Monologue11 (2000.1.4〜2000.1.27)

「2000.1.27(木)」・商店街

  他人からみると、どうも理解できないという楽しみ、誰にでもあるかもしれませんが、私の場合ですと、「商店街を歩く」というのが、それに当たります。商店街といってもいろいろあります。私の場合東京の銀座のようにゴージャスな商店街も好きですし、どっかの私鉄やローカル駅の駅前商店街、といったものまで、幅広く楽しめます。

 小さい駅の商店街でも活気があるところなんかいいですな。
夕方近くに行くと、買い物のおばちゃん連中なんかで賑わってて、なんかほのぼのした世界をつくっております。

 店に目を向けてみると、お惣菜屋さんの店先に、揚げたてのかき揚なんかが並んでたりするのを見ると、腹が減ってなくても、なぜかうれしくなってしまう。
焼き鳥屋の店先に、焼き鳥が、ケースに入れられず、そのままで皿の上に並んでいるのなんか、最高ですな。
洋菓子屋の奇麗なケーキの並んだショーケースもいいし、古くからあるような、鞄屋や洋服屋の類いもいい味を出しております。

 活気のある商店街の中にあって、なぜか、突然シャッターの降ろされた店が出現する。
シャッターに貼紙がしてあるので、よく見ると「病気のためしばらくお休みします」などと書いてある。こんな時には、この小市民的世界の中にも一編のドラマを感じてしまいます。
 おじいさんが、自動販売機の前で缶コーヒーを立ち飲みしている姿もどことなく哀愁を帯びていていいですな。
 商店街には不釣り合いな若奥さんが店番をしている店があったりして、ぎこちなさを感じさせつつも、元気に声を出していて、旦那はいい嫁もらって、姑もさぞかしうれしかろう、などと勝手に推測したりする。

 地元の人しか知らないような、小さい商店街も、実に詩情を感じさせよいですな。
 商店街は普通駅前や寺社の門前や古い街道ぞいにできたりするけれど、どう考えてもどういう理由でできたか推測し難い小さい商店街もあって、そういうのもなんとなく愛着がわきます。

 長い商店街は歩きでがあっていいけれども、ずっと歩いていると、やがて商店も少なくなってきて、だんだん普通の住宅街になってくる。電柱には「〜銀座」「〜ロード」などのペナントだけがつりさがっている。商店街の終点付近のせつなさ、これも何とも言いがたいものがありますな。

 たまに、商店街終わりか・・・と思って歩いていると、また新しい商店街が始まったりする時がある。なんと、そのまま反対側の鉄道の駅に繋がっている商店街だった、こんな時はもう、かなりハイテンションになりますな。
 あと、普通の住宅街だと思って、ブラブラ歩いていて、ふと曲がり角に差しかかかった時、一つ向こうの道にちょっとした人通りが見える、なんだと思って行ってみれば、その道が商店街になっていた、なんて時も最高に嬉しいです。

それから、やっぱり忘れてはいけない、ちょっと寂れてしまった商店街。もうこれはわびさびの境地、実に奥深いものがあります。

        *      *     *

 なんでこんなに商店街に惹かれるものがあるのか、また自分なりに考えてみますが、私は普段一人暮らしで、人通りも少ない山里?に住んでおりまして、もちろん好き好んでそうしているわけですが、どこか心の奥底で、商店街のような家庭的雰囲気があり、人が集合するところに郷愁(サウダージ)を覚えているのかもしれません。

 そういえば私の故郷の実家の面している通りも、商店街という程ではありませんでしたが、下町的な雰囲気があって、昔は肉屋・自転車屋・八百屋・惣菜屋・たばこ屋・駄菓子屋なんかがあり、近所のおばさん達で夕方時は賑わっていたような記憶があります。私も良くおつかいにいかされたのを覚えております。
 いろんな事情があったとは思いますが、今はそれらの店もほとんど無くなってしまいました。

 それから近くに高校があり、家の前を、駅から通ってくるその高校の学生さんが、通学に我が家の前の道を利用していて頻繁に行き来していましたが、最近は通学する生徒さんの事情も変わり、駅から来る学生はほとんどいなくなったようで、我が家の前を通る学生さんもめっきり減ってしまったようです。

 いろんなものにも、人にも栄枯盛衰があるように、我が街ももしかしたら、花の時代はすでに終えていたのかもしれません。
 昔の賑わっていた頃の故郷の情景、もしかしたら私はそれをいつまでも追い求めているのかもしれません。

 良く晴れた休日、郷愁に強く動かされるときがあります。
私の感性を育んでくれた、我が故郷、それから商店街というものが、どこかで繋がっていて、今日もまた私を街へと駆り立てる、そんな今日此の頃です。

「2000.1.23(日)」・予知夢?

 今日は自分でもドキッとすることがあり、ちょっとここに書きとめておこうと思います。
もしかしたら自慢話のようにとられるようなこともあるかもしれませんが、事実であることには違いは無いし、きっと皆さんにも似たような体験が一つや二つあるでしょうし、これは何か意味があることであると思えますので、とりあえず、お話することとします。

 今朝普通に夢を見たのですが、その夢には、きんさんぎんさんが出てきました。夢の中のお二人は随分若く、まあ若いといっても老婆であることには変わりは無いのですが、大体60〜70才位に見えました。まだ肌には張りがあって若々しく元気で、私も夢の中で「きんさんぎんさんって、結構若いんだな」と感じていました。
 夢が醒めてから、「あれ?きんさんぎんさんって、もっと皺クチャだったよな?」と夢を振り返りつつ思いましたが、すぐに夢のことは忘れて、しばらくして用事で都心へ外出をしました。

 さて、帰宅してから、何気なく夕方のニュースを見ていると、なんと、きんさんが亡くなられた、というニュース・・・。
 「そういえば今朝の夢に出てきたよな・・・」。
 夢のきんさんはもちろん亡くなってはいませんでしたが、それにしても今朝夢に出てきた人が、今日の今日亡くなっていたとは・・・ちょっと背中がゾク。

 私はもちろんニュースを知っていたわけでは無いし、普段きんさんぎんさんを意識していたわけでは無いので、今日の夢は本当に突然見たわけです。
どういうメカニズムでこんな夢を見たのでしょう?
もし理由があるとしたら、どうなるのか、私なりに次のような理由を考えてみました。

1.きんさんぎんさんと、私の意識がどこかで繋がっていた
2.きんさんの逝去を知った、私の知り合いの誰かの意識と私が繋がっていた。
3.私の意識が、きんさんの逝去のニュースを事前に感知していて、夢でそれを知らせた。
4.まったくの偶然。

 今までは4というふうに考えていましたが、どうもそう考えるのが不自然のような気がしてきてなりません。
そうなると1〜3のどれかということになりますが、実際のところは正解はわかりません。
 ただ、1〜3の理由に共通していえることは、私が「目・耳」でニュースの記事を知覚する以前に、きんさんの逝去ということに関して発生した、エネルギーかオーラかなにかわかりませんが、そんなようなものを、「目・耳以外の自分の感覚」で事前に受信していた、ということです。
そして、この理由の方が、全くの偶然が起こる確率よりもはるかに高い確率で起こりうる事象なのでは無いかという気がするのです。

 最近特に思うことは、夢は、やっぱり予知という役目を多分に担っているのでは無いかということです。
 私自身の経験ですと、夢で雷の夢を見ますと、必ず仕事なんかでハプニングが起こります。あと歯の欠ける夢を見ると、不意の大出費があります。中学校の夢は教訓的な事件。その他、夢には自分の人生での事件を象徴するようなものがいっぱい出てきます。

 人間の感覚というのは、我々が考えているより、はるかに敏感なものでは無いかという気がします。
2000年を迎え、夢とか、霊とかそういった類いのものが、今までのように迷信では無くて、ちゃんとした形で解明されていくような時代に、もう来ているのでは無いかという気がします。

 ちなみに、きんさんは、大往生だったそうですが、改めてここにご冥福をお祈りいたします。

 今日の夢の本当の意味は?、・・・実はちょっとまだ考え中です。
 

「2000.1.15(土)」・ジェネレーションギャップ

 SMAPの新しいマキシシングルが2/9に発売されるそうです。
その名も「Let it be」。
ああ・・・これで、若い女の子とオジサン世代の間に、また一つ深い溝ができてしまいますな。

僕らが、「Let it be」といえば、今までは、まずビートルズの名曲「Let it be」。

                    *    *     *

きっと、これからこんなシチュエーションが随所に出てくるんでしょうな・・・

(若い女の子と飲み屋かなんかに来ていて、BGMでスローな曲がかかったりした時などに)

オジサン(ちょっと自慢げに)「あ、これLet it beに似ているね。このピアノのイントロなんかが。」
女の子(突然訳のわからないこと言われてちょっとムカツキつつも、ピンとこないので)「えー?Let it beってピアノなんか出てきたっけー?」
オジサン(え、そっちこそ何言い出すんじゃ、という感じで)「Let it beといえば、ピアノでしょ。」
女の子(そうか、自分の聞いていたのはピアノが無いバージョンなんだと思い)「えー?誰が弾いてんの?まさか木村君ピアノ弾けんの?ウソー!」
オジサン(木村君?営業部の?んなわけねえよな、と思いつつも)「?・・・、あの、ポールマッカートニー・・・」
女の子(本当に聞きなれない名前が出てきて)「誰?」
オジサン(なんか、俺間違ってかな、と急速に自信を失いつつ)「ビートルズの・・・」
女の子(ビートルズ、名前は知ってる有名じゃん、でもピンとこない、みたいな)「あービートルズ。え、でもなんでSMAPにビートルズ出てくんの?」

・・・と、この二人は永久に平行線を辿っていくのでありました・・・。
 

「2000.1.4(火)」・年頭所感

 ついに2000年になりました。
 コンピューターの2000年問題では私も現在の仕事がまさにコンピューター関係なので職務上、いろいろと関与したわけですが、片や世の中はといえば、真剣に対策をとる人、それに乗じて一儲けしようとする人、無関心な人と、、反応は様々でした。

 私は思いますに、これは何年かすれば、人間のある一面の笑い話として後世に語りつがれていくような気がしますな。
 人間が自分達が作った機械の暴走に翻弄され右往左往する様は実に滑稽で、チャップリンのモダンタイムスで描かれていたようなことがまさに現実に起こってしまっているのではないのか、という気もします。

 ただ言えることは、人類に、この滑稽さがある限り、人類は地球上にはびこり続けるんじゃないかということです。
人類が全て、滑稽じゃなくて、非のうち所の無い、完璧な人類になった時、その時こそが本当に、人類が地球とおさらばする時なんじゃないかと思っています。

 と・・・年頭らしい大言壮語を吐いたところで、音楽の話ですが、今日はMisiaの新譜を有線から録音しました。
これは買っても損は無し、良い出来だと思います。
アルバムとしては、2枚目?だそうですが、前作よりも、やはり完成度が高くなっているという印象を受けました。
個人的な感想ですが、Misiaの声は最初黒人ぽくて太い声のように聞こえていましたが、段々慣れてくると、可愛らしい年頃の女性らしく聞こえてきてしまうのですが、これはなんでなんでしょ?、情が移った?

 正月は実家に帰りましたが、故郷の景色は帰る度に少しづつ変化していき、中にはもうすっかり無くなってしまった、道・建物もあります。残ったのは、私の遠い記憶の中の情景のみ・・・。
 それでも青い空や、太陽の照り具合なんかは昔と変わらない。
 それで無くなった建物の附近に佇んでいると、ふと昔の記憶が鮮明に蘇ってくる・・・。
 この時に突然非常に切ない心持ちになる。
 これが、きっと郷愁、というものでしょうな。ポルトガル語で言うとサウダージ。

 最近このサウダージという言葉が気に入っています。
 

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