偏見日記

「偏見は楽しい、無知は楽しくない」 98.9.1-98.12.29


12月29日 殺人罪だろ!!

 私は見なかったんですが、先日深夜番組で大前研一が「政府が銀行にお金をつぎ込んでいるのは、結局大手ゼネコンへの徳政令だ」というような事を言っていたらしいです。多分その通りなのでしょうね、名だたる土建国家日本ですから、ゼネコンがばたばたつぶれるような事態になったら大変なことになる、ということなんでしょうけど、別にえらいことになるのは大手ゼネコンと政治家、それに銀行だけで、普通の人は何も困りませんよね。

 私も建築業界にいますが、大手ゼネコンなんてなくったってどうって事ありません。他の先進国にはこんなものありませんし、なくてもちゃんとビルは建つし道路も出来ていきます。大体大手がやろうが、地元の建設会社がやろうが、仕事をするのは同じ下請けなので、ようするに建設会社なんて施工管理という名目で工事費をピンハネするところなんですよ。一度この仕組みを解体して各業種が直接施主から仕事を受注するようになれば、今の業界のかかえている問題のかなりの部分が改善されるはずなんです。

 一つの会社に巨額のお金が一度入ってしまうから、そこで政治家が介入してきたり、談合がおきたり、使途不明金が出てきたりなんて事がおきてしまうので、業種別に入札をして、監理する会社と施工する会社が緊張関係をもつようにならないと、無駄な公共事業は増えるし、単価も下がらない、下請けもピンハネされるから、そこで働く人間の労働条件は一向に改善されません。政治家がたかってくるのも、大きな金額が動くのと「定価」というものが存在しないので、裏金が作りやすいからなんです。談合というい官民一体の高値安定のしくみもあるし。防衛産業と建設業界が間違いなく諸悪の根元ですね。

 それにしても銀行というのは何を考えているんでしょうか、片一方で零細企業の貸し金は容赦なしに取り上げて、ゼネコンの借金は棒引きにしようっていうんですよ。先日から青酸カリを売って自殺幇助に問われてますけど、銀行の役員なんて間違いなく殺人罪ですよね、銀行の貸ししぶりで死んでる人が沢山いるんですから。

 うーん、だんだん腹がたってきたので、来年は頭から建設業界の談合の仕組みとか、公共事業の「値段」というのがいかにいい加減に決められてるとか、書くことにします。読むとよけい腹がたつでしょうけど。

12月28日 一応年末

 あまり、暦に縛られて今年はどうした、来年はどうする、とか考えたくはないほうなので、特に年末だからといってどうということはないのですが、昨日は参加しているメーリングリストの忘年会でした。普段はなかなか顔を見られない人に会えるのもたのしいのですが、何故かカラオケに行くことになっていて、これが楽しいのです。普段は絶対にカラオケボックスに行くことはないので、年に一度のお宮参りという感じで参加することになります。こういうふうに仕事ではない関係の人たちと話をしていると、人間という種もそれほど捨てたものではないかなあ、などと埒もないことを思ったりします。

 今年は本業も忙しかったし、久しぶりに旅行に行ったりして体を酷使したので正月はゆっくり休養。来年は今年以上にいろんなことをやりたいものですね。

12月26日 埴谷雄高のこと

 このところ「死霊」を読み返したり、ドストエフスキーに関するものを読んだりと、また埴谷雄高の本を読むことが多くなった。会った事のない人ではこの人に一番影響を受けている事は間違いないので、何度も読み返すのは不思議ではないのだけれど、何度読んでも説得されてしまうのは、少し悔しいような気がする。

 もうかれこれ二十年以上も読んでいるのだから、一つぐらい「ここはオレの考えのほうが正しい」と思えるところがあっても良いはずなのだが、未だに見つからない。こちらの頭が悪いせいもあるが、余程よく考えて文章を書くひとだったのだろう。難解な、と、良く言われるけれども、最初に読んだときから特に難しいとは思わなかった。かえって論理的で読みやすいと思ったほどだ。何を言いたいのか最後までわからないような(美文)よりはるかに読むのが楽だ。

 立花隆が埴谷雄高と何度も対談しているのは知っていたけれども、死霊を高く評価していて、来世紀には世界的な評価を得るだろうと言っているのには驚いた。最先端の科学や、脳死のことを追っかけたりしているので、思考実験小説と作者がいうような小説を評価しているとは意外な気がした。

 今日、民主党の管代表が、朝鮮有事のさい自衛隊が米軍の後方支援をするのは合法だと認めてしまった。直接軍事的なものに関わらないものに限られる。と言っているけれども今の時代にそんな区別が何の意味もないことぐらい知らないはずはないだろう。これでまたたがが一つ外れたことになる。社会民主主義というのはその程度のものなのか。

12月24日 イラク攻撃

 インターネットというのはおそろしく、便利なもので。いろんな情報にアクセスできるんですが、最近本を読むことも含めて本当にこんなに大量の情報にアクセスしなきゃいけないのか疑問に思うことが時々あります。

 あちこちと興味を引かれるままに、情報を漁るという行為は実はひどく愚かしい行為なのではないかと思うこともあるのですが、それでも今回のようにアメリカがイラクを空爆したりなどすると、出来るだけマスコミから流される以外の情報を得ようと思って、あちこちのぞき廻ることになってしまいます。いくつかのサイトを廻ってそれなりの情報は得られましたが、それはどこか自分が望んでいるものとは違うような気がしました。もっと直接的な関係を持つことが出来るのではないかそんな思いが強くなります。せっかくインターネットという道具を持っているのですから、普段からもっとイラクの人たちと直接連絡を取り合えるようにしておくべきではなかったのか。というのが今の気持ちです。

 ところで、朝日放送の世論調査では今回の攻撃に6割強の人が反対で、その理由も大半が「日本は武力を使ってはならないから」となっています。不倫隠しだからというのは11%でした。政府の思慮を欠いた支持表明に比べて国民のほうがはるかに冷静で、見るべき事をみているようです。成熟しつつある市民意識のなかで政治のシステムがおそろしく遅れていますし、政治家の意識は時代の最後尾にあるのではないでしょうか。

 とはいえ、一方では悪者フセインを懲らしめる正義の味方クリントンという見方に賛成する人も多いので、地道に情報を拾い集めて流していく事は大事ですね。

 今年も無事にケーキを食べて、サンタさんもやってきました。なんだかんだ言っても一年で今頃が一番ワクワクする季節です。早く世界中の子供たちが平和のなかで飢えることなく新しい年を迎えられるようになってほしいものです。

12月14日 「風邪」

 一週間程かかっていわゆる風邪のフルコースを味わった。鼻水から始まって、頭痛がして最後は痰が出るようになると、大体終わり。というあれです。

 久しぶりに半日ゆっくり眠ったり、夜の七時ごろから床に入ったりしていると普段十分眠っていないことがわかりました。もう年なんだから、せめて睡眠は十分とらないとだめだということなんでしょうね。今日も早めに(じんべいを見てから)眠ることにします。

12月6日 「唯識」

 このところ、仕事が異常に忙しくてものを考えられない状態が続いていたのですが、少し落ちついてきて、寝る前に読んでいた唯識をやさしく解説した本もやっと読み終えた。以前から悟りとか、解脱ということに興味はあったんですが、一千年以上も前から、今の精神分析以上と言っていいようなものが、仏教では研究されていたということには本当に感動しました。しかも言葉では絶対に解決出来ない無意識の領域を六波羅密という、具体的な方法で変えていく事ができるという理論付ができているのですから、うーんと思ってしまいます。しばらくはこの方面に埋没してしまいそうですが、過度の傾倒は教えに反するので、適度に修行?に励むかもしれない。

11月21日 戦前が始まった。

 小沢自由党が自民党に吸収されることになって、これで戦争マニュアル法案(周辺事態法)が国会で通るのは確実ということでしょうか。クリントンさんが来るのに合わせていたのかどうか知りませんが、多分金大統領とこの後会談するそうですから将来予想される北朝鮮の政変、台湾問題にどう対処するか大体確認し合ったということになるのでしょう。

 日本はこれでアメリカの腰巾着として、あるいはひもに貢ぐ女のように、徹底的に利用されつくすわけです。無論、まだまだ抵抗の余地はあるし、昔のほど権力が圧倒的な力を持っているわけではないので、予断を許さない面はあるでしょうが、戦時に向かって一歩進んだのは間違いないと思います。

 もう政党で抵抗できるのは、公明党の一部と共産党ぐらいですし「連合」なんかは先に旗振るような部分もあるでしょうから、身動きがとれないでしょう。 戦後の精算が最終段階に入ったんですね。

 ベトナム反戦運動から30年、どれだけ日本に市民的抵抗の基盤が作られて来たか、これから正念場ということです。

11月20日 変な?先生。 

 学校の話というのはむずかしいですね。身内に学校関係者がいるので、先生の生態?などが伝わってくるのですが、確かに先生のなかには生徒を相手にする職業には適切でない人が、かなりの割合でいるようです。移動があったりするためでしょうか、身内意識が強くて問題が表に出てきにくいのですが、信じられないような人も中にはいるようです。アル中だったり、精神的にかなり不安定だというのが見ただけでわかる人とか、やくざ顔負けの人とか。あるいは信じられないほど考え方が幼いとか。

 私の子供が通っている学校にも、信じられないようなことを生徒にいう女の先生がいます。本にすると伏せ字だらけになるような、差別用語を生徒に言うらしいです。

 無論、学校にだけそんな人がいるわけでもないし、割合が高いわけでもないでしょうが、教師という職業はかなり特殊な面があって、能力に関係なく同じ仕事をしなきゃいけないシステムになってますね。専科の場合は別にして、この先生は新人だから10人のクラスだとか、逆に能力が高いから45人だとか。他にあんまりこんな仕事ないんじゃないですか? たいてい組織というものは互いに不満を持ちながらも、補い合いながら対外的に仕事をこなしていくんですが、学校の場合建前上誰でも同じ仕事をすることになってる。

 その上、顧客(生徒)のほうからは仕事をしてもらう人間を選べないのですから、これはどう考えても、うまくいくはずがない。

 人間、能力以上のことを要求されて、それが達成出来ないときほど精神に負担の大きいものはありません。最近は父兄の学歴が高いので、昔のように学士様といって尊敬されるはずもないので当然そういう気分は子供に伝わりますから余計クラスの運営が難しくなってくる。

 これでは最初に書いたような先生が出てくるのも無理はないような気がします。負荷に耐えられなくなっている先生が、沢山いるということなんです。

 実際もう学校で授業が成り立たない事が日常化しています。「クラスを運営できない」と思っている先生がかなりいるんですが、誰も今のシステムを見直そうという気はないみたいです。文部省もそうですが、日教組にも危機感が全くない。

 端から見てるともう末期的なんですが、当事者にその意識はないようです。国鉄のときとよく似てますね。

 多分近いうちに学校の民営化みたいな案が出てくるような気がしますね、都会の中学校では、すでに少し余裕のある家の子は公立の中学校へ行かなくなってますから、いっそ全部民間にまかせたほうがいい、というふうにならないとも限らない。

 教育は国家の基本などと言って公務員の身分は安泰みたいに思っていると、とんでもないことになるかもしれません。それがいいとはけっして思いませんが、教師のあいだから相当真剣な対応が出てこないと、最悪の形で改革が行われるかもしれません。

 私自身は、もう学校なんかいらないと思っています。勉強なんか塾とか私が教えたほうが、丁寧に見られるし、読み、書き、話す もろくに教えてくれない学校なんか余計邪魔だと感じています。

 まあ友達付き合いということがなければ行かなくても全く支障はありません。自営業ですから中学校程度の勉強は見てやれますし、もう一度勉強しなおすのも面白いでしょう。

11月12日 淀川長治さんのこと。 

 亡くなってしまいましたね。89歳という年齢は早いというほどではありませんが、とてもおしゃれで若々しかったから、もっともっと長生きされそうに思ってたのですが 残念です。

 雑誌などで短い文章を読む程度ですが、ニコニコした表情の底に良質のニヒリズムみたいなものを勝手に感じていました。この人が二十年戦争の間をどんな気持ちで過ごしてきたのか、想像するとなにかしら恐ろしいような気持ちがします。 合掌

11月10日 学校の話 

 私は1950年生まれなので、中学校には1963年に入ったことになる。戦後二十年近く経っていて、戦後民主主義教育が行われているはずだったが、私の感じた限りそんなものは何処にもなかった。

 いや東京など大都市にはあったのかもしれないが、北陸の小都市までは及んでいなかったようだ。ベビーブーマーの尻尾のほうなので、一学年に13-15クラスもあった。今考えるとよくあんな老朽化した校舎に生徒が収容出来たと思う。部屋が足りないので一部のクラスは移動教室と言って、理科や音楽などの特別教室で空いた教室を転々としながら授業を受けるという状態だった。

 そのころからもう、生徒の評価は学力試験一本やりだった。そうなれば当然成績の良くないものは学校にいても面白くない、番長といわれる生徒を中心に「不良グループ」が出来る。

 他校の生徒との喧嘩は頻繁にあって、各学校のリーダー格の生徒は市内に名前が知れ渡っていた。今考えれば、多かれ少なかれ生徒の大半は暴力的なものの影響を受けていたのだと思う。

 その暴力を取り締まるのは生徒指導の教師なのだが、有名な教師に坂本仙乃助という人がいた。何かというと生徒を殴るので有名なのだが、それも尋常な殴り方ではなく、スリッパで頬をなぐりつけるのだ。私と同じクラブに喧嘩っ早いのがいて、よくその仙乃助に殴られたといって荒れていた。他にもよく殴る教師がいて、卒業式のお礼参りというのも必ずあった。そのころは中学を卒業してすぐ働くものもいたので、かなりのことがあったらしい。

 社会がそうだったといえばおしまいだが、当時の学校に人権という概念など存在していなかった。持ち物検査は平気でやる。生徒を殴る。制服の検査。頭髪の検査。全員坊主頭で、少し長いと職員室でバリカンで刈られたりした。平気で生徒を侮蔑する教師もいた。アカだとか、朝鮮人だとかいう言葉が、授業中に平気で使われていた。後になって軍隊の習慣がそのまま学校に持ち込まれたのだという意見を雑誌で読んだが、ああやっぱりと思った。生徒指導の先生は小説や映画で見る質の悪い上等兵そのものだった。

 先生がそうだから生徒が暴力的になったのか、あるいは逆なのかは私には判断できない。しかしあの当時学校を支配していたのは、生徒と教師双方の暴力だった。生徒は人間ではなかったし、教師の言うことはほとんど絶対に近かった。教師は成績以外に生徒を評価する能力がなかった。私は学校の中程から最上位まで成績が上下したので、おかげで教師の態度の違いがよくわかった。 良心的な教師ももちろんいたが、他に影響を与える程ではなく孤立しがちだった。

 戦後教育の弊害と最初に聞いたときは、あの抑圧的な軍隊式の教育を言っているのかと思ったが、民主主義的な教育が云々というのであきれかえってしまった。いったいいつそんなものが行われたのか聞いてみたい。生徒の自主性や個性がいつ尊重されたことがあるのだ?

 中学というのは、おそらく子供がはじめて大人と真正面から向き合う時期だろうと思う。その時期に生活の大半を過ごす学校で信頼できる大人に出会えないことほど不幸なことはない。自分の性格を教師の責任にする気はもうとうないが、少なくとも長い間私は人を信頼する事ができなかった。それは中学のころの経験と無関係ではないと思っている。

11月5日 恐ろしいのは心のなかだ 

 学校のことを書こうと思っていたら、昨日中学生が女友達に「別れたくなければ売春して、金を貢げ。」と言ってテレクラで客を物色して売春していた。というニュースがありました。

 中学生の売春というのは珍しくもないし、男の子がジゴロの真似をしていたというのも特に不思議だとは思わないが、こういう事件が起きる度に感じるのは、善悪を判断する基礎になるものがどこにもなくなってしまったということだ。

 世間でも親でも宗教でも学校でも何でもいいが、体が反応するような規範みたいなものがない。モラルハザードとかいう段階はもう過ぎていて、心の真ん中が見事なくらい空虚だ。一切の権威が崩れているのが今の時代なのだと言うだけでは、何の役にもたたない。

 おそらくこの中学生も思いきってやった、というよりちょっと嫌だけど我慢してやった。金がいるからちょっと言ってみた、そんな感覚だっただろうと思う。抵抗するものが多分自分の中にないのだ。

 大人の場合損得勘定が上手になるぶん抑制が効いているだけで、発覚しなければどんなに恥知らずなことでもしているのは最近の銀行家や官僚の事件を見ていればわかる。

 ふっと、我々は気がつかないだけで臭いがでるほど退廃しているのではないのか?と思うことがある。日本全部が肥桶のようになっているのかもしれない。

 恐ろしいのは、この退廃がどこまで行くのが先が見えないことだ。不景気でもまだまだ金はある。宗教はやまほどあるけれども本当の意味での宗教心がない。家庭はとっくに解体している。歯止めになるものが見あたらない。

 世紀末というのはこういうことなのかもしれない。そう思うだけで何をどうすればよいのか見当もつかない。

11月2日 学校について 

ここしばらく、TVのニュース番組を見ていないのですが、見なければ見ないでどうということはないものですね。考えてみればどうしても知らなければいけないことなんて、そうそうあるものではないので、一つの事をずっと考え続けることのほうが遥かに大切なんです。そこでというわけではないのですが上の子供が来年小学校を卒業するので、学校の事を少し考えて見ようと思います。

最近というより、かなり長い間先生の評判が悪くなっています。確かにどうかなあという先生はいますが、ならば昔の先生はそんなに良かったのか?少し記憶をたどってみても決してそんなことはなかったように思います。明日からは具体的に私の子供時代に会った先生の事を、その後は今の先生について書くことにします。

10月26日 横浜日本一 

 試合の内容はともかく、あの二塁塁審好きですね。普通ああいうジャッジはできません。余程自信があったんでしょう。野球はとくに好きではありませんが、あのての人は好きです。でもきっとしばらくいろんなこといわれるんだろうな。

 エリツイン大統領は、今度はだめかもしれない。毀誉褒貶のはげしい人ですがやっぱり一流の政治家ではなかったですね。ロシア共産党が新しい形で権力を握るということもありそうです。今欧州はほとんどの国が社会民主主義の国になっているので、その影響を受けて共産党も変わる可能性もわずかですがあるように思います。

10月23日 長銀破綻 

 いよいよ日本長期信用銀行が破綻ということになりました。これまでさんざん長銀が破綻したら経済が大変なことになると言ってきた人たちはどんな顔してるんでしょうか。今のところ何もおきないですね、これから何かおきるんでしょうか。なんだか日本のトップにいる人が全員思考停止に陥ってるんじゃないかと思えてしまうんですが、大丈夫なんでしょうか。新幹線はばんばん作れみたいなことを言ってるし、金券を配るなんてことを本気で考えてるという話だし。昔だったら、右翼の誰かが議事堂に突っ込むような事態なんだけど、最近元気がないのか誰も何もしませんね。まあほとんど属国扱いにされてるようなガイドラインにも、何にもできないんだから、長銀問題なんかで動かないですね。

 今日本に欠けているのはお金じゃなくて、哲学というか、新しい規範なんですが、今のところそれがはっきり見えてこないので、右往左往するしかないようです。しばらくじっと我慢していくという感じかな。

 ということを書きながら、ニュースステーションを見ていたら、長銀の元常務という方が出演なさってました。こういう人もいるんだなあという感じでした。どんな場所にも信頼できる人間っていますね。なんか希望がでてきたな。

10月22日(ドキュメント 屠場  鎌田 慧)

 屠場という言葉をこの本ではじめて知った。恥ずかしいことに私も今まで「屠殺場のような」とか「屠殺する」のようなという言葉を「残虐なことをする」という意味合いで使ってきた。週に何回も肉を食べるのに、今までそれがどんな場所でどんな人たちの手によって製品化されてきたのか全く考えずにいた。当然そこで働く人たちが、今でも世の中の偏見にさらされていることにも考えが及んでいなかった。

 食肉の生産にたいする差別的な考え方は、もうなくなっているんだろうと考えていたのだから、二重の意味で罪が深い。この本では今まで取り上げられることのなかった、食肉の生産現場をそこで働いている人を中心に描いている。

 「魚の躍り食いのほうが牛や豚を食肉のために殺して解体することより残酷に感じる」というのは本文中のある労働者の言葉だが、確かに魚屋の前は平気で通れるのに、食肉センターが郊外へ追いやられるのはおかしな話なのだ

 「熟練の技が大量生産を支える希な仕事」の言葉通り、高い技術に裏打ちされた労働者の姿は本当にすがすがしい。何故か「レッヅ」という映画を思い出してしまった。

10月16日 歴史の変わり目

 世の中が変わっていくときは、必ずではないがほとんどの場合権力を持った人々の道徳的な退廃が起こるものらしい。

 古くはローマ帝国の時代、清朝の末期。最近ではルーマニアがそうだった。定家が生きた時代もそんな時代だったらしく、朝廷の風紀の乱れはそうとうのものだったらしい。

 性的なものも無論そうだが、加茂川が死体で埋まる程の飢餓の中で貴族の屋敷では贅をつくした催しが行われていた。夜盗が横行し、官位の売買が行われる。昼の警護のものが夜は盗人の手引きをする。 堀田善衛の定家の日記についての本を読んでいると、今の日本も同じなのではないかと思えて来る。

 この不況の中でも支配的な地位にいる人々は、庶民のことなど全く考えていないのではないか、と疑ってみたくなる。まさか、とは思うが、もしかしたら彼らも鎌倉期の貴族と同じように、ひたすら我が身の保身だけを考えているのではないのだろうか。

たまにテレビの画面にでてくる銀行の頭取の顔を見ていると、もしかしたら が「いやこれはやっぱり」というように変わってきてしまう。これが日本を動かしている人間とは思えないほど、下卑た顔をしている。政治家よりもまだひどい顔つきをしている。哲学のかけらもない。こんなもののために、何故国会で連日議論をし、税金をつぎ込むのか。納得したくても生理的に反発したくなる。

それとは別に、世の中が変わるためには新しいモラルの担い手が歴史の前に登場してこなければいけないのだが、日本の場合それはどんな人々なのだろうか。まだはっきりとは言えないが、ここ何年かのうちに、新しいモラルを持った人々が我々の前に現れてくるような気がする。それが政治的な団体なのか、あるいは別の形をとるのかはわからないけれど、目に見える形で新しい社会のモデルが提示されるのかもしれない。参院選はあるいはその予兆だったのかとも思ったりする。

 物と金が力を持った世の中から、違った価値観を持った人々が社会に影響力を持ってくる。そうなったとき歴史の歯車がゆっくり動き出すような気がするのだけれど、もしかしたら甘い夢なのかもしれない。

10月12日 読書中 

ドキュメント 屠場      鎌田 慧

私という小説家のつくりかた  大江健三郎

定家明月記私抄 (再読)     堀田善衛

10月8日 歴史的な日 

 この日は日韓両国だけではなく、アジアの歴史のなかで長く記憶されることになるだろう。それほど重要なことが、静かな雰囲気の中で行われたことに少し驚きを感じる。まだ道ははるかに遠いという気もするけれども、少なくとも何歩か前に進んだことは間違いない。国家の公文書のなかに謝罪の意を持つ言葉が、記入されたことの意味は大きい。今のところ閣僚の妄言もない。二十数年前中央公園で、金大中氏の拉致事件の時金沢でも原状回復を求めてハンストが行われた。私は側にいて雑用をしていたが、夜付き添いがわずかの人数になって、右翼の人間や、警察が来るのではないかと、ロウソクの灯みながら不安な思いでいたのを今でも覚えている。

 その後もキーセン観光、光州事件、人革党事件などいろんな事柄があった。長い時間がたって、やっとここまで来た。微力というほども役にはたたなかったけれど。少なくとも間違ったことをしていたのではなかった。そう思えるのがうれしい。

 長く生きてきても、そういえることはそんなに多くはないし、この先もあまりないのかもしれない。時代は暗いがまだ真の闇にはなっていないことの証のように思う。

10月6日 嫉妬の時代

 我々の子孫が、何かの機会に今の新聞、週刊誌、あるいは報道のビデオなとを見てどんな風に思うだろうか、おそらく他人の生活に関する異様な好奇心に理解しがたいものを感じるはずだ。

和歌山の保険金詐欺事件の報道などは、何故こんなことが連日トップニュースとして扱われなければいけないのか、不思議だろう。日韓関係の歪みを是正する最後のきっかけになるはずの、今回の金大統領の訪日に関する記事が、特に週刊誌などで異様に少ないのは何故なのか。それを異常と感じない感覚というのは、どこに由来するのだろうか。

そうなるのは、普段の報道が、ほとんど興味本位でのぞき見的なものであるためではないのか、朝から晩まで個人の家をのぞき込み、勝手に写真をとり、TVで放映する。何のためにこんなことが行われなければいけないのだろうか。

 少年の写真を週刊誌に載せ、家族のプライバシーをあばきたてる。その一方で警察発表はなんら確認をとることもなく垂れ流し、いいように利用されている。今の状態が犯罪の防止、あるいは真相究明に何かの役にたつのか、権力へのチェック機能をはたしていると言えるのだろうか。今さら社会の木鐸とか、良心などということは期待してはいないけれども、少しは興味本位からはなれた、冷静なメディアがあってもいいのではないのか。

 自由な報道は何より大事だろう、しかし自律することも同じほど重要なのではないのか。

10月3日 希望的観測

クリントン大統領が急きょ日本と韓国に来ることになったようですが、何のために来るのか気になります。まさか辞める前にご挨拶にというわけではないでしょうから、普通に考えるとアジア経済のたてなおしのため、という事になるのでしょうが、それだけではないのかもしれないですね。もしかしたら北朝鮮の問題で何か緊急に競技しなければ行けないことが、あるのかもしれない。

だとすると金大統領が日本に来た後、続けて会うわけですからそうとう詰まった話になるのは間違いないでしょうが、問題は緊張が緩和する方向に向かうのか、それとも軍事的な対立が高まるほうへ行くのかということなのですが、おおかたの見方と違って多分金正日氏から直接何らかのアプローチがあったのではないか。 というふうに思うのですが、どうでしょうか。希望的観測にしか過ぎないのですが、もう北朝鮮が今の状態のままいってほしいと思っているのは本当に極一部でしょうし、中国もからんで一気に事が進むという可能性もあると思います。

 こんな事書いていると、近所の美容院のかたが、韓国に旅行に行って来たのですが、同行の男の人数人がいわゆる暴力バーへ連れて行かれて20万円をカードで支払わされた、という話を聞きました。手口はまあよくあるパターンで、飲み屋さんで意気投合した妙齢の女性に案内されて、いった先がまあ、恐いお兄さんのいる店だったというやつです。古典的な型ですけど、相変わらず引っかかる人が多いんですね。あのお 日本のオジサンは絶対もてませんよ、外国でも日本でも!!

9月26日 韓国からのメッセージ

 昨晩 TV CMを見ておどろいたのですが、金大統領が観光用のCMに出てるんですね。観光客を呼び込むためにということで、韓国の有名スポーツ選手も沢山出演していて、世界各国で流されているようです。かなりのお金をかけて制作されたいうことです。

 さて、この CM なのですが、他の国に対しては純粋に観光客を増やすためなのでしょうが、日本でこういう CM を流すというのには少し別の意味があるのではないのでしょうか。韓国の現職大統領が日本の TVCM に登場するというのも、おそらくはじめてでしょうし、日本人に"どうぞ韓国へ"という調子で語りかけるという事もかってなかったのではずです。近々解禁になるとはいえ、まだ日本文化は"ご禁制"ですし、従軍慰安婦の問題や植民地時代の補償の問題も解決されていません。そんな中で大統領自身が CM の中とはいえ日本に何かをお願いするような形をとるというのは、それほど簡単な事ではないような気がします。

 うがち過ぎかもしれませんが、私はそこに金大中大統領の日本との関係改善に向けた意欲を感じるのです。経済危機のため政治的に難しい運営を強いられている中で、訪日を機に少しでも日本との関係を良好なものにしたい、という思いがそこにあるのではないでしょうか。

 金大統領は何度も政治的な危機を乗り越えて大統領の座についた人だけに、したたかな人には違いないのですが、韓国の人らしく反面理想主義的なところも強いと聞いています。おそらく自分が大統領の地位にある間に韓国と日本の関係を、何とか正常な状態にしたいと思っているのは間違いありません。韓国政府の日本に対する対応が抑制の効いたものになっているのは、その一つのあらわれだと思われますし、漁業協定がなんとか締結されたのもその枠組みの中の事でしょう。

 残念なのは、対する日本の対応がひどく鈍い事です。いわゆる「過去の精算」問題を、国民感情の面はともかく政治的に解決する事は、これからの日本にとって非常に重要なことであることは少し考えれば誰にでも解るはずですが、どうもそうではないようです。

日本と韓国は歴史的、地理的にも、国際政治の上でも似通った位置にあります。中国という巨大な国の周辺に位置し、長い間その影響を受けて来ました。戦後はほとんど「属国」と揶揄させるほど両国ともアメリカに依拠してきました。冷戦が終結して戦後の国際政治の枠組みが大きく変わっているなか、このままアメリカ一辺倒の外交政策をとり続け、北朝鮮を仮想敵国とする状態が本当に両国にとって良いことなのか、また、急激に経済力を強化している中国との関係をこれからどうしていくのか、表面上の経済的な競合にもかかわらず、両国が認識を共有し対処していかなければいけない問題は多いのです。少なくとも金大統領は、こういう両国の立場を認識しているはずです、だからこそ国民感情も含めたいろんな抵抗にも関わらず、関係の正常化に向けて様々な努力をしてきているのだと思います。にも関わらず外務省始めこの国の為政者の対応は、痴愚ではないかと思いたくなるほど鈍くかつ頑迷です。新しい関係を創り出そうという意欲はかけらほどもありません。このままではおそらく大統領の訪日は全く実りのないものになるでしょう。あるいは江沢民のように、日本政府に見切りを付けて訪日を延期するかもしれません。

 これもいわゆる「頭のいい人間」が官僚になっているせいなのかもしれませんが、せめて一人でも二人でも先の見える人間が外交の舞台で力を出してくれるようにと願っています。

9月22日 物書きの未来

 ここ何年かの間に読み親しんでいた作家が、次々に向こうに行ってしまったので、小説を読む機会が減っています。特に日本人の作家の新作はほとんど読んでいません。筒井康隆と村上春樹ぐらいしか新刊が出てすぐ読もうという気にはならないのです。多分年をとって新しいものに対する意欲が薄れているのだろうとは思うのですが、それだけでもないような気がします。先日も知人に最近出た若い作家の本を借りてみたのですが、最初の数ページで読むのが嫌になりました。近未来小説で、コンピューターのハッキングが話のポイントになっているらしのですが、最初の場面でがっかりしてしまったんです。こんなもんで侵入できるのはずがねーだろう、と 思ってしまったので、後はもう読む気がしません。文章も生な感じがして、とても腰帯に評論家が書いてあるような傑作だとは思えませんでした。書いたほうはともかく、こんな本を近来の傑作みたいにほめる評論家というのは何なのでしょうか。

 比べて、最近インターネットでいろんな人の文章を読んで気が付くのは、アマチュアの人の書く文章が以前に比べてすごくうまくなった事です。自分の好きな事を書いているせいかどれも本当に面白い。変な作為もないし、高いところから見下ろしたようなところもない。それぞれの専門の事を書いているときなどは、本当に参考になります。それに素人が好きなように書くからと言って決していい加減な事は書いてない。(もちろんたまに例外はありますが) それぞれ自分の名前を公開して、いわば全て署名入りで書くのだからそれなりに、責任を持って書いているせいなのかもしれません。どこかの新聞の誰が書いたかわからないような記事より、はるかに信憑性があると私には思えます。

 これほどアマチュアの書くものの質が高くなってくると、作家と言われる人たちをはじめ、評論家とかジャーナリストとかいう人たちは、よほど優れたものを書かないとこの先プロとして、やっていけなくなるのではないでしょうか。それで食っていけるかどうかは別にして、書いたものが人々の評価に耐えられるかどうか、今の状態だととても心許ない気がします。

 今はまだ、これまでの惰性で新聞記事とか、プロの物書きの文章とか一応それなりに多少の敬意を払って読んでいますが、そのうち全部が同じレベルで評価されるようになったとき、何人の人が「さすがにプロの書くものは違うなあ」と思わせる事ができるでしょうか。今の状態だと十人に一人いれば上々という気がするのですが、失礼でしょうかねこれは。湾岸戦争のとき、TVに聞いたこともない軍事評論家が沢山出演してましたが、最近あの手の視野の狭い、オタクのような物書きが多いような気がするのですが、たまたま私が読んでいるものがそうなんでしょうか。

 9月21日 幸田 文

 以前から読みたかった作家の一人が幸田文だ。時々ラジオの朗読などで聞いた時は、すぐに図書館へ行って読んでみようと思うのだが、次の日いや一時間もしないうちに忘れてしまうので、なかなかよめなかった。どちらかと言えば重い気分になるような印象だったので、ついおっくうになったせいもあった。先日全集の一巻を読んで、圧倒された。なんという文章だろうと感じた。私は幸田露伴という作家の作品を多分一度も読んだ事はないし、どんな人間だったか全く知識がない。一般に夏目漱石以外は、明治以後の日本の文学全集に名前が並ぶような作品はほとんど読んではいない。太宰治を少し読んだぐらいだ。だから幸田露伴が文学史的にどんな意味を持つ人なのかも全くわからない。しかし、この本に出てくる露伴は何とも言えず魅力的な人間に描かれている。理想的な人間とさえ思える感じがする。

 一般に子が親の事を書いた文章というのは、あまり面白いものがない。身に付きすぎているというのか、思いが強すぎるせいか、感情が空回りしたような文章が多い。幸田文の文章は、抑制された中にぴんと張りつめたものがあって、時々はっとするような表現で彼女の胸の内にあるものをこちらに訴えてくる。一巻を一気に読んだが、すぐに次の巻をという気になれない。あまりに伝わってくるものが、多すぎて布団の中で寝る前にというわけに、いかないので、居住まいを正して机の前で読まなければすまないような気がする。

経済のことはインターネットで?

 連日、ニュースは長銀など金融危機の事を取り上げているけれども、TVだけを見ていると、いかにも金融危機が何とかなれば景気が良くなるように思うけれども、そうではないという事がインターネットでいろんな人の意見を読むとよくわかるし、そちらのほうが説得力がある。景気はもう二度と良くならないし、良くなる必要もないという意見はけっこう多いし、大まかに考えれば地球環境はもう景気が良くなる事なんか許容できないところまで来ている、のは誰にでも解っているはずです。

 「新しい枠組みで経済の事を考えないとダメだ」なんていうキャンペーンを張るマスコミが一つぐらいあってもいいと思うのだけど、どこも代わり映えがしない。政党の機関誌も含めて。一種の視野狭窄におちいってるのではないかなあ。

9月16日 防衛庁の本分?

  昨日でしたか、ニュースステーションの久米宏さんが「防衛庁は北朝鮮のロケット事件のときに、一生懸命に書類の隠滅工作をしていたんですね」ってあきれてましたけど。いえ、あれでいいんです。防衛庁の仕事はあれが本業なんです。みなさん勘違いをしているみたいだけど、自衛隊ももちろんそうですが、軍隊って要するに、企業のためにあるんで、けっして国民のために存在してるんじゃないです。まして世界平和のためなんて、とんでもないです

 本家のアメリカがそのいい例ですけど、もう定期的にどこかで戦争しないとやっていけなくなってるみたいで、日本の建設業みたいなものなんでしょね。湾岸戦争が典型的で、古い兵器は溜まっているのにソ連が無くなって困っているところへ、丁度フセインなんてお調子者が、のこのこ出てきた。というより、騙されておびき出されたんでしたんですけど。後は日本とアラブ成金の金で在庫一掃セールでありったけの爆弾を消費したんですよね。

 自衛隊はアメリカみたいに実戦で消費できないぶん、なんというか企業もたいへんみたいで、まあ必要のないものを高い値段で売りつけるんですから、大変でしょうけど。よけいに癒着がひどいみたいです。だからミサイル騒ぎよりより証拠隠滅に懸命だったのもあたりまえで、本体の企業がどうにかなったらもう、防衛庁の存在意味がなくなってしまうんですから。

 全く関係ないことですが、昨日今日とNHKで版画家の山本容子さんを拝見しました。すてきですね,45歳 だそうで、ああいう方を見ると一日気分がよいです。;^_^)

9月14日 もうたくさん

カートボネガットの「時震」の中にこんなのがあった。「ヨハネス ブラームスは55歳で交響曲の作曲を止めた。もうたくさん! 私の父は建築家だったが、55歳で建築に飽きた。もうたくさん。..... 」 瀬戸内寂聴さんも対談の中で50歳ぐらいでもうみんな嫌になった。と言ってますが、何となくわかるような気がします。大体やり尽くしたというより、何したってたいしたことないよ。っていう感じだと思います。ニヒリズムといえばそうだし、枯れたといえばそうでもある。何かうまく言えないのですが、大体予想がつくようになってくる。あるいは予想がつくように思えてしまう。

 でもクリントンさんはそうでもないようで、webpage にあんな事まで載せられてしまいましたが、まだまだいろんな事に興味があるようです。支持率も高いし、止めないでしょうね多分。  今回はマスコミも含めて少しやりすぎです。品がないですよ、検察のやり方は人間がしてはならない線を越えていると私には思えます。世論調査でもはっきりその事を指摘してる人もいるし、くだらない事に時間を使うなという意見もある。大統領に必要なのは上手に嘘をつく能力だ。その点で彼は失格だ。だから止めろというならわかりますが、こんな事いきなり人の国にミサイルをぶち込む事に比べたら ”屁でもない” いけませんね、私までつられて品がなくなってしまう。 どこかあの国はおかしいですよ。よく言えば理想主義的ですが、普通に見ると単純なバカです。 「何々はかくあらねばならない」という意識が強すぎます。大統領はかくあらねば、民主主義国は......同盟国は 敵は.....。

 自分で創り出した影に振り回されてますね。ゲド戦記でも読むといいように思います。

9月13日 離脱するための倫理

 この国では何故か倫理という言葉は、少なくとも「世間」では馴染みのない言葉だし、私自信もめったに「話の中」で使う事はないので、居心地が悪いのだが「倫理と道徳」という河合隼雄と鶴見俊輔の共同編集の本の中に惹かれる文があった。

 オーム真理教や、日本軍の南京虐殺などの例を引いて、集団の中で単一のアイデンティティーを強制されたとき、それに抵抗するために自分の中に住み着いている複数の私、複数のアイデンティティーを切り捨てない事の大切さを説いている。自分の事を考えても、確かにいろんな場面で大勢のものとは違う「私」がいくつかあったおかげで、集団に取り込まれる事や、押しつぶされる事から免れて来たように思う。

 では、日本が今向かおうとしている、アメリカの下僕となって、人殺しの手伝いあるいは直接人殺しとなる道筋から逃れる方法はあるのだろうか?幸い戦前に比べて支配者の力は弱く、抵抗する側も多重的になっていて、簡単にはつぶれないようにはなっている。しかし、社会の中で最も強制力を持っている、(会社)内部の組織がある。いざというとき、(会社)が押しつけてくるアイデンティティーから逃れるだけの別の「私」を沢山用意しておく必要があると思った。

9月10日 心の闇

 ここのところ、和歌山の砒素混入事件の影響かどうか知りませんが、缶入り飲料にいろんなものを入れる事件が起きてます。他の事件はともかく、ウーロン茶に青酸が入っていた事件は、グリコ森永事件と同種の事件のような気がするのですが、違うでしょうか。全く表には出てきませんが、飲料水メーカーを脅迫している人間がいないとも限らないですよね。ここ数年日本の社会の中に、つまり我々の心の中に、何とも言えないどす黒いものが生まれて来ているような気がするのですが、そんなことありませんか?不安というのではないですね。閉塞感というか、どん詰まりの状態が生み出す暴力性みたいなものが、あちこちで吹き出してるような気がしています。

 政治家が何とか出来るような問題ではもはやないような。まだオーム真理教のようなもののほうが、もしかして救いがあるんではないか。と思うようになりかねないところが恐ろしいです。

9月9日 OFF

今日は仕事もoffだったので、これもおやすみですね。muleの設定も終わってメールも全部muleで出来るようになりました。後は細かい設定をするだけなんですが本当に化け物見たいな、エディターです。

 こういうものをタダで、配布するというのもコンピューターにまつわる一つの文化だし、それでとにかく金儲けしようというのも(そっちが多いですが)まあ文化なんでしょうね。

9月8日 他人の金だと思って

 ここ一二日で、円が急騰。株価も1500円までもどりました。政府の経済対策がしっかりしないから、円が売られるとか日本売りとかいわれてましたけど、政府が何も決めなくても円が上がったりするのですから、結局関係ないんです。実体経済と為替や株価には何の関係もなく、ただ投機的な資金の動きで、一国の経済が混乱し、時にはロシアのように壊滅する。カジノ経済そのままです。一方雑誌を読んでいたら、長銀は竹下元首相の財布と言われていた銀行だから、長銀救済の裏には元首相の意向が働いている。という記事が載ってました。農協の資金も大量に入っているという事が先日報告されていますいし、長銀の救済はしっかり、政治的なりゆうなんですね。住専と一緒です。金融システムの破綻なんて何の関係もないそうです。人の金だと思って大胆に使いますよね、みなさん。

9月7日 自警団 良妻賢母

 今読んでいる本の中に。大正デモクラシー華やかなころに、いったい誰が後十年で、軍部がのさばり、中国を侵略し、天皇が神になるような時代が来ることを想像しただろうか、という意味の事が書いてあって、思わずどきりとしてしまいました。確かに、どことなく今の世相はあのころと似ているような気がします。不景気だし、政治家は腐っているし。ガイドラインなどというほとんど総動員法まがいのものがつくられていくし......。

 もちろん、あのころに比べて違っている事もたくさんあるので、単純に同じ道を歩んでいるとは言えないのですが、その一方で世の中の雰囲気が短い期間にがらっと変わってしまう事がある、ということはいつも頭の隅に置いておかなければいけないと思います。

 そんな事を考えているときに、野々市町で放送されているローカルのFM放送で町内の紹介をするプログラムがあったのですが、それを聞いていて私はタイムスリップしたような気がしました。

 話をしている二日市町というところの町内会長の口から出てくるのは、そのほとんどが自警団の自慢と「最近の若い人は」に続く若い世代の町内会への参加要請でした。あげくのはてにこの町内会長、「町内の若いお母さん。良妻賢母でよろしくお願いします」という言葉で話を締めくくったのです。私は聞いていて背筋が寒くなってきました。今どき自警団があるというのもどうかと思いますが、戦前、戦中に町内会や自警団がどれほど人々を戦争に駆り立てるのに協力し、非国民の名のもとに、あらゆる非戦や反戦あるいは厭戦の芽を徹底的につぶしていったか。そういうに意識が全くこの方にはないようです。

 そこまで言わなくてもこの会長が得々と述べた青少年の非行防止の名目で夜の公園をパトロールする、などと言う行為が、その青少年の人権を無視した行為だということに、全く気がついていないようです。夜の公園をオジンとオバンが懐中電灯持って集団でうろうろする。のぞきとどこが違うのでしょうか?こんな事のどこが「非行防止」に役にたつのでしょう。もっともその非行防止といのがどういう事をさしているのか、よくわからないのですが。

 若い人と話をしていると、本当に未来に希望を持てるのですが、こういう年寄りの話を聞くと、もう本当にどこかへ逃げ出したくなるのです。たまらんなあという気持ちが先に立って、どうかしようという気になれないのです。もうお前ら勝手にせい、という感じのほうが先にたってしまいます。少しでもこいつらより長生きしてやろう、などと本気で考えてしまうのです。

9月6日 ミサイルと人工衛星

 金正日氏が北朝鮮の国家元首に就任したということで、今日の一面は多分どの新聞もこの記事だろうと思いますが、私が気になるのはその事よりも先日来ミサイルと報道されているものが、実は北朝鮮の言うように人工衛星なのではないかという記事です。あの後すぐ北朝鮮は人工衛星を打ち上げたのだというコメントを出し、翌日ニュースの画像も流れたのですが、政府もTVによくでる軍事評論家も、あるいは自衛隊の幹部も、そんな事はあり得ないという態度でひたすら政治的報復、あるいは軍事的な予防措置を訴えるのに懸命でした。しかしどうも新聞で読む限り、人工衛星というのは本当なのではないか、あるいは簡単に人工衛星ではないとは言い切れないのではないのでしょうか。

 そうだとすると、今までの報道、あるいは政府の対応というのは全くいい加減な情報を元に行われていたことになります。いい加減な情報というよりも、政府はアメリカから流される情報をそのまま、鵜呑みにしていたのではないか。マスコミは政府発表を確認もせずに、ただ垂れ流しにしていただけなのではないか。そういう風にしか思えないのです。

 こんな状態では日米安保の「戦争手引き書」が現実に適用されたときどんな事になるのか、ほぼ予想がつくような気がします。紛争あるいは、戦争の戦地情報というのは特に初期の段階では機密ですから、もう日本はアメリカの言いなりになって、金も装備も人も出すことになるわけです。戦闘が開始されれば後方も前線も刻々と変化するわけで、重要な情報はアメリカが握ったまま日本は参戦していく事になるのでしょう。ミサイルか人工衛星の打ち上げかも確認できないような政府に、あるいは確認出来ないのなら、はっきりとした事がわかるまで対応を留保する事出来ないような首相に、一体どんな「運用上の歯止め」期待できるのでしょうか? 加えてマスコミも野党も、この手の問題には冷静に対応できないのが今回よくわかりました。いざというときにどんな情報を信用するのか、誰が信用できるのか、阪神、淡路大震災のときもかなり、はっきりしましたが、今度のことでさらによくわかった気がします。

 ここまで書いたところで 黒沢監督が亡くなったニュースが入って来ました。昨日の今日で、言う言葉もありません。合掌

9月5日 堀田善衛 死去

 堀田善衛さんが亡くなられました。はじめて堀田さんの作品を読んだのは、「若き日の詩人たちの肖像」だと思います。その後、折に触れてのエッセイやあるいは代表作と言われる「ゴヤ」などのスペインに関する作品や、モンテニューを描いた作品を読んできましたが、ともすれば目先の事に囚われて足下のふらつきがちな自分にとって、自らに課したテーマを淡々と追い続ける堀田さんの作品は、読む度に心の深いところを揺さぶるような刺激を与えてくれました。

 堀田さんが亡くなって、武田泰淳 野間宏 埴谷雄高など戦後の日本の文学に大きな役割を果たした人がほとんどいなくなってしまった事になります。改めて一つの大きな時代が終わったという感じが強くします。作品の評価は別にして十代に読んだ小説というのは、また格別の思い入れがあるものですし、作家が生きている時に読むのと、亡くなった後で読むのでは読み方に微妙な差があるように思います。もう、今生きている人で本当にその作品を読んで見たいと思う作家は、ほとんどいなくなってしまいました。大江健三郎はすでに小説を書かなくなっていますし、もう新しい作品が待ち遠しいと思える作家は一人か二人です。古典を読む楽しみの他に、小説には書かれたその時でなければわからない、食べ物で言うと旬の部分というものがあります。それがもう味わえないというのは、本当に寂しいですね。

9月4日  洪水 異常気象 氷河期

 ここ数年あるいはもっと前から異常気象の事が話題になっていますが、今年は特にひどいようです。結局一度も海に生きませんでしたし、バーベキューを計画していたけど、一日もする気になるような天候の日がなかったです。 この異常気象の原因についてはいろんな事が言われてます。エルニーニョ とか 炭酸ガスとか オゾン層の問題とか。でもどれもすっきりした説明ではないように感じていたのですが、昨日 筒井康隆と根本順吉さんの対談に、ああそうかもしれないと思えるような事が載っていました。根本順吉さんという人はその方面では有名な方らしいのですが、気象学者で気象庁にいたときに1963年の気象が10万年に一回という異常気象だというのを発見した人だそうです。

 結論からいうと、現在は間氷期の温暖期から寒冷気に移行する、その境目の気候が大変不安定な時期だという考え方です。それにプラスして人間の活動、つまり二酸化炭素であるとか、オゾン層の破壊だとかの影響。その他太陽の黒点の異変もあるそうで、それらが複合して過去のデータでは全く予測不可能な事態に入っているというのが、根本さんの考え方です。確かに最近の異常気象は人間の活動の影響だけでは説明ができないですよね。だからいって人為的な影響は小さいのかと言えば、そんな事はなくて、特に読んでいて恐かったのはオゾン層の破壊の影響でした。1991年の19号台風はものすごい風でしたが、あれもオゾン層が破壊されて大気の対流が成層圏まで及んでいるためではないかという事なんですが、オゾン層の破壊はこの後100−150年も続くと言われてますから。なんか空恐ろしい気がします。

 こういう事態にどうやって対処していったらいいのか、全くわからないのですが、少なくともこの異常気象が当分続くというのは間違いないらしいので、いざというときにどうするのか真剣に考えないといけないですね。防災グッズとかのレベルでは間にあわないでしょうね多分。

9月3日 経済危機?。

 昨日クリントン大統領がロシアへ行ってましたが、ロシアの経済危機には打つ手がないようです。ここしばらく経済危機というのが常態化していますが、これってどういう危機なんでしょうか。危機の次は破滅が来るんでしょうけど、一体どんな事態がおきるんでしょうか。宮沢さんも何もその点には触れないので想像出来ないのですが、もしかしたら金融機関が破綻するだけなんじゃないんですが?株が下がったとか上がったとか、円が高くなったとか言って騒いでますけど、本当はそんなもの庶民には関係ないんじゃないのですか?みんな新聞読んで眉ひそめてますけど。

 今の経済って全世界のGDPの何倍もの投資資金が、世界中の金融市場を駆けめぐってる状態なんでしょう。早い話がお金が大量に余ってるんですよ。それが通信網と電脳のおかげでより高い利潤を求めて移動しているんですよね。だからバングラディッシュのGDPとビルゲイツの資産が同じだっていうバカな事も起きるんです。だけどよく考えたらお金ってもう単なる計算機の上の数字でしかないんですよね。以前はたかが紙に印刷しただけのものって言い方があったけど、今はそれですらないんですよね、単なる電流の変化でしかないんです。誰もそんな現金を見たこともないんです。実体経済とはなんの関係もなしに勝手に危機になったり、破綻したりしてるのが実状なんじゃないですか? だからひょっとしたら、今の経済危機というのはお金を持ってる人だけが危機なのかもしれない。あるいはディスプレイに映った数字にとりつかれた人間たちの妄想なのかもしれません。

 本当はもう人間はお金から縁を切らないといけないのかもしれないですよね。よく考えたら本当はもうお金って価値がないのかもしれませんよ。次の世紀には国家の廃絶ではなくて、お金の廃絶を目指した革命がおきるんじゃないのでしょうかね。

9月1日 TV局って一体何。

 北朝鮮がミサイルの実験をしたことで、各テレビ局がやたら騒いでいるけれど、この人たちは一体どういうつもりなんでしょうか。どの局もみょうに危機意識を煽りたてるような事をいってますが、自分が何を言ってるのかわかっているのでしょうか。小川和久さんなんかがせっかく、(北朝鮮が日本にミサイルを撃ったりする事は軍事情勢から言ってあり得ない)という論旨で、冷静に対応するように言っているのに、どのキャスターも自衛隊の情報収集能力が不備なのではないか、とかミサイルを迎撃するする体制を整えるべきではないかとか、子犬がキャンキャン吠えるように、信じられないような事を口走ってます。

 まず第一に脅威を感じているのは北朝鮮のほうだというのを完全に忘れてます。常時偵察衛星で完全に監視され、最強の上陸部隊が沖縄に駐留していて、一船団で世界のどこの国とも戦争が出来る艦隊が目の前の海を航行している。韓国には間違いなく核を装備した部隊が駐留している。少し想像力を働かせたら、そのことがどれほどの圧力になっているかわかるのではないでしょうか。そんな状態でミサイルなんか撃ってくるはずがないんですよ。湾岸戦争の教訓をもっとも真剣に受け止めているのはおそらく北朝鮮のはずなんです。それでもまだ金正日が血迷ったらとか言う方がいますが、そんなことを言い出したらミッドウエイの艦長が狂ったらと考えたときの北朝鮮の人のほうが余程恐ろしいでしょう、間違いなく自分の国が壊滅するんですよ。あるいはステルス戦闘機の誰かが自棄になるかもしれませんし、あるいは日本の自衛隊のパイロットが思い詰めて領空を侵犯してくるかもしれない。可能性としてはそちらのほうが対象が多い分高いですよ。どうして圧倒的に優勢なほうが脅威を感じなければいけないんでしょうか?

 第二にミサイルを防ぐ技術なんかまだどの国も持っていませんし、そんなものが出来れば、必ずそれをかいくぐって来るような兵器が開発されるのは、わかりきってます。子供でもわかる理屈で、レーガンのスターウオーズなんていうのも結局出来なかったのをわすれたんでしょうかね。ジャーナリストというのは情報を元に冷静な判断をするのが基本なのではないんでしょうか。政治家や国民が冷静に判断できるように、あるいは拙速な行動を諫めるように、できるだけ正確な情報を届けるというのがTV局の仕事なのではないのでしょうか。 普段芸能人の尻追っかけるしか能のない人間が、同じような感覚で政府は弱腰なんじゃないでしょうかなどとコメントしてるのを見ると、思わずバカかお前はと叫びたくなります。何でもいいからで視聴率を稼げばいいのか。戦争もカレーも不倫も一緒なのか、あんたらの頭の中は。そんなに視聴率が稼ぎたけりゃ、どこか無人島へでも行ってTV局の人間同士で大砲の撃ち合いでもしたらどうです。まだそのほうが罪が軽いし、バカな人間が減って世の中のためになるよ。


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