「1999.12.9(木)」・meet
the Beatles, so good friend of mine
12/8はジョンレノンの命日。日本時間では今日9日かな。
それにちなんで、私とビートルズのとの出会いを少しお話します。
(少しと言いましたが、今日の日記はかなり長くなってしまいました。最初にお断りしときますです。ハイ。)
ビートルズは、最近の若い人達の間でも結構支持があるそうですが、やっぱり20世紀を代表するバンドですな。
私もビートルズファンですが、常々残念に思うことは、ビートルズをリアルタイムで体験できなかったこと。
いわゆるビ−トルズ世代の人達と話す機会があると、よくビートルズについての体験を聞いてみます。
いわく、「最初は好きじゃ無かったけど、イエスタデイあたりから見直すようになった」とか「ローリングストーンズの方が好きだった」とか・・・どれもこれも私にとっては貴重なお話で、いつもうらやましいなあ、と思っています。
私は生まれがビートルズのデビューと同じ年なのですが、本格的に聞き出したのは、中学1年になってからでした。
来日や、解散の時にニュースでビートルズが写っていたのは、なんとなく記憶にあるくらいで、自分で意識して聞いたのは解散後なので、すでにメンバーもソロで活躍していて、特にポールマッカートニーが華々しく活躍しておりました。
ただ、当時解散後といっても、周辺にはまだかなりビートルズの影響は残っていて、兄姉のいる友人宅に行くと、大体部屋にはビートルズのポスターが張られていて、レットイットビーやアビーロードが置かれていたりしました。中に混じって、当時はバリバリフレッシュなレッドツェッペリンの新譜なんかがある家もあったり。
さて、中学時代私は野球部に属していたのですが、部活でも先輩達が話題にするミュージシャンはビートルズ。
中学に入ったらビートルズを聞き、ギターを弾く、というのが、なんとなくお決まりというか、ステータスというか、そんな雰囲気が周辺には漂っておりました。
友人の誰かしらは、ビートルズのレコードを持っていたので、カセットに曲を録音してもらったりすることができました。
私も、そんな周りの友人や先輩の影響を受けて、例にもれずビートルズを聞きはじめます。
今でも折に触れ聞きますし、いろんな面でかなり影響を受けたな、という気はします。
* * *
そんなわけで中学でビートルズとの出会いがあったのですが、よく考えると実はもうちょっと前に、あるビートルズの曲と、深い出会いをしていたのです。
小学校4年にまで、それは遡ります。
小学校4年になって、どういうわけか私は、半ば強制的に鼓笛隊なるものに入部させられました。
その少し前、やはり半ば強制的に合唱部なるものに入部させられましたが、先生の「やる気のないやつは勝手にやめるがいい」の一言で、すぐに退部してしまいました。
鼓笛隊のほうの先生は、その一言を言わなかったばかりに、結局卒業まで私は鼓笛隊に属すことになります。まあ、今にして思えばいろいろ楽しいことばかりで、良い思い出でした。
ちなみに私のパートはテナードラム。ぶっちゃけて言ってしまうと、「中太鼓」です(当時もそう呼んでいました)。
一応パーカッション担当ですな。
この鼓笛隊ですが、普段は朝礼や運動会で行進の伴奏なんかをやっているのですが、年に一回(だったかな?2回かもしれないが、古い話なので忘れました)、発表会のようなものに参加していまして、それは「マーチングバンドフェスティバル」と称して、隣の大都会(我々の田舎から見れば)静岡市で開催されいてるイベントでありました(まだやってんのかな?やってたらカンゲキだけど)。
このフェスティバルの課題曲として、ある曲の譜面が我々に渡されました。
作曲者の名前には 「レノン/マッカートニー」という見慣れぬ名前が書いてあり、「なんじゃ外国人の歌じゃん」などと思ったものです。
ただメロディはどこかで聞いたことがあって、どうやら当時日本人がカバーしていて、そこそこヒットしていたようで、それが耳に残っていたのかもしれません(フォーリーブスだったかな?忘れた)。
明るくて親しみやすいメロディで、曲の題名も、おまじないの言葉みたいなので、私はてっきり子供向けの童謡のような歌で、この「レノン/マッカートニー」という人は、子供向けの歌専門に書く童謡作曲家なんだと勝手に思い込んでいました。
しかし、どうやらこれは、ビートルズの歌らしいことが、後に判明。
先生は殊更ビートルズの曲だということを強調していなかったように記憶するので、単に当時の話題の曲を演奏するというような認識だっただけなのかもしれません。
兄姉のいる事情通の友人によれば、レノン/マッカートニーは、ビートルズのジョンレノンとポールマッカートニー、さらにビートルズには、ジョージハリスン、リンゴスターなるメンバーもいること、等が次第にわかってきました。
さてこのある曲とは・・・
題名は「オブラディオブラダ」という曲です。
この曲は私が鼓笛隊でアンサンブルとして演奏し、初めて充実感を覚えた曲で、そういう意味では思い出深い曲です。
以後この曲は我が鼓笛隊の十八番になります。
ビートルズのオリジナルのほうはホワイトアルバムというアルバムに入っていて、後年このアルバムを入手して聞いてみれば、オブラディオブラダは子供用の歌でもなんでもなかったのがわかり、またビックリ。
中学に入ってからはビートルズをギターで弾いたりするようになったのですが、それ以前に無意識的にすでにビートルズの曲を自分が演奏していたなんて・・・今考えると不思議な感じです。
ところでフジテレビの「ごきげんよう」という番組で、最初に自分で買ったレコードというのをやってますが、私の場合シングルレコードは、これはビートルズでは無かったのですが、カーペンターズの「ジャンバラヤ」。
アルバム(当時でいえばLP)はビートルズ、「サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド」。
もちろん今でもとっておいてあります。
* * *
さて、こう書いてくると私と洋楽との出会いは、ビートルズ、カーペンターズ、あたりということになる、と思われるかもしれませんが、振り還るとまだ以前に出会っていた、洋楽が実は1曲ありました。
時はさらに小学校入学以前に遡ります。
ほとんど物心つくかつかないかの時期ですが、実家で当時嫁入り前の叔母が実家の一部屋を改造し、そこで美容室を営んでおりました。
そこに一台のステレオが置いてあり、なぜかラテン系の印象的なフレーズをもった曲がよくかかっておりました。
「オー−アーリーアーアーヨ、オパ、オパ、オパ」・・・、
なんかよくわからない言葉だったのですが、後にわかりましたけれども、どうやらポルトガル語だったようです。
この曲はずっと私の脳に無意識に入り込んでいまして、今から考えるとこの潜在意識に刻まれたラテン系の音楽が、後の私の音楽的指向性に多大な影響を与えていたような気がしてなりません(特にバックのピアノのかっこいいフレーズ)。
もし、この当時に美容室で流れていたのが演歌だったら・・・私の人生は、また大きく違ったものになっていたでしょう。
そういう意味では、この曲も私の人生では非常に大きな意義をもった曲です。
大人になってから、この曲を偶然どこかで聞いて、非常に懐かしい思いが蘇ってきて、これを是非聞きたいと思い、それから現在のブラジル音楽にはまるキッカケとなった曲であります。
その曲とは・・・
題名は「マシュケナダ」という曲。
歌っていたのはセルジオメンデスとブラジル66。
オリジナルはジョルジベンという、やはりこれもブラジルのミュージシャンの作品ですが、当時日本ではこのセルジオメンデス盤が大ヒットしていたようで、実家でも当時のはやりで、このシングルを購入していたようです。
私の洋楽人生の出発はこの「マシュケナダ」にあり・・・
というところで今日は長くなりすぎたので、この辺でおしまい。 |