こころざしの一端

弓道誌(02/06月号)に池田邦子範士のインタビュー記事の中に「弓道人口15万人・・十分とは言えない」という発言があった。近年、弓道人口の増加と共に、「こころざしの低い弓士はもういらない」とか粗製濫造というような話が見え隠れしていたのを聞き、何を考えているのかと思っていた私としては、ちょっと救われた気がした。前にも書いてあるとおり、広いすそ野がなければ、山の高さは見えてこないと感じているからである。見るべき頂上が低ければ、多少の頂でも高いと感じてしまうのは私だけであろうか。15万の人口で「もう十分」と考える方が「こころざし」の低さを感じさせる。30万の人口になれば、現在最高の弓士と呼べる人が倍、いやそれ以上になると思う。

よい例がサッカーであろう。東京オリンピック、メキシコオリンピックなどちょこちょこと盛り上がりはあったし、個人的に世界に通用する選手はいたが、国をあげて関心を持つようになったのはつい最近ではないでしょうか。(今回のワールドカップは国辱ものだ!腰巾着運営は国賊の仕業!!おっと・・)

プロ化したと同時にユース、ジュニアと言った段階を設定し、底辺の拡充を図った。いままでトップだった選手が引退すると、これらの指導者として若手の指導に当たるという体勢を取れるようになり、いまではかつてのトップ選手レベルではきっとレギュラーになれないくらい総体のレベルが上がっているのではないかと思う。競技総人口が一気に増え、同時に選手のレベルも上がり、素質のある選手をライン上で積極的に発掘する体勢が出来たと言うことである。あっという間に世界のチームで通用する選手が何人になったかはスポーツ新聞などで見るとおりである。多分今一番危機感を抱かなければならない競技団体は野球であろうか。今までは男の子は野球以外あまり選択の余地がなかったのが食われているからね・・。
同じインタビュー記事の中に学生弓道からほとんど移行してくるものがいないという嘆きもあった。高校の弓道部のコーチをして8年。確かに今でも弓を引いている子は1名+仕事でなかなか出来ない子1名の2名である。毎年10人近くは卒業してゆくのだが、こんなもの。

何が悪いか?。
弓道の社会である。高校は高校である種、学校という閉ざされた枠の中で動いている。また一般弓道社会は学生弓道は!という前提で見ているから、何となくお互いに無視し合うような関係というのも多いのではないかと考えられる。射会の時の体のよい雑用係で使うときはニコニコ。でも道場に来れば、高校生は射が悪いだの、礼儀を知らないだの言いように言われてしまう。きちんと指導すればいいじゃないか。この学校ではそうかも知れないけれど、よその学校では違うお約束、ここではここのお約束があるからねと教えればいいじゃないかと思う。普段からの交流がなさすぎるからこんな話にもなってしまうわけである。学校は競技中心。はっきり言って、弓を持ち始めて2年程度で結論を出さなければならないから、練習量も多い割には、主目的にかける時間が異なることも、大人なんだから理解して見る必要があると思う。
ところが中には自分たちがご大層なことをしていると信じ、弓道に練習という言葉はありません、稽古しているなどと宣うから話がややっこしくなる。修行だの稽古だの、そんなレベルで弓引いてる人ってどれだけいるの?。「先生にこう言われたけど、こっちの方が引きやすいし落ち着く」とか言っていること自体、稽古だの修行だのという言葉と無縁だよ。三味線引いて踊り踊って、縦線・横線・矢筋はどこ??、あっちの先生、こっちの先生にふらふらと受け売り弓道ボヘミアン。風に吹かれるのはいいけれど、馬耳東風、どこ吹く風だなんてのが真っ先に宣いたがるんだよね。

さて、こうなると「こころざしの低い弓士」が多いから底辺の拡充に積極的ではない。そんな人たちに教わるから教室もおざなりでアフターフォローもろくに出来ないから定着率が悪い、という袋小路も見えてくる。やっぱり「こころざしの低い弓士はもういらない」は正論であったか・・・

でもお勤めしていると土日は開けておきたい、自分の練習がしたい・・・教室に関わるとそんなことも言ってられないと言うのも事実なんですよね・・・・偉そうなこというわりにはこっちの方もドツボにはまりそう・・・。

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