桜が咲いた。 そして散った。


私は創り手で評論家ではないので、他の人の映像作品をどうこう解釈する立場ではないけど、

否応なく、作品を観て評価する必要にかられる時がある。

ここのところは、かかわっている映画祭のプログラムづくりのため、作品のセレクションに取り組んでいた。

私の場合、選ぶのにこれといった基準があるわけではないが、「雑な仕事」は受け入れがたい。

自分の中の職人気質が気分を害するのだから仕方がない。

どんなにテーマのメッセージが正しくても、撮影や、編集や、音の扱いがいい加減なものは信じがたいのだ。

別に技術が上手くなければいけない、と言ってるわけではない。

どんな分野の仕事もそうだと思うが、ごく普通に、丁寧に成されている仕事に好感を持つ、ということだ。

ドキュメンタリーです、と立派なことを言っても口先だけのように思える「雑な仕事」「安っぽい仕事」は嫌いだ。


もうベテランと言っていいような年代だから、少しエラそうな言い方をさせてもらうが、

私が嫌いだな、と思うような作品が増えたような気がする・・・何故だろう?

映像の分野も技術革新が進んで、一人で何でも出来るようになったことの欠陥もあるような気がする。

人間そんなにオールマイティーではないのに、無理をし過ぎているんだ。

映像の仕事は、一人じゃ一人前でない奴が、知恵と力を出し合ってやるナリワイだもの。

自分一人では何も出来ない奴。私だからこそ言えることかもしれない、エヘン。


その昔、先輩の映画人たちが「最近は仕事が雑になった」と、今の私同様の嘆き節を繰り返し喋ってたから、

いつの時代も、そんな風に思うものかもしれない。

翻って、この私が丁寧にピュアーに作品を創っているかと言えば、

本当にピュアーに創っている人から見れば、いい加減な奴だと思われているにちがいない。


ゴッホは生前、たった一枚しか絵が売れなかったらしい・・・

私が出逢い、撮影させてもらった洋画家の小堀四郎さんは、90年の生涯、一枚も絵を売らずに描き続けたと言う。

師に当たる巨匠、薩島武治の言葉に従い画壇を離れ、孤高の道を歩み描き続けたのだ。


創る ということと 売ること。

創る ということと 観てもらうこと。


私は自作を「一人でも多くの人に観てもらいたい・・・」と呼びかけ、自主上映を各地の方々にお願いし、

それを糧にして自主製作のドキュメンタリーを創り続けて来た。

ゴッホや小堀四郎さんのように、ピュアーに創り続けて来た人間とは決して言えない。

しかし時々「誰に観てもらえなくてもいい・・・観る人を意識せずに、ただ、自分のために、自分に向けて創ろう」

という思いにかられることもある。

実際には、誰も観ない映画というのはありえないかもしれないが。


ゴッホや小堀四郎さんのような生き方は、きっと出来ないだろうが、

「みんなにデクノボウと呼ばれ、

 誉められもせず

 苦にもされず」

そおいう人に私も、成りたい。

 

デクノボウ

伊勢 真一