Diary4(1998.11.4〜1998.12.12)


「1998.12.12(日)」・写真をプリント
エプソンのPM2000Cというプリンタを購入することができました。上位機種のPM3000Cというのが出るので、ちょっと、はやまったかなという感はあります。それにしても実際印刷してみたら、確かにここまで来てたのか・・・という感じでした。さすがにまだ写真とそっくりとはいきませんが、もう普通の印刷物に掲載する写真画像としては全然問題ないと思います。家庭で今までの写真並みのプリントが作れるのも、そんなに遠く無いでしょう。デジカメもかなり進歩したし、O157の遺伝子のナントカカントカ(良く覚えて無いスイマセン)がわかったというし、こういう時、やはり人間の築きあげてきた文明というのも大したもんだと思います。自然を大切にするのは、もう当然のことでしょう。今までの人間の築き上げて来た物質文明もそれはそれで、価値のあるものだと思います。ですからそれらのうち残していくものは残して、自然との両立を何とか図っていくのが人類の課題ではないでしょうか。なんか話がプリンタから大きくなりすぎましたね。



「1998.12.11(土)」・飛び出しちゃダメ!
多摩川沿いを自転車で走っていたら、前方に数人の親子連れがいるのが見えました。そしてお約束のように、その輪の中から小さな子供が私の進路を遮るように飛び出してきました。まだ距離があったし、私もスピードを出しているわけではなかったので、特に危険な場面ではありませんでした。私が気になってしまったのはその時のその子の母親と思われる若い女性の発言でした。その母親は子供がサッと飛び出そうとした時、「飛び出しちゃダメ!」と叱責のような形の注意を子供に与えたのです。それを聞きつつその輪を通り過ぎた私は「ちょっと違うな・・・」と思いました。天気の良い河原辺りで子供なら、友だちもいるしはしゃぎたいところでしょう。それにそこは遊歩道なので、迷惑をかけない程度なら走り回るのもありでしょう。私が母親なら「(道を渡る前は)危ないから左右を見なさい!」もしくは「自転車が来てるから、注意しなさい」と言いたい。先程の母親に叱責された子供はいきなり全行為を否定され次第に何をするにも畏縮してしまうか、もしくはひたすら反発してしまうんではないでしょうか。細かいことかもしれませんが、こうした積み重ねが子供の心の傷を次第に深くしていくのではないでしょうか。ま、私は子供がいないのでこんなことを言う資格はありませんので、今日はこの辺でやめときます。

「1998.12.9(水)」・次の舞台

東京に来てかれこれ16年程立ちます。最近ちょっと感じ始めたのですが、「仕事でしばらくいることになった場所、あるいは居住することになった場所には、必ず以前に、偶然もしくは無意識にすでにそこを訪れている」、ということです。16年もいれば東京の大体は行ったことあるだろうと、言われそうですが、なぜか仕事などで行った場所について「そいうえばいつかここへ来たっけな」と思うことが頻繁にあるからです。それがどうした、と言われればそれでおしまいですが、逆に現在無意識に行った場所、知らず知らずに行った場所が、未来の自分の活動拠点になる、と考えたら結構面白いかなと思ってます。そういえば全然関係ないけどジョンレノンが亡くなってもう18年も立ちました。



「1998.11.22(日)」・ギターはF

・いわゆるフォークギターを練習しようとしている初心者が、最初に壁にブチ当たるのが「F」のコードを押さえる時だと思います。このFコードは曲者で、頻繁に出てくる割に結構押さえ方が難しいのです。ギターを志す者が絶対避けて通れない関門です。やってみた人は分かると思いますが、まず人さし指で6本の弦を全部押さえ、中指・薬指・小指もそれぞれ使って三角形のような形に弦を押さえます。これが初心者には指に力が入らずうまく押さえられません。どれかの指に力が入ると、どれかがおろそかにになり、どうしても奇麗な音が出ません。大抵「パフっ」というような鈍い音で終わってしまいます。これが何度も繰り替えされると結局堪忍袋の緒が切れてしまい、ジャーンと解放弦に思いっきり怒りをぶつけた後、ギターは家の飾りへの道を辿っていく運命となります。Fでつまづいた人は楽器嫌い、ギター嫌いの道を辿り、Fを克服した人はその後の素晴らしい世界を享受する第一歩を踏み締めることになります。まさにFがその後のその人の音楽人生を決定づけるのです。
 ですから逆に考えると、ギターはとにかくFさへ克服してしまえばいいのではないかと私は思います。Fが出来ると、途端に世界は広がり、その後にはFより少しやさしいF#mやBm等も我々を快く待っていていてくれています。私はギターの達人でもなんでもないので、こんなことを言うと、プロやギターの上手い人からは、何をいっとるかと言われそうですが、ギターはとにかくFを押さえるのに全力をつくせ!と言いたい。



「1998.11.15(日)」・ノストラダムス

・伝言ゲームをやると、たった数人に伝えただけなのに、既に伝えられた情報は発信元の情報と食い違っていたりします。これは口伝というのがあやふやなものであるということを教えてくれます。情報というのは、よほど注意を払わなければ正確には伝わらないものです。普段私達が受け取っているマスコミ等からの情報も全て正確とはいえません。ですからそれを鵜呑みにしてしまうのは馬鹿げたことだと思います。聖書やお経にしても、只でさえ古い文献である上に、それが翻訳された時点で私達が受け取ることのできる内容は、既に最初の意味とは食い違っていることもあるのではないでしょうか。
 私が小さい頃「ノストラダムスの大予言」がはやり、ショックを受けた記憶があります。ノストラダムスはアカシックレコードと呼ばれる地球の記憶の図書館のようなものを霊的に感じ取ることができたようで、そこから予言の元になる情報を得たと言われています。ただこの時点で既に元の情報と認識が違っている可能性がないとはいえません。さらにノストラダムスの書いた本を翻訳することで、また違う認識になり、さらにそれを解釈する本を書くと、その作者の認識が加わり、大元のアカシックレコードとはだいぶ内容が違ってくる可能性があります。さらにそれをマスコミが商業主義的なやり方で情報を流すと、当初のものとはかなり食い違っていてもおかしくありません。私は今出ているノストラダムス解釈本はほとんど信じることはできないと思います。ノストラダムスが伝えたかった本当のところを、知りたければ、自分でアカシックレコードをみるべきだと思います。それが無理ならノストラダムスの書いたものそのもを読むべきだと思います。慌てるのはそれからでも遅くはないと思います。ノストラダムスを悪く言うつもりは全くありませんけれど、ノストラダムスは我々と同じ人間であり、我々を脅そうとするつもりはなく、只自分が受け取り必要に感じたことを記録しただけだったと思います。どうも一部の人達はノストラダムスをだしにして我々を脅して、我々の生命力・パワーを吸い取ろうとしているように感じます。疑問に思ったら自分の目で確かめてみて、本当にそうだと思ったらそれなりの対処をすればいいと思います。ノストラダムスの解釈をしている人は自分がまずアカシックレコードを確認してから、その真偽を世に問うべきだと思います。今の状態は伝言ゲームで間違った伝言を聞いてパニックしているような感じに思えます。今は世の中がどんどん悪くなってるかのように言われていますが、それはマスコミ等の情報で、世界のいろんなところではもしかしたら何か新しいものが生み出されているかも知れません。マスコミはとかく悪い所に焦点を当てたがっていて、もちろんそれは病気と同じ意味で自分達の悪い部分を見直す為に必要なことだと思いますが、その情報がこの世の全てと思ってしまうほうが、地球の滅亡より危険なことかもしれません。
 うーんちょっと最近硬いかな・・・



「1998.11.14(土)」・ハードルと小石

・物事を行う時に邪魔が入ったり、うまく行かなかったりする場合があります。私は今までこれは試練だと思い極力抵抗、克服するように心掛けてきました。しかし最近思いはじめたのは、この抵抗は無駄である、ということです。試練と言うのはそれを克服することによって何かしら進歩があります。ところが同じ不愉快な思いを幾度となく繰り返すだけで何も状況が変わっていない時があります。この場合それは他の道も考えてみろというお告げなのではないでしょうか。ですから私なぞはここ最近何かしようとして不愉快な抵抗にあった時は、タイミングを変えるかもしくは中断することにしています。ハードル競走をする時に、ハードルが障害であることはもちろんですが、トラックの小石にもつまづく時もあります。そんな時いつまでもトラックの小石にかかずりあっているのはあまり賢いやりかたではないと思います。ここで問題になってくるのは、ハードルと小石の見分け方です。私達の日常はほとんど障害だらけでそれがハードルなのか小石なのかは、ほとんど判別がむつかしくなっています。一つの方法は、やはり経験を積むことで、自然に道の状況が見えてくるようになるまで鍛練を積むことです。しかしそれまではたくさんの小石にかかずりあうこともあるかもしれません。もう一つの方法は肯定的な考え方をすることではないでしょうか。否定的になってる時や後ろ向きな時はとかく小石に全勢力を傾けたくなりがちです。その上ハードルが超えられない理由を小石のせいにしたくなりがちです。でも前向きな時はハードルに神経が集中しているので、小石につまづいても、すぐ対処方法が浮かんできたりするものです。人それぞれ生き方は自由でどんな生き方をしてもいいと思いますが、肯定的な発想をしていると結構同じことにあたっても楽しめることができるということが、ようやく最近実感するようになってきました。



「1998.11.10(火)」・ヘイジュードのヘイ

・最近サザンオールスターズの最新アルバム「さくら」をウォークマンで聞いています。改めてサザンの音楽性の高さを感じていますが、只長くやってきて年季でそうなったわけでなく、彼等は元から持っている素地が他のバンドとは一線を画していたような気がします。今の日本のバンドでサザンの境地に達することのできるバンドはそうはないと思います。今のバンドですぐれているのはMr.Childrenあたりでしょうか。
 アイドル系の男性歌手はあまり突っ込んで聞くことは無いのですが、DA PUMPは結構面白いなと思います。ZOO無き跡(?)もう一皮向けて、ファンキーなダンスユニットを目ざしてほしいと思います。
 ところで、ミスチルやサザンが他のバンドと違うなと思うのは、彼等のサウンドが聞こえてくると、ハッとするというか、オッと思うと言うか思わず聞き入ってしまう何かがあることです。私が思いますに、人間にオーラがあるように、音楽にもオーラというか、その背後にある見えない荘厳さみたいなものがあるのではないでしょうか。名曲というのはきっと立派なオーラが輝いているような、そんな気がします。ビートルズの、ある名曲について、ある本に書いてあったことで、私も全く同感だった話しがあります。それはビートルズの中でも屈指の名曲で私もとても好きな歌「ヘイジュード」についてであります。あの歌はポールマッカートニーが当時親の離婚等で失意にあった、ジョンレノンの息子ジュリアンを励ます為に書いた曲だと言われていて、ジョンも大変気に入っていたようです。ヘイジュードは当時としてはめづらしいシングルで7分という長さや、ポールのピアノでの引き語り、曲の半分からガラッと曲調が変わってしまう展開、後半のコーラスとポールのシャウトとの掛け合い等、後のミュージシャンに影響を与えたようないろんな特徴がありますが、印象的なのはポールの歌で始まる「ヘイ・・・」というイントロです。ある本に書いてあったのは、この曲は、このポールの「ヘイ・・・」で全てが決定してしまう、ここだけを聞いただけで聞くものをとらえてしまう、ここだけで、名曲とわかってしまう、というようなことでした。このポールの「ヘイ・・・」には大袈裟に言うと音楽の神(ミューズ)が宿っている、そんなところでしょうか。人間の声というのも、オーラというか魂が宿るような気がします。歌がうまいというのは音程が良くて、声がいいだけでなく、やっぱり魂が宿っているのが、うまい人だという気がします。名曲も魂が宿っているのがきっと名曲といわれる曲なのでしょう。私の中で名曲というと沢山あってきりがないのですが、どちらかというとやはり少し古い洋楽が多いです。パッと思い付くのは、BJトーマスの「雨にぬれても」、ロバータフラックの「やさしく歌って」、ギルバートオサリバンの「アローンアゲイン」、カーペンターズの「オンリーイエスタデイ」、セルジオメンデスの「愛をもう一度」、イーグルスの「我が愛の至上」、ビージーズの「メロディフェア」、サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」、シカゴの「愛ある別れ」フランクシナトラの「夜のストレンジャー」、ジャズではガーシュウインの「私の彼氏」「いつの頃から」・・・やめた、キリがないや・・・。


「1998.11.7(土)」・色褪せていかない記憶
・おじさんが、年の離れた若い人に対して、つい若い人が知らない時代の昔話を得意気にしてしまい、ひんしゅくをかってしまうことがよくあるかと思います。しかしこれは私としては同情してしまう話しであります。実は私もよくやってしまうのですが、おじさんにとっては昔話ではなく、その話はおじさん的にまだ全然イケテル、色褪せていない話なのです。
 私の個人的な感覚ですが、いつ頃からになるでしょうか、おそらく中学か高校位からだと思いますが、自分の体験したことのイメージが鮮明で自分の中ではあまり色褪せていかなくなってるような部分がでてくるのではないかと思うのです。例えば若い人には、また古いことをと思われそうですが、歌手の松田聖子なんかは、私の中では未だに新しく出て来た人のイメージが強いのです。極端に言うとスピードやモーニング娘も松田聖子も私の中では新参枠の中にいる同類のイメージです。私の中では古い歌手の枠にある美空ひばりについて、御年配の方が語る感覚は、きっと私が松田聖子を語る感覚と同じ時代感覚なのだと思います。
 この感覚を覚える年は何歳位からなのか、今のところはっきりしません。、小学生あたりの体験はさすがに昔だと感じることは多いです。私の小学生の時はフィンガー5や西城英樹等が全盛でしたが、さすがにもう昔のことだという感覚があります。お笑いではドリフの全員集合が人気でしたが、やはり昔だなという感じはあります。中学生の時はピンクレディに、はまったりしましたが、ちょっと昔かなという気はします。でも中島みゆきなんかヒットしてたな、と考えると何となく新しい気はします。高校位からはもう完全に新しいイメージが根付いて「記憶の非磨耗化」が始まり、高校以降の記憶はあまり年代を感じることが少なくなってきます。漫才ブームやタモリ、とんねるず等は私の中ではニューウエイブです。小学生の記憶の方が単純に古いから今はそう思うんだよという人もあるかもしれませんが、高校時代の記憶もそろそろ色褪せていっても良さそうですが、今後そうなる気配はなさそうな気がするのです。
 なぜこんなことを思ったかと言うと、この間自分の中での名曲を選ぼうとしてた時、はずせないなと思ったのがビリージョエルの「素顔のままで」という曲なのですが、私の中でずっと色褪せない新しい曲だったこの曲が、初めて聞いた時から、気がついたら何時の間にかもう20年もたっていたことに改めて愕然としたからです。中学生の頃エルヴィスプレスリーを聞き、もちろん古い昔のアーチストとして聞いていたのでありますが、ちょうど当時はプレスリーの全盛時から20年位たっていたので、インターバルは今となっては中学の時のプレスリーと現在(1998年)からビリージョエルを振り返る長さは同じになっていたわけであります。ところが私の中ではプレスリーは古かったけどビリージョエルは全然そうは思えないのであります。これは音楽の質の問題ではなく、その体験を私がどの時代にしたかによるものであります。ビリージョエル自身はもちろんどんどん年をとっていくので、もうすっかりおじさんですが、言ってみればそのビリーは私の中でのビリーとは別人です。私の中のビリージョエルは「素顔のままで」の時からピタリと年をとるのをやめてしまっているのです。
 こういった現象が起こる原因は、もしかしたら、私の中の眠っていた何かが高校生くらいになってようやく起きて目覚めたからなのかもしれないのです。全てそうではないにしても、昔の体験というのは普通年と共に色褪せていくと思われていますが、ある領域の体験は時の流れが止まったかのように色褪せていかないものがあります。私の場合音楽にその感覚が強いです。そしてそのある領域の話を若い人に得意げに話してしまうと、なに古い話してるんだろ、と思われてしまうので要注意です。
 やれやれ今日はちょっとむずかしかったかな・・・


「1998.11.4(水)」・謎

・最近ようやく晴れの日が続くようになり、気分は上々です。ところで常々不思議に思うことは、なぜ空は青いのか?ということです。何を今さら子供じゃあるまいし、と思われるかもしれませんが、よくよく考えると、おかしいことだらけです。きっと科学的に言うと大気に太陽の光が反射して青く見える、という説明がなされるでしょう。でもそれなら「じゃ、空って大気なの?」ということになってしまいます。「青い空」の青い部分が大気なら、青い空は結局「大気」のことになってしまいます。でもやはり、空というのは、いわゆる天というか宇宙の部分を指している、と誰しもが暗黙のうちに了解しているはずです。結局、科学的には空が青いのは、宇宙を太陽の光を通して見た場合青く見える仕組みになっているから、ということで落ち着いてしまいます。これだけだと私の疑問は解けません。
 科学的説明というのは、「どうしてあなたの服は青いのですか?」と聞いた時に「青い染料で染めているからです。」と答えるようなものです。答えとしては「青い色が大好きで青い服しか持って無いのです。」とか「青が私のラッキーカラーなのです。」という答えも欲しい訳です。空が青いのは、きっと何か理由があるはずです。空は青じゃ無いといけないはずです。空が赤かったらどうでしょう。空が黒かったらどうでしょう。空が緑だったら・・・等と考えていくと、周りのもの全てが必然性をもって存在しているように思えてきます。と同時に私の頭の中はいっそう?マークで一杯になるわけであります。


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