗、消耗する)ことによって、反物という、まったく別の使用価値が生み出されるのである。

人間がある素材を別の素材でもって、まったく異なる使用価値を生み出すということには、さきの章で考察されたように、人間の合目的的行為、人間の目的意識が前提にある。人間は、まず、何をどのような目的のために、どのようにつくるか、ということを意識して労働するのである。さまざまな目的意識による労働は、それぞれ多種多様な要求にもとづいて、特殊な有用性を帯びることになる。

労働者が消耗された生産諸手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊的有用的性格によって、それの独特な生産的形態によってである[215]

また、マルクスの指摘のなかで、たいへん重要なのは、この労働行為が、別の使用価値を生み出すために他の使用価値を消耗するだけだということではない、という点が指摘されていることである。

労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである[215]

そして、一方、新たな価値をその生産物につけ加えるのも人間の労働である。それは、人間労働の、一般的抽象的社会的労働という側面である限りにおいてである。「商品における労働の二重性」についての発見が、どれだけ画期的だったか、ということが、読み進むにつれて明らかとなる。マルクスは、生産手段の価値移転について、労働の二重性という側面から、つぎのように考察する。

精紡工の労働は、その抽象的一般的属性においては、すなわち人間的労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的、特殊的、有用的属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する[215]

新たな価値をつけ加える「人間的労働力の支出」は、その継続時間ではかられる。生産手段の価値を生産物において維持する具体的有用的労働は、その生産物の具体的有用的形態に反映する。マルクスは、第1篇第1章第2節のなかで、生産力の変化をめぐる考察をしているが、そこで、つぎのようにのべていた。

素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありうる。このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。生産力は、もちろんつねに、有用的具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における合目的的生産的活動の作用度だけを規定する。だから、有用的労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。これにたいして、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表わされる労働にはまったく影響しない。生産力は、労働の具体的有用的形態に属するから、労働の具体的有用的形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった分量の使用価値を――生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を――提供する。したがって、労働の多様性を、それゆえ、労働によって提供される使用価値の総量を、増大させる生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる[61]

このとき考察された現象が、ここ第6章では「価値移転」という側面から、より詳細に分析される。

なんらかの発明によって、精紡工が以前には36時間で紡ぐことができたのと同じだけの綿花を6時間で紡ぐことができるようになったと仮定しよう。合目的的で有用的生産的な活動としては、彼の労働はその力を6倍にした。その生産物は6倍の糸であり、6ポンドではなく36ポンドの糸である。しかし、36ポンドの綿花は、いまや、以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間を吸収するにすぎない。6ポンドの綿花には、旧方法をもってするのに比べて6分の1の新たな労働がつけ加えられ、それゆえいまでは、以前の価値の6分の1がつけ加えられるだけである。他方、いまや、6倍の綿花の価値が、生産物すなわち36ポンドの糸のうちに実存する。6紡績時間のうちに、6倍の原料の価値が維持され、生産物に移転される。もっとも同じ原料に6分の1の新価値がつけ加えられるのであるが。このことは、同じ不可分の過程中に価値を維持するという労働の属性が、価値を創造するという労働の属性といかに本質的に相違するものであるかを示す。紡績作業中に同じ分量の綿花に費やされる必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、しかし、同じ労働時間内に紡がれる綿花のポンドが多ければ多いほど、生産物において維持される旧価値はそれだけ大きい。

その反対に、紡績労働の生産性が不変のままであり、したがって精紡工は、1ポンドの綿花を糸に転化するために相変わらずまえと同じだけの労働時間を必要すると仮定しよう。しかし、綿花そのものの交換価値が変動し、1ポンドの綿花の価格が6倍に騰貴するか、または6分の1に下落するとしよう。どちらの場合にも、精紡工は引き続き同じ分量の綿花に同じ労働時間、したがって同じ価値をつけ加え、どちらの場合にも、彼は同じ時間内に同じ量の糸を生産する。それにもかかわらず、精紡工が綿花から糸すなわち生産物に移転する価値は、一方の場合には以前の6倍であり、他方の場合には6分の1である。労働諸手段が高価になったり廉価になったりしても労働過程においてつねに同じように役に立つ場合にも、右と同じである。

紡績過程の技術的諸条件が不変のままであり、またその生産諸手段についてもなんら価値変動が生じないとすれば、精紡工は、まえと変わらぬ価値をもつ同じ分量の原料と機械設備を、同じ労働時間でこれまでどおり消費する。この場合には、彼が生産物において維持する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例する……

……相対的な意味では、労働者はつねに新価値をつけ加えるのと同じ比率で旧価値を維持すると言うことができる。たとえ綿花が1シリングから2シリングに騰貴するか、または6ペンスに下落するかしても、労働者が1時間の生産物において維持する綿花価値は、その価値がいかに変動しようとも、つねに2時間の生産物において維持する価値の半分でしかない。さらに、彼自身の労働の生産性が変動し、それが上昇するかまたは低下するならば、彼はたとえば1労働時間に以前よりもより多くの、またはより少ない綿花を紡ぎ、それに対応して、より多くの、またはより少ない綿花価値を1労働時間の生産物において維持するであろう。それにもかかわらず、労働者は2労働時間では1労働時間の2倍の価値を維持するであろう[216-7]

かなり長い引用になってしまったが、要約するよりも、直接、マルクスの叙述を読んだほうがわかりやすいと思って、全体を引用してしまった。

さて、これまた第1篇第1章第1節で、マルクスは、つぎのようにのべていた。

ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値または財である[50]

これ以降、私たちは、マルクスの叙述とともに考察をすすめてきたので、「使用価値」と「価値」、「労働の二重性」などの側面から、より、「商品」あるいは、この社会の「財」というものについて認識を深めてきた。使用価値なしには価値は実存しえない。また、私たちは、生活手段としての消費と、生産過程における生産手段の消費とのちがいもみてきた。生活手段としての商品は、その消費によって、使用価値がなくなり、それとともに価値もまたなくなる。しかし、生産過程における消費、生産手段が労働過程のなかで消費されるときには、それらの生産手段の使用価値はなくなっても、それらの生産手段の価値は、新たに労働力の消費によってつくりだされる別の使用価値の姿で、継続される。

労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、ただ、生産手段がその独自な使用価値とともにその交換価値をも失う限りでのことである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す[217]

ただし、この生産手段の価値移転の仕方、あり方には、労働対象としての生産手段と、労働手段としての生産手段とに、ちがいがある、ということをマルクスは指摘している。生産手段のうち、労働対象である、原料や補助材料などは、労働過程のなかで、ほぼその自立的な形態を失ってしまうが、

本来の労働諸手段の場合は、違っている。用具、機械、工場の建物、容器などは、それらが最初の姿態を保持し、きのうとまったく同じ形態であすもふたたび労働過程にはいり込む限りにおいてのみ、労働過程で役に立つ[218]

もちろん、すべて、天然に存在する物も、生産された商品についても、労働手段としてのさまざまな生産物についても、ほおっておけば、風化し、酸化し、その使用価値を失うとともに価値を失って行く。この場合、ほおっておくかぎりにおいて、つまり労働過程のなかにはいり込まないかぎりでは、それは、生活手段の消費による使用価値の消失、だから、同時に価値が消失する、ということよりも、まったく、社会的には無意味な消耗、消失である。

しかし、生産的消費においても、さまざまな労働手段は、使用されるごとに、摩滅し、消耗するのであって、だからこそ、その摩滅し、消耗する分だけ、その使用価値分だけ、生産物に価値を移転するのである。

第3篇第5章第2節で、糸の生産について、マルクスの前提を紹介した。

40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1錘分の紡錘の価値[202]

これ以降の例示で、便宜上、私たちは、10ポンドの糸、20ポンドの糸の価値について、考察をつづけたのであったが、そのさい、「まる1錘分の紡錘の価値」は、それぞれ、4分の1の紡錘価値、2分の1の紡錘の価値、として算出してきた。しかし、1錘分の紡錘(この場合では、マルクスは、他の労働手段の代表として、紡錘を取り上げているのではあるが)という労働手段の実存形態は、たとえば、2分の1人という人間がいないのと同様に、40ポンドの綿花を40ポンドの糸に加工するだけの、一定の実存形態としてあるわけである。

ある機械がたとえば1000ポンド・スターリングの価値をもち、1000日で摩滅するとしよう。この場合には、機械の価値の1000分の1が、日々、機械そのものからそれの日々の生産物に移行する。生命力がしだいに失われるとはいえ、機械総体は労働過程において不断に作用し続ける。したがって、労働過程の一要因である、ある生産手段は、労働過程へは全体としてはいり込むが、価値増殖過程へは部分的にはいり込むだけだということがわかる。ここでは、労働過程と価値増殖過程との区別は、同じ生産手段が同じ生産過程において、労働過程の要素としては全体として計算にはいり、価値形成の要素としては一部分ずつ計算にはいるにすぎないということによって、それらの過程の対象的諸要因に反映する[219]

マルクスは、この部分の注で、たいへん丁寧な解説を行なっている。というのも、その当時、労働手段と労働対象、労働力という、労働過程における諸契機についての考察に、きわめて雑な研究がなされていたからだったらしいが。しかし、私にとっても、この注での説明は、たいへんわかりやすく、理解を深めるための、たいへん重要な指摘だった。

ここでは、労働諸手段すなわち機械、建物等の修理のことは問題にならない。修理される機械は、労働手段としてではなく労働材料として機能する。それを用いて労働が行なわれるのではなく、その使用価値を補修するためにそれ自身が加工されるのである。われわれの目的にとっては、このような修理労働は、その労働手段の生産に必要な労働のなかにつねに含められていると考えることができる(注21)[219]

マルクスが、いかに実際の労働過程を調査しているかを実感したのが、つぎのマルクスの指摘である。いわゆる“ダスト”について。また、少々長い引用になるが、直接読んだほうがわかりやすいので、そうする。

ある生産手段は、部分的に労働過程にはいり込むだけであるにもかかわらず、価値増殖過程には全体としてはいり込むことがありうる。綿花を紡いで糸にするさいに、毎日115ポンドにつき15ポンドが屑になって糸にはならず、“デビルズダスト”にしかならないと仮定しよう。それでも、この15ポンドの屑が標準的であり、綿花の平均加工と不可分のものであれば、糸の要素をなんら形成しないこの15ポンドの綿花の価値は、糸の実体を形成する100ポンドの綿花の価値とまったく同様に、糸価値のなかにはいり込む。15ポンドの綿花の使用価値は、100ポンドの糸をつくるために塵にならざるをえない。したがってこの綿花の消滅は、糸の一つの生産条件である。そうであるからこそ、この綿花はその価値を糸に引き渡すのである。こうしたことは労働過程のすべての廃棄物についてあてはまる――少なくともこれらの廃棄物がふたたび新たな生産諸手段を形成せず、それゆえ新たな独自な使用諸価値を形成しない限りにおいてのことであるが[220]

この問題は、現代においては“リサイクル”問題につながることではないだろうか。ただし、ここでは、廃棄物が他の新たな生産手段を形成しない限りにおいてのケースとして、例示しているから、リサイクルといっても、同じ原料や補助材料としてのリサイクルということになる。この引用部分につづいて、マルクスは、マンチェスターの機械製作工場での鉄くずが製鉄所からリサイクルされて、ふたたび原料として工場にもどされる例をあげているが、原料や補助材料が効率的合理的に利用しつくされるような方法の研究、開発は、その社会全体にとっても重要な課題でもあるし、真の効率性を考えれば、その企業経営者にとってみても、たいへん重要な課題でありうるはずだ。

労働過程では、このような廃棄物が多少なりとも生じるのではあるが、いずれにしろ、生産手段が労働過程において生産物の新たな姿態に移転する価値の最大限は、

それらが労働過程にはいるときにもっていた最初の価値の大きさによって、すなわちそれら自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。それゆえ生産諸手段は、それらが役立つ労働過程とはかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは決してできない……労働過程においては、それは、使用価値としてのみ、有用的属性をもつ物としてのみ役立つのであり、それゆえ、もしそれがこの過程にはいるまえに価値をもっていないとしたら、それは生産物になんらの価値も引き渡しはしないであろう[220]

労働者は、彼の労働力の消費によって、さまざまな生産手段を新たな姿の生産物という使用価値を生み出すことで、新たな価値をつけ加えるだけでなく、同時に、それらの生産手段の価値をそっくりそのまま移転し、維持する。それは、彼の労働の二面性によるものである。「具体的有用的労働」という側面と「抽象的人間的労働」という側面と。

価値をつけ加えることによって価値を維持するということは、自己を発現している労働力すなわち生きた労働の天性というべきものである。この天性は、労働者にはなんの費用もかからないが、資本家には現存資本価値の維持という多大の利益をもたらす天性なのである[221]

この部分でマルクスは、生産労働過程における生産手段の価値移転を「輪廻」という仏教用語を使って表現している。「死から他の生へ生まれ変わることの繰り返し」――この「労働の無償の贈り物」の意義は、皮肉なことに、過剰生産恐慌による労働過程循環の強制的中断によって明らかとなる、ということを、同時にマルクスは指摘している。

1862年11月26日付の『タイムズ』紙上で、800人の労働者を使用し、毎週平均150梱の東インド綿花または約130梱のアメリカ綿花を消費する紡績工場の持ち主である一工場主が、彼の工場の年々の操業中断費のことを読者に嘆き訴えている。彼はそれを6000ポンド・スターリングと見積もっている。この失費のなかには、地代、租税、保険料や、1年契約の労働者、支配人、簿記係、技師などの給料のような、いまの場合われわれとは関係のない多くの費目がある。それから彼は、工場をときどき暖め、蒸気機関をときおり運転するための石炭代を150ポンド・スターリングと計算し、そのほかにときおりの労働によって機械設備を「いつでも動かせる状態」に保っておく労働者の賃銀をも計算する。最後に、機械設備の損傷を1200ポンド・スターリングと計算する。なぜなら、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめるからといってその作用を停止しはしない」からである。彼は、この1200ポンド・スターリングという額は、機械設備がすでにひどく消耗しきった状態にあるがゆえに、非常に少なく見積もられていると断言している。(注23)[221]

さて、いよいよ「価値移転」の解明の佳境にはいっていく。生産手段の価値が維持され、移転される、ということの実質的内容は、どのようなものか。労働過程においてその変化をとげるのが使用価値であるが、もともと価値を内在させていた使用価値が他の使用価値になるという過程のなかで、維持され、移転されるのである。

それゆえ、生産諸手段の価値は生産物の価値のなかに再現するのであるが、しかし厳密に言えば、それは再生産されるのではない。生産されるのは、新たな使用価値であり、そのなかで旧交換価値が再現するのである[222]

見かけ上は「再生産」されるように見える生産手段の価値は、「再生産」されるのではなく、単に「再現」されるだけである、とマルクスは指摘する。

これにたいして、労働力の場合は、事情が異なる。ここでは、まず、労働者が、労働力の価値と等価の生産物を生産する場合を考えてみよう。これまでの例示で言うと、10ポンドの糸を生産する6時間労働による3シリングの価値の追加で、生産過程が中断する場合。

確かにこの価値は、資本家によって労働力の購買にさいして前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された3シリングとの関連で見ると、3シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている[223]

労働力の価値を規定する、さまざまな生産物は、労働者自身によって消費され、彼の血となり肉となったのである。それは、彼の筋肉、脳髄、教養などなどを維持し、労働力発揮の継続を保障するものとなっている。これらの価値が、労働過程において、労働者の実際の労働力の発現のなかで、価値を「創造」することによって、実質的に「再生産」されるのであって、このことは、生産手段の「価値移転」とは、まったく別の過程である。

そして、この「価値形成過程」が、彼の労働力と等価の生産物の生産以上の生産過程を継続することによって、「価値増殖過程」へと発展する。

労働過程のさまざまな契機となる、労働対象や労働手段のような生産手段と、人間の労働力とが、生産物の価値を形成するさいにはたすさまざまな役割が考察されてきた。そして、そのことは、同時に、それら、労働過程の諸契機に投資された資本が、どのようにその価値を増殖させていくのか、ということを明らかにした。

生産物の価値を構成しているのは、資本家が最初に投資した価値を超える超過分、すなわち剰余価値部分と、資本家が最初に投資した生産手段と労働力の価値部分である。これまでみてきたように、わが資本家が投資した資本のうち、生産手段に投資された部分は、生産過程でその価値の大きさを変えないまま、生産物にそっくり移転される――これをマルクスは「不変資本」と名づけた。わが資本家が投資した資本のうち、労働者の雇用にあてられた部分、労働力の購入にあてられた部分は、生産過程で(これまでのところ)その消費継続時間の長短によってその価値の大きさを変え、剰余価値を生み出す――これをマルクスは「可変資本」と名づけた。

労働過程の立場からは客体的要因および主体的要因として、生産諸手段および労働力として、区別される同じ資本構成諸部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本および可変資本として区別される[224]

この「不変資本」の“不変”という意味について、マルクスは、さらにつぎのように述べている。

不変資本という概念は、それの構成諸部分の価値革命を決して排除するものではない[224]

生産諸手段の価値における変動は、たとえ生産諸手段がすでに過程にはいったのちに反作用的に生じたものであっても、不変資本としてのそれらの性格を変えない[225]

生産手段が労働過程に入っている間に、それらの価値に変動がおきる場合がある。むしろ、そういうケースの方が多い。そのような変化は、当然マルクスは想定している、と言っているのである。マルクスが、生産手段に投資される資本を「不変資本」と名づけるのは、たとえ、労働過程にはいり込んでいる間に、それら生産手段の価値変動がおこったとしても、生産手段の価値が、労働過程において、そっくりそのままの価値の大きさで移転するという内容に変わりはない、という意味においてである。生産手段の価値変動は、その変動があくまで労働過程の外で、流通過程でおきているから、それら生産手段が、労働過程をへて、生産物として流通過程にはいり込んだその瞬間から反映する。だから、価値の変動がおきる以前にその生産手段が購入され、労働過程を経て、流通過程に、すでに、はいり込んでいる生産物にも、その価値変動は反映される。

ここで、マルクスは、この「価値革命」をめぐって、「投機の法則」という、たいへん興味深い考察を行なっている。生産手段のうち、とくに原料が

労働過程にはいり込んでいる場合には、それがいましがた通過した労働過程の数が少なければ少ないほど、それだけこの結果が確実となる。それゆえ、このような価値革命にさいしては、加工されることのもっとも少ない形態にある原料に投機すること、したがって、織物よりはむしろ糸に、また糸よりはむしろ綿花そのものに投機することが、投機の法則なのである[224]

で、このような現象がなぜ生じるかといえば、

一商品の価値は、確かにそのなかに含まれている労働の分量によって規定されているのであるが、しかしこの分量そのものは社会的に規定されている。その商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したとすれば……もとの商品への反作用が生じるのであって、その商品はいつでもその類の個別的見本として通用するにすぎないのであり、その価値は……つねに現在の社会的諸条件のもとで必要な、労働によってはかられる[224-5]

からである。

そして、この「価値変動」をめぐっては原料などの労働対象だけではなく、機械や工場などの労働手段にも、同様のことがいえる。

原料の価値と同じように、すでに生産過程で役立っている労働諸手段、すなわち機械などの価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがありうる。たとえば新たな発明の結果、同じ種類の機械が労働のより少ない支出でもって再生産されるならば、もとの機械は多かれ少なかれ減価し、それゆえまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移転する。しかしこの場合もまた、価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外部で生じる。この過程内では、その機械は、それがこの過程とかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を引き渡すことは決してない[225]

さて、この章のさいごにマルクスが述べていることについて、なぜ、あえて、このことをここで強調しているのかが、私にはまだよく理解できていない。このことは、これ以降の章を読みすすめれば、理解可能であろうか? とりあえず、以下にその部分を引用する。これもしばらくは宿題。

不変資本と可変資本との比率における変動も、それらの資本の機能上の区別には少しも影響しない。たとえば、労働過程の技術的諸条件が改革され、その結果、以前には10人の労働者がより価値の少ない10個の道具を用いて比較的小量の原料を加工していた所で、いまや、1人の労働者が1台の高価な機械を用いて100倍の原料を加工するとしよう。この場合には、不変資本すなわち使用された生産諸手段の価値総量はおおいに増大し、労働力に前貸しされた資本の可変部分はおおいに減少するであろう。とはいえ、この変動は、不変資本と可変資本との大きさの割合、すなわち全体の資本が不変的構成部分と可変的構成部分とに分割される比率を変化させるだけであって、不変と可変との区別には影響しない[225]

いま、おおよそ予測できるのは、この考察が、剰余価値の大きさを資本家がどのように苦心して大きくしようとするか、なぜ、それができるのか、その考察の前提を述べているのか、ということくらいである。



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