北朝鮮問題を読み解く

この文章は京都で開かれた立命館大学「北東アジアの平和を探る」第二回シンポジューム
のために準備された。
                                                ウオンキ チョイ

1.序文

対朝鮮の主要な調停者である韓国の現代グループは、工業団地の位置の選定をめぐって平 壌と論争中である。そもそもこれは10月1日現代グループのチュン ジョーヨン名誉会 長が北朝鮮のハンフンで金正日と昼食をともにしたときに始まった。  北における南北共同の工業団地建設の話をしている途中、突然金正日はチュンに会長に 向かって「シヌイジュはどうですか、あすこは工業用の水も電力も豊富ですが」と話をき りだした。<  友好的に響く言いまわしで、金正日はチュン会長に対し、事実上共同工業団地をシニュ イジュに作るように要請していたのだ。シニュジュは北朝鮮と中国の国境付近に位置し、 非武装地帯から300Kmも離れていた。  もともと現代グループと韓国政府は工業団地を非武装地帯の北側に近接しているハエジ ュに作る計画だった。彼らはまずハエジュに工業団地を作り、その上で必要な物を板門天 経由で供給するつもりだった。しかし、金正日のシニュイジュについての一言が全てのプ ロジェクトを一時停止させてしまった。  南北共同工業団地の立地をめぐる「現代」と「平壌」の対立は北朝鮮専門家にいくつか の教訓を与えた。  1番目に、いかにソウルの政府が政経分離を貫ぬくのに腐心しても、実際は韓国の北朝 鮮政策は矛盾にみちているということ。2つ目に北朝鮮政府がいくつかの変化の証を見せ ているとしても、それは結局”北朝鮮方式”で行われるということ。3つ目に、そしてこ れが一番重要なことだが、北朝鮮を自分たちの物差しで見るのは、非常に危険であり、北 朝鮮は”あるがままに”受け入れられなければならないということだ。 以下の報告は北朝鮮を”あるがままに”記述することに留意しながら、核ミサイル問題の 歴史的な背景に手短に論及している。その上で私は1980年代からの長い経済的な苦境 がどのような影響を北朝鮮の社会と支配層に与えたかを述べ、最後に韓国の北朝鮮政策に ついて論評し、いくつかの提案をしたいと思う。 

U歴史的背景

 1950-1953の朝鮮戦争後に朝鮮半島が分割されて以来、南北両政府は熱い政治的な対立 を続けている。 この戦争は国土の75%を破壊し、全人口の20%、400万人の人々を失わしめた。南 北両町線は46年間、思想的、軍事的、経済的、外交的優位を証明しようと、息もつがせ ぬ競争を続けてきた。  今日、その戦いはすでに終わったように思われる。韓国はほとんど全ての面でその優位 を証明し終えた。かって、いくつかの韓国の若いエリートたちのグループが北朝鮮の社会 主義体制を賞賛した時代もあった。しかし時代は移り、ほとんどの韓国の民衆は北朝鮮を 哀れみを持って見ている。 時々韓国で放送される北朝鮮のテレビ番組は、今や人気のコメディーの題材になってしま った1930年代のサーカスグループを韓国の人々に思い出させる。 南北の格差は経済力においてもっとも顕著である。1998年の北朝鮮の一人あたりのG NPは573$、これは韓国の1/12である。経済危機にも関わらず、昨年の韓国の輸 出額は2,256億ドルに達した。一方北朝鮮の輸出額は16.6億ドル、で韓国のおよ そ1/136である。  両国がバランスを保っている一つの領域がある、軍事力がそうだ。しかしなが ら、韓国が軍事力の新鋭化に取りかかっている一方で、北朝鮮は1990年代に入って軍 事力を増大させることに失敗した。  金日成と金正日を含む北朝鮮の指導者は1980年代にすでにこの事態を予測していた ように思える、そして、もし経済的格差が増大し続ければ、韓国の軍事力がこの均衡をう ち破るだろうと判断していた。平壌はこの問題の解決を核兵器に見いだした。北朝鮮は1 980年代入って核兵器、ミサイル、化学及び生物科学兵器の開発に拍車をかけた。あた かも軍事力の不足をこれらの大量破壊兵器の開発によって補おうとしているようだった。 西側諸国は1993年から94年にかけて核開発に関する北朝鮮との交渉で大変な苦労を した。さらに98年から99年にはテポドン長距離ミサイル問題の解決策を見いださなけ ればならなかった。従って、21世紀には北朝鮮の化学、生物科学兵器が主な論点になる かもしれない。

V 変化する北朝鮮の社会

 今の北朝鮮を理解するための要点は、10年以上続いている経済的困難を理解すること だ 。一時バラ色に思えた経済は1980年代末になって崩壊し始めた。とりわけ軍事兵器に 集中して過度に拡大された重工業は、北朝鮮経済崩壊の主な原因となった。  1980年代末に起こった一連の国際的な政治経済的出来事は、北朝鮮経済を事実上凍 結させてしまった。1989年のドイツ統一と東欧諸国の崩壊後、北朝鮮は社会主義諸国 の主要な市場であるコメコンを、失ってしまった。  モスクワも北朝鮮への石油の供給を停止した。北朝鮮の石油輸入量は1986年の32 0万トンから1990年には100万トンに減った。北朝鮮の現在の対外負債額は100 億ドルに達している、これは国内GNPの50%に等しい。結果として北朝鮮の経済はこ の9年間連続して下がり続けている。1997年には北朝鮮経済は1990年の50%に 縮小した。 食料の不足は北朝鮮経済を壊滅へと追いやった。1990代初等に始まった食糧不足は洪 水と毎年の干魃によって、1997年にそのピークに達した。最北部のハムキュン道地域 では少なくとも20万人の成人及び子供が餓死したと推測されている。  1980年代末期からの長い食糧不足は北朝鮮社会にいくつかの興味深い社会経済的な 変化をもたらした。北朝鮮の体制を支えてきた経済基盤はその機能を失い始めた。北朝鮮 経済は雪だるまにたとえることができる、北朝鮮の経済基盤は朝鮮労働党という上半身を 支え続けてきた。うち続く経済的困難は雪だるまの下半身を食い尽くし、当然の結果とし て、上半身を衰弱させた。  別の言い方をすれば、食料不足の影響で朝鮮労働党は、国民に食料や生活必需品をもは や供給できなくなっているということだ。1997年ソウルに亡命した北朝鮮の前書記官 、ホアン ジャンヨは彼の著作の中で次のように述べている。「1996年12月、労働 党の中央委員会は、食糧不足の悪化のため ”来年には3ヶ月分の食料は政府によって供 給され、3ヶ月分は輸入によって、3ヶ月分は自作食料によって、そして、残りの3ヶ月 は個々人の方法によって供給されるとういことになるかもしれない”と公言していた。 統一研究所の セオ ジャエジン博士の最近の研究によれば、北朝鮮の指導者は三つのカ テゴリーに分けられる。 保守派:彼らは概ね社会の最上級のエリートで構成されていて、現実を受け入れるように は思えない。一旦彼らが現実を受け入れれば、それは金正日体制の否定を意味する。それ ゆえ彼らは金正日に対して盲目的な忠誠を示すのだ。彼らは問題をアメリカ、日本、韓国 に責任を負わせることによって、自分たちを正当化している。彼らの職務は議論の余地の ないものであり、同時に失敗することなく成就されなければならない、と彼らは信じてい る。彼らの劣等感が心理学的な代償の必要性に寄与しているようにも見える。この姿勢は 「労働新聞」にも反映している。 楽観派:彼らは経済的困難で国の規制が緩むことによって生じる個人的な利益、を追求し ているようだ。大半の党地方役員及ぶ下級国家公務員がこのグループに属している。彼ら は国家の財産を横流しする事や、闇市場で外貨を手に入れること、そして汚職などによっ て利益を得ている。北朝鮮からの亡命者によれば、政府が供給した生活必需品の80%が 闇市場に流れ込み、残りの20%が一般の市場に出回っているという。 例えばカンオン州の金鉱では毎年10Kgの金を産出している。しかし政府の公式発表で はわずか1Kgが産出されていることになっている、残りの9Kgは着服されているのだ 。亡命者は言っている「全ての北朝鮮人民が飢えのために死んでいるのではない。力のな い労働者と農民だけが死んでいくのだ」と。 改革派:「改革派」という言葉はこの場合意味が少し違っている。北朝鮮の改革派の目的 は現体制を強化するということなのだ。しかしながら、もし我々が注意深く観察するなら 、開放政策が危機を克服する唯一の方法だ、と確信している反体制グループが存在してい ることがわかる。1998年 北朝鮮は私的所有権(24条)、私有財産(33条)、経 済特別区(37条)を認める法律を通過させた。このことは、北朝鮮政府が必ずしも安全 な方 法であるとは言えないにも関わらず、開放政策を試みようとしていることの証である。  我々が考慮すべき事はこれらの逸脱が北朝鮮体制の崩壊を必ずしも生じさないと言うこ とだ。歴史は社会の崩壊は一時的な逸脱によって起こるものではないことを示している。 例えば17、8世紀のロシア王室は常に「我々は常に休火山の上にすわっているようなも のだ」と言っていた。  しかし、ロシア王室が崩壊したのは100年後の1917年だった。日本でも同じだ。 最終的に日本軍国主義体制を崩壊に導いたのは原子爆弾だった。北朝鮮でもこれらの逸脱 は限られた市民と経済部門に見られるだけだ。 90年代に入って北朝鮮社会が80年代に比べより柔軟さと変化を見せたのは間違いない 。しかし、北朝鮮は東欧諸国とは以下の点で違っている。 まず第一に、北朝鮮は1950年以来、一定の距離を中国とロシアから保ち、ほぼ自前の 経済基盤に依拠してきた。二番目に北朝鮮の人々は1960年代以来、体制のプロパガン ダによって精神的に武装している。三番目に地政学的な位置が北朝鮮の孤立を維持し、外 部の情報から隔離している。  それ故、北朝鮮社会では「下からの変化」は期待できない。もし北朝鮮の社会に何らか の動揺があるとすれば、それは金正日に対する「忠誠競争」意外にはあり得ない。「下か らの変化」はほとんど起こり得ない。  金正日は過去5年間、北朝鮮体制を維持する有能な指導者であることを証明してきた。 金正日は彼の父親金日成の死去後も、党と軍部において権威を失っていず、統率力をより 強化している。  また彼は核とミサイル問題に協議をついての継続し、アメリカからの大量食料支援を引 き出すことによっって、外交能力も証明した。さらに彼は地方の工業地帯や軍事基地をし ばしば訪問することによって、庶民の中のリーダーとしてのイメージを確立した。その結 果、北朝鮮の食料不足はかなりの程度軽減され、北朝鮮政府は今年は1990年以来の0 %あるいはプラス成長を期待している。 金正日の「上からの改革」の青写真はすでに概略ができている。金正日は体制の安全と経 済的な利益のために、アメリカと日本との関係改善に力を注ぐつもりでいる。平壌とソウ ルは、経済的文化的交流を限られた範囲内で継続していくことが、期待されている程度で 、それも来年の4月に予定されている韓国の総選挙の結果次第だ。  金正日は、北朝鮮社会を「完全な国家」の旗印のもとに統一していく、と思われている 。彼は、200程度の農場経営者市場を管理することと、資本主義的な雰囲気によって。 人口移動を最小限にしようとしている。また、より効果的な管理のために軍隊の規則を社 会に適用しよと試みている。  その手始めに、金正日は経済問題で限定的な改革と開放政策を用意している。彼は韓国 の「現代」とサムソングループと共同で沿岸地域と国境地域に4−5の工業団地を建設す るはずである。  平壌の支配層が最も欲しているのは、「現金」である。交換可能通貨の不足は平壌を1 997年に決められた「人民5カ年計画」の実施から遠ざけている。この国を悩ませてき た悲惨な経済状況のために、第三次7カ年経済計画(1987−1993)の終了以来、 あらゆる中央計画経済を先送りしてきた社会主義体制にとって、この計画は新しい始まり を示すものなのだ。  平壌が人民五カ年計画を遂行するためには、外国の出資が必要だ。平壌が日本との両国 関係を促進しようとしている主な理由の一つは、それを推進するために、朝鮮半島に対す る残虐な植民地支配に対する日本からの50−100億ドルの補償が必要だからだ。  金正日によるこのような改革へのとりかかりは、北朝鮮専門家の間に議論を引き起こし た。  一定程度の国内改革の約束なしにドル投資と国外技術を提供して、北朝鮮は純粋に経済 を蘇生し再建できるのか? この体制は国外からの投資と、ドルに対する開放によって起 こる外からの影響に、耐えられだろうか?この体制は巨額の軍事予算を民政部門に再配分 できるだろうか?この体制の当局者は外国からのドル投資を引き寄せ、一貫した政策でそ れらを運営していく能力があるのだろうか?  これらの不安と疑問は北朝鮮の政治状況を考えてみれば、あまり意味を持たない。過去 五年間、共産主義体制に対するテコ入れに新しい進展が見られた。例えば平壌は国際機関 から60万トンの食料と50万トンの重油を受け取った。この図式は平壌に加えてワシン トン、ソウル、北京、東京、が北朝鮮の食料エネルギー問題を解決する鍵を握っているこ とを示している。  このように、北朝鮮の開発は三つの要素によって決定される。北と日本の両国関係の発 展、、平壌を引きつけ、取り扱うワシントンの能力、そして北と条約を結ぶ可能性のある 地域に存在する他の国々、がそうである。

結語

過去半世紀、北朝鮮は民主主義の 南に対抗する単なる共産主義者の朝鮮国家から、ミサ イル保有能力と大規模な飢饉によって国際的に物議をかもす国家へと、変化してきた。  私が最初の局面と呼んでいる1950−1993年を通じて、北朝鮮は朝鮮半島を緊張 させる国際的な悩みの種であった。それが1993年になって北が核とミサイルを保有す る可能性あるということが明らかになり、世界の指導国と域内国家間の協調にとって侮り がたい力になった。    ソウルそしてワシントン、東京が核開発能力を持つ北朝鮮との取引において重要な成果 を上げたのは事実である、しかし、新しい問題もまた浮上してきた。ここで、いくつかの 課題とそれを取り除くために我々が取りうる手段を列挙させていただきたい。  関係国家はもはや一件一件、個別に北朝鮮と取引をすべきではない。これはワシントン によって危機管理の方法として採用されてきた方法である。その結果核とミサイルの問題 に優先権が与えられ、経済問題は後に追いやられてきた。  北朝鮮の食料と経済の状況は、より集中的で一貫した態度を必要としている。我々は北 朝鮮に対するより大局的な観点からの経済政策を必要としている。必要な時機よりかなり 遅れたにしても、ペリー報告が書き上げられた事は幸運である。関係国の残された仕事は ペリーリポートに提案されている政策が実行されるように、取りはからう事である。  北朝鮮の二つの核開発凍結の見返りに1000メガワット級の軽水炉二基を建設すると いう、ジュネーブ条約締結以来のワシントンの政策の一貫性はC評価しか与えられない。 合衆国は経済制裁の棚上げと両国関係の改善を約束した。  しかしながら、まだ約束は守られていない。ワシントンは今日までに、二国間の民間電 話回線の敷設とアメリカの市民に北朝鮮でクレジットカードを使わせるということをやっ たにすぎない。金正日はワシントンの「公式な約束」にたいする履行の遅れを裏切りだと 感じたに違いない、それ故に北はクムチャンニの地下施設に関して不満を示し、1998 年8月にはテポドンミサイルを日本近海へ発射したのである。  日本が北朝鮮に提供する大量の海外ドルはどのように利用されるだろうか?北朝鮮の状 況は海外ドルの流入に大きく依拠している。日本は朝鮮半島における残虐な支配の補償と して北朝鮮に対して50−100億ドルの供与が期待されている。  それにひき続き、政府開発援助が予定されている。微視的なレベルでは、もしこのよう な資金流入が行われれば、金正日体制の成功と、衰弱した北朝鮮経済の回復を決定付ける 事ができる。より大局的には日本の円は北東アジア地域における外交上の活力を再形成す ることができるかもしれない。この点を考慮するなら、東京の専門家はこれからの平壌と の二国間関係においてソウルとさらに緊密に相談することが不可欠である。  ソウルは平壌との対話に、より積極的にならなければならない。現在までソウルは北朝 鮮との会談において、朝鮮戦争の離散家族の再会、経済協力、文化交流等を最優先してき た。北側は両国はまずはじめに軍事、とりわけ在韓米軍の問題に取り組むことを主張して きた。  今はソウルがより能動的になるべき時機だ、もし太陽政策が実際にうまく行ったなら、 両国は軍事問題に取り組まなければならない。それ無しには、北朝鮮体制にどんな変化を 引き起こすことも困難だからだ。ソウルは積極的に安全保証問題を議題とした首脳会談の 実施を追求すべきである。 我々は、世界銀行とアジア開発銀行による包括的な経済再建計画の実施を、考慮すべきだ 。国際的な救援機関によって遂行されている現在の経済救済計画は、長期的に北朝鮮を救 済できない。その上、国際救援機関は北朝鮮での仕事に忙殺されており、資金も不足して いる。私は韓国と日本、合衆国が北朝鮮経済再建のために世界銀行からの援助の元「北朝 鮮基金」を創設することを提唱する。  これらの巨視的な計画に加えて、より小さいレベルでは私的部門を育成する計画が必要 である。1998年12月にアジア財団ソウル事務所のキュイノーンズ博士が北京で数十 人の北朝鮮上級公務員に国際商法の講義を行った。二ヶ月後、北は対外取引会社の調停業 務に関する法律を制定した。たとえ平壌が社会経済制度の開放と改革を望んでも、ノウハ ウがないのだ。我々は北朝鮮の高級官僚にその訓練の機会を提供しなければならない。  アメリカの国務省はもっと韓国人の専門家を雇用すべきだ。現在のところ朝鮮部門には 、南北両方の新聞を読んで深い分析を提供できる人間が2−3人しかいない。国防総省に は北朝鮮を扱うCIAと他の機関の間で争いも存在する。  垂直的な統合と意見の集約は政策形成に不可欠である、しかし水平的な経路を通した政 策協議もまた重要である。