愛読書

精神世界系編

 
聖なる予言
ジェームズ・レッドフィールド著
山川絋矢+山川亜希子 訳
角川書店 1800円
(角川文庫ソフィア 760円)
 テレビゲームにRPG(ロールプレイングゲーム)というジャンルがある。
おおざっぱに言うと、ゲーム者が主人公になって冒険をしていき、その中で成長を遂げていくというようなものである。僕はこのRPGというジャンルが大変好きである。
(これしかほとんどやったことが無いという説あり。もっと厳密に言うとドラゴンクエストしか、やったことが無いと言った方が当たっているという説あり;;;)。

 このRPGでは、「アイテム」と称して冒険に必要な道具を、行く先々で入手するのであるが、その中に良く、「魔法の書」とか「冒険の書」などといって書物をアイテムとして取り入れているゲームも多い。
この書物は、時に主人公がレベルアップする為の必須アイテムだったりする。

 この「魔法の書」はゲームの上だけでの話と思っていたが、もしかしたら実生活でも、それは有り得て、そんな中の僕にとっての1冊の「魔法の書」、それがまさにこの「聖なる予言」なのではないかという気さえしている。

 当初はこのアイテムは、僕にとって、怪しい光を発したものに写った。それは「予言」という言葉がついていたからである。

 この世紀末に、幾多の予言書と銘打った書物が出版されてきた。
ほとんどが、著者自身、あるいはその取り巻きの人間の権威を誇示するためか、名誉欲の充足の為に書かれたような博打的なものが、大部分で、それはことごとくはずれたりしている。当たれば大騒ぎ、しかしそれは当たって何か人間の進歩にとって深遠なメッセージを残し得ているのかと言えば否で、結局「予言」自体の当りはずれが問題にされるだけで、やはり博打的なレベルの範疇を出ない。

 この「聖なる予言」も「予言」という言葉がひっかかり、それで世紀末の風潮に乗じた、いかがわしい予言物というイメージがついて、書店等で見掛けてもどうも手に取るのをためらっていた。
 しかしベストセラーということもあってか、どうも気に掛かり、ある日ついにゲットすることにしたが、実際読んでみると、当初のいかがわしいイメージは全く無く、そこには人間が成長、進化する上で 必要な九つの知恵が物語風に書かれていただけであった。

 いかがわしい本というのは、熱狂して読んだ当初は、素晴らしい本だと思うのであるが、不思議なことに、何年か立ってから、その本を手にとってめくってみると、やけに陳腐に感じるものである。自分が成長したのかもしれないが、何かその本を見ても情熱が湧いてこない、白けているのである。その内容を卒業し飽きてしまっているのかもしれない。

 やはり良書というのは、いつ読んでも陳腐ではなく、その都度新しい発見がある。

 僕らは自分自身の内に、素晴らしい「良書鑑定機」を持っているものである。
もし、それが狂っているならば、我々自身が何かの病気に犯されているか、何かに取付かれて自分を見失っているのかもしれない。

 この「聖なる予言」は、少なくとも僕にとって、読んで数年たった現在でも陳腐化はしていない。

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 では実際この本のどんなとこに感銘を受けたのか?

 まず第一に、人間にとってなぜ「愛」が大切なのかという疑問が氷解した、ということがある。

    古今東西の芸術のテーマを見ても、「愛」は重要なテーマになっている。
僕の好きなポピュラーソングにおいても 、そのほとんどはラブソング。
ビートルズでさえ「愛こそはすべて」などという歌を作っている。
キリスト教においても 「愛」の重要性を説いており、「汝の隣人を愛せ」と言われ「隣人を愛すー?おいおいちょっとそれだけは勘弁してよー」と
思った方も 多々いるはずである。 

  なぜこうも「愛」なのか?
どこへいっても「愛」。今日も「愛」。アスモ「アーイ」。ソシテエ、アサテモ「アーイ」。「アイ!」「アイ!」「アーイ!」。「ウォニイチャン!、ホントニー、イヤナッチャウヨー!」
(注:上記行は「笑う犬の冒険」のテリー&ドリーのように読むこと)

 そんなに「愛」が必要なのか?
なぜ人はこうも「愛」に こだわるのか?
これが僕の長い間の疑問であった。

「聖なる予言」は疑問に一つの回答を与えてくれた。

それは「愛無くしては、人間の進歩は有り得ない」ということである。

 人が何かを成し遂げたり、継続したりする時に、誰かの声援を受けたり、何かが励みになったり、何かで使命に燃えたりして、自らの行動を続けたりできる。それらの時には大抵高揚感があり、自分でも信じられない力が出たりする。すなわちこれが、「エネルギー」を受けている状態なのである。
この高揚感、「エネルギー」こそが、本書でいう「愛」を得ている状態なのである。
言うなれば人間が創造的行為に至るための必要不可欠な「エネルギー」こそが、「愛」なのである。

 『宇宙は聖なるエネルギー(愛)から成っており、人間はこの聖なるエネルギーとつながることで、次第に自分の人生の成長への道と、霊的な使命と世界に貢献する方法を発見できる。まず「愛する」ということ、「愛」の状態になる(心と知性を全てにオープンにする)ことは、すなわち、宇宙のエネルギーとつながることだということ。』

人は宇宙とつながった状態(愛の状態)になれば、無限のエネルギーを享受でき、真の使命を実感し、地球上での進歩を遂げることができる。
(主として第3、5の知恵より)

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 ところが、である。
 「人間は聖なるエネルギーとほとんどつながっていることはなく、そのための不安感・無力感から 人間の有限なエネルギーの奪いあいをし、それがあらゆる争い・トラブルの原因となっている」のである。 

  これが感銘を受けた2つめの点であるが、痛快だったのは、人間はエネルギーを奪う(注目をひく)ために、他者の前で ワンパターンのドラマを演じるクセがあり、これは本書では「コントロールドラマ」と呼ばれている。

 せっかく宇宙に「愛」のエネルギーが満ち溢れているのに、人間はそれとつながろうとせずに、人間同士から「エネルギー」を奪い合ってしまっている、というのである。

 ドラマというと何か特別なことを 想像しがちだが、これはほとんど誰にでもみられ、人との接触でストレスを感じた時に自分がとる特有のくせのようなもの、なのである。

 ドラマの攻撃的な順に「脅迫者」「尋問者」「傍観者」「被害者」と4つのパターンがあり、例えば「被害者」の ドラマなどは、相手に「オレ、もう人生疲れちゃったよ・ ・・」みたいなことをいって、文字通り人生の被害者 を演じることで罪悪感を抱かせてしまうような素振りをし、その相手は罪悪感を発言者に抱くことで、発言者にエネルギーを与えて(奪われて)しまう、といったパターンなのである。

 ちょっと簡単に補足しておくと、
「脅迫者」は文字どおり、相手を脅して、恐怖感を与えることで、相手の注目を得ようとする人のことである。簡単に言えば、すぐ怒る人等である。
「尋問者」は、相手を問い詰めたり、理論的に屈伏させたりすることで、相手の注目を得ようとする人のことである。簡単に言えば、すぐ反論する人、詮索好きの人等である。
「傍観者」は、人から常に距離を置き、それを誇示することで相手の注目を得ようとする人である。簡単に言えば、世捨て人みたいな人。もしかしたら浮浪者の人もこの「傍観者」になるのかもしれない。
「被害者」は、常に自分の窮状を訴えることで相手の注目を得ようとする人である。簡単に言えば、すぐ文句を言う人。泣く人。言い訳する人などなど。

 このような人間同士の有限エネルギーの奪い合いがはじまってしまうと、宇宙の聖なるエネルギーからは完全に切り離され、人間の進化はそこでストップしてしまい、人間がこのつながりを失ったことに気付くまで延々とこのコントロールドラマを繰り返し続ける というのである(おそらくこれは仏教でいうところの「カルマ」というものと同じではないかという気はする)。 
そして、このドラマが、人間同士のトラブルのほとんどの原因になってしまっているのである。

 人間が進化の流れに再び乗り、宇宙のエネルギーとのつながりを回復するために(もしくはカルマを断ち切るために)は、まず どうしても自分のコントロールドラマに気付く必要がある、というわけなのである。 

  ドラマの詳細については、本書並びに続編の「聖なる予言 実践ガイド」にわかりやすく述べられているので興味をもたれた方は そちらをご参考に。(主として第4、6の知恵より)

 このコントロールドラマは、人間が生まれて5〜6年の間の環境で、ほとんど決まってしまうそうだ。
だからいかに、その間の教育などが、重要かがわかる。
例えば「脅迫者」を作り出す、環境は親などに「脅迫者」がいる可能性が高い。
純粋な子供は、「脅迫」に対しては「脅迫」で相対さなければ、生きていけない(エネルギーを得られない)ことを、必死に学んでしまうのである。

 人間から「エネルギー」を奪うのではなく、宇宙のエネルギーとつながることが、どうしたらできるか?
それは、結局「愛」の状態になれば良いのである。「愛」はコントロールドラマとは無縁の状態である。
従って男女間の恋愛の、あるパターンのように、お互いを搾取しあう状態というのは、本当の愛とは言えないのである。それは、おそらく「脅迫者」と「被害者」、「被害者」と「被害者」のドラマなどに陥っているだけなのかもしれない。「愛」の状態は無償なのである。

  「聖なる予言」には、上記の他にも例えば「偶然の一致がその人の神秘的な人生を紐解いていく」というような、興味深い知恵等などが述
  べられている。そしてこれらは最初から順番に自分で実感し体験していくもので、その実践において、また奥深い 新たなる発見がある。

 なお本書の続編として前述の「聖なる予言 実践ガイド」、そして「第十の予言」があるので、そちらもドゾヨロシク。 
(2000.6.27 改訂)

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