Monologue32 (2000.8.20〜2000.8.23)

「2000.8.23(水)」・こんな音楽だから

 僕はどういうわけだか、さびれた商店街や、街道跡、かつて隆盛を誇った都市の跡・・・などが好きで、そこに哀愁の美を見いだすのが楽しみなのであるが、実際のところこれらの街等の風景のみだと僕の美学は完成しない。
 できればそこでは音と映像が一体となった情景があってほしい。
 つまりそれらを眺める場合にBGMがほしい。

 そこにマッチする音楽はどういうものかというと、これはもうやはり隠れた名曲が適している。
 それも儚く切なく美しい曲なら尚良い。

 哀愁の街の風景に良くマッチ(シャレじゃないスヨ)する曲としては、いろいろあるが例えば、
 ・「パーフェクト・ストレンジャー」ニール・セダカ(「STEPPIN'OUT」)
 ・「きみの愛のために」ポール・サイモン(「時の流れに」)
 ・「フォーマイレディ」ムーディー・ブルース(「セヴンスソージャン」)
 ・「別れの旅」イヴァン・リンス(Brasil)(「ある夜」)
 ・「セルタネージャ」イヴァン・リンス(「ノーヴォ・テンポ」)
などがある。
 これらは外国の曲であるが、最近の日本では
 ・「耳をうずめて」キリンジ(「47’45”」)
なんかも実に良い。

 基本はとにかく美しいメロディがあることであるから、隠れているといないとに限らず、いろんな美しい曲を哀愁の情景にのせて聴いてみるというのも、それでまた一つの楽しみなのである。

 なんかマゾっぽくてオカシイかな?

 しかし良く考えてみると、音楽が生まれてくるのが、こういう経過を辿ることなのでは無いかという気がする。
 要するに哀愁の情景があると、そこから美しい音楽が、儚い音が自然に生まれてくるのだ。
 僕はたまたま自分自身の音楽を表現する術を持たぬが故、そこにうまくフィットするような他人の音楽を借りて来て当てはめているのである。

 結局僕がなぜ哀愁の街が好きなのか、これこれこうだからなんですよと、あれこれ言葉重ねて説明するよりも、このような音楽のようだからなんですよ、というほうが随分と早そうなのである。

「2000.8.22(火)」・今日の番組から

 本日は以下のテレビ番組が心に残りました。

・NHK「プロジェクトX」
 ハワイに日本が建設設置した世界有数の天体望遠鏡「すばる」ができあがるまでに、それに携わった人達のことを描いたドキュメンタリー。
 夢を追い、それを諦めずにやり遂げた人々の姿に、いたく感動。

・NHK「ETV2000」
 「いまクリエイティブとは何か」と題して送るシリーズ二日目。
 糸井重里氏と井上陽水氏の対談。お二人の会話の面白さと、自由・自然さ・気楽さに、感心やら納得やら。

・TBS「タモリのジャングルTV」
 「岡村亭」に100円料理「しゃく汁」を作りに出てきた、釈ちゃん(釈由美子)。
 天然釈ワールドにすっかり魅了される。釈ちゃん最高!、面白すぎるぞ・・・

・テレビ朝日「トゥナイト2」
 人気新人AV女優、結城杏奈嬢の激動の人生を追う。
 父親の失踪、残された母と8人兄弟のホームレス生活、父の残したあまりにも多額の借金、それから風俗嬢を経て現在のAV女優に至るまでの経過を知り、これまた感動。
 彼女がこの職業を選択したことを、我々に非難・中傷する資格など微塵も無いことを痛感。
 と同時に今でも時折AV等に投資してしまう僕は、もしかしてこんな彼女達の役に少しは立っていたのかなと、ちょっぴり自分を正当化したくなる。更にそれは、もしかしたら健康保険料を払っていることなどよりも、ずっと世の役に立っていることなのではないかとさえ思えてくる。

「2000.8.21(月)」・夢浪漫担当

 以前TBSの「回復!スパスパ人間学」で「女の脳・男の脳」と題して、その違いを探求するような内容のことを放送していたということを書いたが、その時の話題で他にも面白いものがあった。

 元来誕生時から、男性は右脳、女性は左脳を発達させて誕生してくるそうで、その違いは子供時代の遊びにも現れるらしい。イメージや創造を司る右脳が発達した男性は「モノ」に興味が沸くので、怪獣や動物の人形などの収集癖が出てくるそうである。片や言語や思考を司る左脳が発達した女性は「ヒト」に興味がいくのでママゴトなどの人間関係を反映したような遊びに興味がいくそうである。
 女性が図形的なイメージ感を必要とする地理感に欠けているというのは良く聞くが、片や言語感覚が発達しているので、言葉には敏感で英会話などの言語習得能力も女性の方が高いそうである。そういえば「お笑い」の微妙な間や言い回しに敏感に反応してくれるのも女性の特徴のような気もする。

 男性は全体的イメージを把握するのが得意なのだが、割と細部には目がいかない。女性は細部の把握には長けているそうである。
 ある部屋に入ってその中の情景を記憶してもらった時に、そこに何があったかは、女性の方が良く記憶できているらしい。女性の方が昔の細かいことを覚えていたりするのも、これによるらしい。
 車を運転する時に男性は視線が一点からあまり動かないのだが、女性は上下左右いろんなところに視線がいく。

 男性は全体的な構成や方向性を考え総括・把握する作業を行う一方、女性は細かなニュアンスをとらえ細部にまで目が行き届くというのも、こんな左脳と右脳の発達の違いからくるらしい。
 ちなみに女性は男性の浮気を敏感に察知するのもこんな能力があるかららしい。女性は男性が想像している以上に細かな点に着目しているらしいので、男性陣は女性を侮ってはいけない。
 浮気とは関係ないが、僕自身も以前、自分すら全く気にも留めていなかった僕のネクタイの柄を、女性が良く覚えていたりチェックしていたりするのに驚いたことがある。

 会話をする場合、男性はそこに展開・結論といったストーリーを求めるが、女性は言語感覚が敏感な為、会話すること自体を重視し、それ自体に意味を求めるらしい。それがストレス発散にも繋がり、それ故喫茶店や電話等で長話などができるらしい。確かに僕なぞは意味の無い会話は極力避けたいと思っているので、女性にモテタイと思う場合は、そこは譲歩しなければいけないなとも思う。

 以前別のテレビの番組で、女性は冷蔵庫に食物以外の物も格納するというのをやっていて、随分妙なことをするものだと思っていたが、これは良く考えたら大変合理的な発想だということに最近気がついた。
 例えば薬品やカメラのフィルムの類いは、温度や湿度の変化によって変質してしまう可能性がある。しかし冷蔵庫に保存しておけば、その恐れは少ない。そこで僕もようやくそれに習い食物以外のものでも冷蔵庫で保存するようになった。
 このような生活における合理的発想や、一日何円で過ごすといったような細かい節約の感覚や、ちょっとした生活の智恵などというものも女性は強い。これも僕には欠落した感覚である。

 もちろんこれらのことは一般論で、なをかつ個人差があるので男女全てがこうとは限らないし、男性でも左脳の発達した人、女性で右脳の発達した人だって沢山いることであろう。

 ところで僕の部屋を見渡すと、モノが雑然と置かれ、行き当りばったり感覚満載で、生活の智恵のカケラも無い。

 じゃ、僕自身は一体何が欠落していないのか?
 僕の部屋を見渡すと生活の智恵こそ無いが、そこら中に本やビデオなどのコレクションがある。
 マイケルジョーダンのビデオだったり、今では見向きもされないアーティストの音楽ビデオ、もちろんエロビデオもあり性的楽しみもチョッピリ(?)ありそうでもある。
 それから古いマンガや超古代文明や精神世界の本があるかと思えば、一応文学的な本もある。
 音楽ならば、クラシックからジャズ、ポピュラーなど、僕の感性を育んでくれた愛すべき音楽が沢山ある。

 これらを眺めていると、夢・浪漫などという単語も浮かんでこなくは無い。

 生活の智恵は誰かに担当してもらい、夢・浪漫は僕が担当、そんなちょっとキショく馬鹿げたことなんぞも考えて、ニタニタしているような今日此の頃でもある。
 

「2000.8.20(日)」・ヤツとの関係2

 数回にわたってお送りしてきたヤツ(ゴキブリ)に関する考察(?)の完結編(?)。

 今回はヤツの存在意義とその携えるメッセージについて考えてみた。

 ここでいきなり大上段にでるが、ヤツは「神の使者」としての使命を帯びている。
 それは、人が「恐怖」に対してどういうリアクションを取るかということを、各々に知らしめるという目的をもって出現するということなのである。

 え?あれだけヤツを毛嫌いしていた僕が、なぜヤツ寄りの発言を?と思われた方もあろう。
 確かにヤツは、今風に言えば「キショイ」(気色悪い)。今でももちろん好きでは無い。
 しかし世の中には、一見悪びれた態を為してはいるが、例えば反面教師のように、その醜態を目の当たりにさらすことで逆に向上心を目覚めさせ魂の自覚を促す為に、神が派遣したような存在も確かにあることはあるのである。
 ヤツはまさにそうした悪びれた神の使者なのであーる。(ヤツをこんなに誉めるのもアップアップで辛いですな、全く。)

 ヤツに対してとったリアクションは、一見各々に必然性があるかのように見えるが、実はいくつかの選択肢の中から無意識が、今までの生活環境や学んできた社会常識などを基盤として、それに基づき瞬時に各々選択しているものである。

 ヤツに対しての反応は、当然人によって異なる。
 僕のように過剰に脅える反応を示す人間もいれば、全く意に介さず泰然自若としている人もいる。

 小さい頃家族が夜テレビを見ている場に、突如ヤツが出現したことがあった。
 子供たちはパニックして上へ下への大騒ぎを繰り広げる中、父親だけはパンツ一枚でねそべりながらナイターなんぞを見続けていた。
 そのうち荒れ狂うヤツが部屋中を飛び回り、やがて父親の足にとまった。
 子供たちは悲鳴をあげつつ、父親にその旨を指摘するが、父親は、それがどーした?という感じでナイターからは絶対視線をそらさなかった。ヤツは尚も父親の身体探検を続行し、脇腹・背中といった方面にまで足をのばしてきた。子供たちは父親に逐一その状況を報告するが、父親はその報告を無視し続けた。やがて、その度重なる報告に業を煮やしたのか、返事をする代わりに、長く大きな音の屁を一発放屁しただけであった。
 その間父親は片時もナイターから目を離すことは無かった。
 熱血ドラマ風に言えば「自分のナイターへの熱い思いは、外部の何者にも邪魔されやしない。たとえそれがゴキブリであろうとも!」という感じであった。

 父は自分の嗜好を貫いた。
 ヤツによって自分の人生の時間を損なわれ、楽しみを奪われるということは決して無かった。
 父はナイターへの忠誠を貫いた。
 父とナイターとの友好関係はヤツによっても何ら損なわれることが無かった。

 結局ヤツに対するリアクションは、我々の自由なのである。どういうリアクションをするか、それはひとえに我々の自由意志の判断にのみかかっている。
 ヤツによって、我々はいろいろな関係・態度を試されるのである。
 ヤツは我々に対して、意志の強固さを確認してくるのである。

 これは教会の結婚式で新郎新婦に永遠の誓いを確認する神父と同じ業務をこなしていると言って良い。ヤツは神父さんと同業の士だったのである。
 ヤツも神父と同じように神に仕えるものだったのだ!(この辺の論理展開、実にスムーズね・・・?)。
 ヤツは我々に問いかける。
 「アナタハー、ワタシガデテキテモー、ソノツヨイイシヲー、カンテツスルコトヲー、チカイマスカー?」。
 いままでの僕だったら、「チカイマセンー!、ソレドコジャアリマセンー!、ギャー!」。
 しかしこれからは強固な意志を持ちたい。できれば放屁などによって、その強固な意志の表明をしてみたい。
 男らしく断固とした態度で意志を貫きたい・・・、いや、なるべく貫きたい・・・、いや、貫けたら貫きたい・・・(オイオイ、だんだん自信無くなってるじゃねえか)。

 ゴキブリ如きで壊れるものがあれば、それは最初からその程度のものなのである。
 例えばゴキブリが原因で壊れた恋愛などがあれば、それは、はなからその程度のものだったのである。

 以上偉そうに述べてきたが、僕はヤツに対して正直「むやみに意志の強固さを確認しにくんじゃねえ!」との念を抱き続けている一方、ヤツの出現が今後二度と無いことを切に神に祈り続けている次第である。
 

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