Monologue31 (2000.8.11〜2000.8.19)

「2000.8.19(土)」・ふるさと雑感

 お盆で帰省した際に実家の所在する焼津市近隣の静岡県清水市を少し歩いてみた。
 清水市は椎名林檎が小学校時代に居住したらしいということで行ってみたが、実際に林檎嬢が住んでいたという静岡市に近い場所はちょっと電車で通り過ぎるのみにして、その日はJR清水駅前近辺を主に歩いた。

 清水市には「駅前銀座」「清水銀座」という二つのメイン商店街がある。
 「駅前銀座」はその名の通りJRの駅前にある。こちらは割と賑わっていた。若い子も多少いた。
 それでも東京あたりの私鉄沿線の商店街と比べたら半分くらいの人か?
 「清水銀座」は「駅前銀座」の終点からしばらく行くと出現する。
 こちらは昔からの老舗が並ぶ古い商店街。
 道も舗装され落ち着いた佇まいで、ちょっと上品な感じ。
 ただ人通りが少ない。
 平日で天気も悪かったというのもあるのかもしれないが、大変静かであった。

 「清水銀座」に隣接して、やはり古い商店街らしきものがある。
 おそらく旧東海道や、静岡との間の旧道沿いに発展したものと思われる。
 ここも人がいない。
 歩道に設置されたトタンの屋根が錆びきってボロボロになっている。
 廃業したような商店や酒場などがある。
 メチャクチャ切ない。

 そういえば清水は次郎長でも名を馳せた港町であるが、市内を流れる巴川沿いに松があったりして、どこからともなく「港町の匂い」みたいものが漂ってくる。それと一緒に街全体に哀愁が漂いまくっている。なんだろう?この哀愁は、と思うくらい儚く切ない思いが漂う。
 これだけ切ないものがあるなんて、これこそ哀愁の美学か、とさえ思う。
 トタンの「錆び」は、ワビサビの「サビ」かとさえ思う。

 静岡と清水を結ぶ東海道の裏街道みたいので「北街道」というのがある。
 僕はなぜかこの道がとても好きで、今でも帰省するとバスを使用して通ってみたりする。
 その通りもちょっとした商店街らしきものがあるが、静岡市のメイン商店街「呉服町商店街」に比べると、哀しいほど静かである。

 どうも僕は街の哀愁にいつも心地よく逃げこんでいるような気もする。

    *  *  *

 さて我が故郷焼津市なのであるが、こちらにも遥か昔に東海道が通っていたらしい。
 現在東海道は焼津より更に内陸の藤枝市を通っているが、おそらく海に隣接し津波などの災害の多かった焼津を避けて、内陸を通したのでは無いかと推測される(僕の勝手な推測だけどね)。
 今でも焼津市のはずれ「花沢」という場所には東海道の古道があり、その名残を残している。

 僕は高校時代、花沢にあるなら市内には旧東海道の残骸は無いのか?と散策してみたことがあった。確かに現在焼津市街には旧東海道と銘打った道は無い。
 どうやらこの場所が旧道らしいという言い伝えがあり、それと道の出来方、街並み等を考慮し、今は区画整理等でズタズタになっている道をつなぎ合わせていくと、朧げながら旧道の輪郭が浮かび上がってきた。
 僕はその道が大変気に入り、暇があればその道を自転車で良く通ったものだった。
 どうやら僕の旧道散策好きはこの頃に端を発しているようである。

 ちょっとここで余談だが、僕の経験からくる旧道の特徴を幾つかあげてみる。
・沿道に神社・寺院がある(これは旧道探しで迷った時には有効な手掛かりになる)。
・大きい街道には、本道の他に裏街道らしきものが何本かある場合がある。
・旧道は必ずしも真っ直ぐでは無く、カギ状に曲がっていたりするので、区画整理等で旧道が寸断されたようになっていても、昔は繋がっていた可能性がある(道が途中で切れていても、近隣を探すとその続きが少し離れた所から発していたりする)。
と、まあ以上は何ら裏づけは無いことであるが、僕が旧道を歩く場合良く念頭に置いていること、くらいに思っていただければ幸いである。

 ところで焼津市は小泉八雲が晩年夏の休暇を過ごした場所でもある。
 僕もその場所のあった、民家の立ち並ぶ浜通り近辺が好きなのであるが、近年海岸に道路を通す工事を開始したらしく、近辺の海辺の景色が以前と大分様変わりをしてしまった。
 もちろん僕の少年時代だって、八雲の頃と比べたら当時の景観は全く失われてしまっていたが、近年は近代化と共に特にその変化が激しい。
 きっともう何年もすれば、また全く違う焼津の海の景色が出来上がってくるのだろう。八雲の愛した浜辺はもう大分前から既に失われ行く運命にあったのだろうか。

 もし八雲が現在のこの景色を目の当たりにしたらどう思うだろう?
 それを考えると、また無性に切ない。

「2000.8.18(金)」・ヤツとの関係

 お盆の帰省でしばらく家を空けたのであるが、上京の際に僕を憂鬱にさせ、再び東京での自分の部屋に入ることを躊躇させる点が一点あった。
 それはしかけていたゴキブリホイホイに「ヤツ(ゴキちゃんのこと)」が捕獲されていやしないかということであった。

 ところが部屋に戻ってホイホイを覗くと、予想をくつがえすように何も捕獲されてはいなかった。

 部屋は僕が留守の間は雨戸を閉めきり、冷房もかけないから蒸し暑くジメジメし、何より主である僕の存在も無いし、それはもうヤツが暴れ回り好き放題にするには絶好の環境になってしまっているはずであった。おそらくゴキブリホイホイの中は、苦悶にうごめく沢山のヤツ達が阿鼻叫喚の地獄絵図を展開してくれているに違いなかった・・・

 しかし帰宅した時の僕の部屋は意外な程静かであり、ホイホイにはヤツの面影すらもなかった。

 これはどうしたことか?
 何かが変わったのか?

 そういえば僕自身の意外な心境の変化というか側面を感じさせたことも最近あった。

 実は、最近訪問した友人の家、それから帰省した実家で、黒々とした大きなヤツの出現に出くわした。
 ところが僕自身どういうわけだか、その時はヤツにはほとんど興味が沸かなかったのである。
 「なんか、また出たねー」くらいにしか思わず、再びその場の人との談笑に入っていった。
 話題にならないと見ると、ヤツは程なく寂しそうに(?)姿を消していった。

 いつも露骨にヤツにうろたえているこの僕の、心境の変わりようは何か?
 ここには実に簡単な理由がある。
 それはヤツが僕に直接危害を加えないだろうということが、わかっていたからである。
 ヤツの出現が僕の安息には無関係ということがハッキリしていたからである。

 例えば実家ではヤツとは台所で遭遇したが、そこは僕が寝泊まりする場所とは離れたところにあった。
 これが寝泊まりする場所にヤツが出てきたというなら、話は別だったかもしれない。
 つまり僕にとって「関係ないヤツ」の存在はどうでも良かったのである。
 僕に危害を加えないなら、別に勝手にしてくれて構わないし、3億年生きようが何しようが全然問題は無かったのである。

 考えてみると、ヤツは人間と同じように都市空間にシブトク居住している。
 もしかしたら我々がいないと出てこないのか?張り合いが無いと思っているのか?
 もしかしたらヤツは我々人間に歩調を合わせようとしているのかもしれない。

 そんなわけで、ヤツは人間がいるところにこそ出て来るように思えてきた。
 ヤツが出てくるということは、僕に縁のあるヤツが、僕に何かのメッセージを持って出てこようとしているのではないかと、最近思うようになってきた。

 次回は、そのメッセージとは何かについて考えてみたい・・・(えー、本当?・・・)。

「2000.8.12(土)」・男女の違い

 おとといのTBS「回復!スパスパ人間学」で「女の脳・男の脳」と題して、その違いを探求するような内容のことを放送していた。
 その中でちょっと面白い実験が紹介されていたのであるが、男女の脳の違いのよってそれぞれの行動にも違いが出る、ということで、電話中のカップルの男女の行動の違いをVTRで流していた。
 それは、男性は電話中は電話のみに集中しているが、女性は電話しながらも他にいろいろな雑用をこなしているというものであった。

 私は一応オス類に属するので、この男性が電話中は電話に集中するということが、とても良く理解できる。よほど時間が無く忙しい時なら何かをしながらということもあり得るが、そうで無い限り普段電話中は相手の発言に注意を向けているし、他のことにも集中するという発想はあまり思いつかない。

 まあ、このこと自体は男女の違いということであれば、それはきっとそうなのだろう。

 女性は右脳と左脳を繋ぐ脳梁というのが男性より太いらしく、左右の脳の連携がスムーズにいっているらしい。だから男性よりかは一度にいろいろなことを同時にこなしやすいようにできているいるらしい。
 それで女性は何か他のことをしていても、十分普通に誰かと会話ができるということらしい。むしろ何かをしながらでないとダメらしい。

 ここでモテナイ独身青年(僕のこと)は、ふと今までを振り返ってみた。

 ということは今まで私が女性が何かをしている時に気を遣って話しかけないでいたことは、全くの取り越し苦労だったということになるではないか?
 ということは例えば意中の異性がいたとした場合に、こちらがタイミングを図って話しかけられなかった、などというのは全く損をしていた、ということになるのではないか?
 先方が何かをしていて忙しそうでも、こっちがアプローチすれば、女性ならばちゃんとこちらにそれなりの対応をしてくれていたのではないか?

 そーなってくると、今まで随分タイミングをはずしまくっていたことになる。
 そーか、それがモテナかった原因かー!(「それだけじゃねーだろ・・・の声有り」)。

 これからは女性が何かをしていても構わずアタックしよう!(「それだけじゃ解決しねーだろ・・・の声有り」)。

 とはいえ、女性側に「空室有・即入居可・日当良好」などの看板がかかっていれば、こちらとしても躊躇無く入居しやすいんですがね・・・(「そういう問題でもねーだろ・・・の声有り」)。

「2000.8.11(金)」・泣き虫

 普通「泣き虫」というのは女子供に対して使われる場合の多い言葉だと思うが、自分を振り返ってみると今の自分の方がよっぽど泣き虫のような気がする。大人になってからのほうが涙を流している回数が多いような気もする。テレビの何でもないようなシーンに泣いてしまう時などが度々ある。これもオヤジ化現象かもしれない。オヤジ諸氏には結構身に覚えがある方も多いことと思う。

 私の場合物心つかない頃はもちろん良く泣いていたと思うが、その後小学校から大学入学前までの間は、ほとんど泣いた記憶が無い。
 泣くことはカッコワルイ・みっともないことだと思っていたというのもあるし、感動するものよりももっと見栄えのいいもの、破壊的なもの、反体制的なもの、機知にすぐれたもの、要するに表面的な格好良さの方に重きをおいていたからかもしれない。
 昔祖母が水戸黄門か何かを見て良く泣いていたが、当時その感情は理解できず子供心にそれを面白がっていたものだった。

 いつ頃から泣き虫になったか振り返ってみたが、幼少以来久しぶりに「泣く」という体験をしたのは、大学入学で東京へ出てきた1年目の頃だった。
 当時新聞配達の住込みのバイトをやっていて、学校との両立もうまくいかず、家族と離れての東京生活の不安もありで、かなり不安定な時期だった。

 そんな時家族の皆から励ましの手紙が届いた。
 それを読んでいるうちに今まで自分がしてきたわがままとかそういったものの反省やら、故郷への懐かしさやら、ありがたさやら、とにかくいろんな感情がゴチャマゼになってきて、本当とめどなくとはこういうことを言うのかというくらい涙が出て来て止まらなかった。追い打ちをかけるように実家から持ってきた海援隊のテープの「母に捧げるバラード」をその時聴いていて、これがまた琴線に触れてしまい、これにも良く泣かされたものだった。

 次に大泣きしたのは、大学4年の頃だった。
 当時日航ジャンボ機が墜落し多くの犠牲者を出すという大事件があった(15年前の明日)。
 自分に関してはその時もいろいろあってやはり不安定な時期だったようである。
 その事件の記事に、乗客の残した遺書みたいものが紹介されていて、中に一人の紳士の書かれたものがあった。それは自分の妻に宛てた今までの感謝の気持ちと幸せを願う思いを込めて書かれていた文だった。
 飛行機が墜落して行く中自分の死が決定的になっている状態で、我々凡人にはパニックするという発想しか思い浮かばない。しかしこの紳士は最愛の妻のことを最後の時に想った。最後は感謝と安らかな静かな思いで最後の手紙をしたためていたのかもしれない。
 この紳士はもちろん有名人でも何でもなく平凡な一人の男性だった。
 しかしなんて大らかで強いんだろう・・・、これがきっと本当の愛というものなんだろう・・・、そんなことを考えつつ、そこから悲惨な事故を越えて何か強い大きなものが存在しているように私はハッキリと感じていた。
 この名も無き一人の紳士の偉大な魂を思ったら、また東京へ出てきた頃のようにジャンジャン涙が出てきてしまった。

 それ以降は歳と共に年々涙腺は緩む傾向にある。

 大泣きの後では、明らかに家族や恋人に対する思いが変わってくることがある。
 いろんな価値観が変わる場合もあろう。
 大泣きすると、それ以後は自分の心のキャパシティが広がるような気がする。そして今までの気持ちが自動的に奇麗に整理してもらえるような気がする。
 これが「浄化」作用というやつかもしれない。

 オヤジになるといろいろと自分では整理のつかない面倒ごとが増えてくるので、しょっちゅう浄化作用ばかりしてるのかもしれない。

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