Monologue2006-5 (2006.2.17〜2006.2.27)
 「2006.2.27(月)」曇・W41Hに変更

 携帯をツーカーからauに変えた。番号&メールアドレスもそのままだ。
 機種はW41H、ワンセグ対応とかいうのでauでは最新だ。
 今まで僕は携帯超発展途上国だったのが、いきなり最先端に躍り出たみたいだ。

 それにしても何ですな、まあツーカー時代と世界が全然違うこと違うこと。
 USBで繋げば直接携帯のデータがパソコン保存できるとかいうし。ま、僕はWindows環境が無いのでできませんが。
 テレビも見られる、本も写真集も読める。音楽も聴ける。
 そうそう、僕が散策の時に一番欲しかったナビ機能もついてる。
 ツーカーでは考えられなかった世界だ。

 何年か前ツーカーが「ワタシらもう進化しませんけど、何か」宣言をした。
 電話とメールだけのシンプル携帯を目指すということだった。
 でももう今やなあ・・・、それがどしたの?って感じだ。

 ただ僕はツーカーにブツブツ文句言いながら、結局4年間で3台も買い替えた。腐れ縁だったようだ。
 ちょっと顔を上げて周りを見渡せば、もっと広く楽しい世界が待っていたのに。

 たまたま今日通勤にウォークマンを持ってくのを忘れてしまった。
 でもそこで早くも携帯が活躍した。
 現在上限規制に引っ掛かって9曲しかダウンロードしていないが、着うたフルの曲を聴きながら通勤をしのげた。
 音質も特に問題は無い。

 曲は古くてお恥ずかしいけれど1970〜80年代の洋楽が主として入れてある。
 「君の瞳に恋してる」は、特に着メロなどで必ず入れておきたい曲だ。
 それから僕自身のトレードマークにしたいくらいのボズ・スキャッグスの「二人だけ」、それから、こんなの着うたにあるんだあ〜!と感動したドゥービー(ブラザーズ)の名曲「ルージン・エンド」「ヒア・トゥ・ラヴ・ユー」「オープン・ユア・アイズ」、それからドゥービー定番の「ホワット・ア・フールビリーブス」、アース(ウインド&ファイアー)の名曲「アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン」。
 70〜80年代の曲では無いけれどシェールの大ヒットで、僕の中では比較的新しい曲の部類に属する「ビリーヴ」。
 来月に入ったら又規制が取れるので、更にダウンロードしていきたい。

 そんな中、カーペンターズの「オンリー・イエスタデイ」という曲もダウンロードした。
 音質もイイこともあってか、すごく新鮮に聞こえた。
 僕が中学生で初めて聴いた時から、全く色褪せていない。
 あの時に聴いたトキメキが、そっくりそのまま蘇ってくる。
 間奏のとても艶っぽいメロディとハーモニーから受けた感動もそのままだ。

 僕は30年も経って随分オッサンになってしまったのに、この曲は30年経っても全然変わってない。
 それどころか変わらないが故に一層輝いて見える。
 そう感じながら聴いていると、なんだか泣けて来た。
 通勤ラッシュとは逆向きの比較的空いた電車に乗りながら、私鉄沿線の住宅が密集した下町風情の夜景を見るとも無く見つつ、他の乗客に気配を悟られないよう、静かにカレンの伸びやかな歌声を聴いていた、とある二月の寒い日でした、とさ。
 「2006.2.19(日)」曇・ダークサイトを通じて学ぶ

 とあるスピリチュアル系のサイトを見ていた。
 自分にコンタクトのあった心霊からのメッセージを授かって、それを主として掲示しているようなサイトだった。

 その中の、さる日本神界の神とされる神託の文中に、誰でもが知っているような諺が引用されていた。
 ところが、この諺の使い方が間違っていたのである。
 誤字脱字といった問題では無く、明らかに諺の意味を取り違えている。日本の神が日本の諺を間違って覚えていることになる。
 確かに、この諺、間違いやすい。間違いやすいので良くクイズなどのネタになったりするくらいの諺である。

 幾ら日本神界の神が現世と別な世界に常住するからといって、このような日本語の間違った使用をした誤謬を招きやすい神託を我々に告げるだろうか?。
 太古から我々を見守っている神々が、今更こんな高校生レベルのウッカリミスを犯すのだろうか?。
 あまりにも初歩的なミスだ。

 あれれええ???。
 明らかに怪しいゾ〜・・・?。
 僕も、まがりなりにもかつて日本文学を学んだことがあるゆえ、これくらいの日本語の誤りは見抜ける。
 アンタさては日本の神じゃネエな。誰だ?、一体?。

 そもそも諺や現代日本語の慣用句などを使用するなんて、どうも地上的というか、地上に波動が近い感覚だ。
 時代や地域を越えた高級霊が使用する、もっと普遍的な言い回しとは、何か違う匂いがする・・・。ダークサイドな匂い・・・。

 これで一気にこのサイトの信憑性はガラガラと音を立てて崩壊した。

 このサイトを良く読んでみると神託も、我々が改心しなければ、この世に災厄が降りかかる、と言ったようなものが多い。
 現代社会の乱れを説き、恐怖心を煽って、魂を目覚めさせる、という意図らしい。

 でもよくよく考えると、太古から我々を親のように見守っている神々が、我々が乱れている、からといって、このサイトのように我々に対して叱りつけるような過干渉ともとれるボロカスな言い方をするだろうか?。子を腐らすような言い方をするのだろうか?。
 確かに乱れている部分もあるが、そんな人たちばかりでは無い。
 むしろこうしたスピリチュアル系のサイトを見るような人は、それこそ改心し始めた善良な人々が多いのでは無いか?
 だったらむしろ、こうしたサイトすら見ない、本当に乱れている人達に直接叱りつけるのが筋、というものでは無いのだろうか?。
 恐怖心を煽るのは、こうしたスピリチュアル系のサイトを見るような人向けの方法では無い気もするのだが・・・。
 人には、それに合った言い回しがある。
 善良な人の恐怖心を煽り立てても、お門違いのような気もする。こんなピントはずれと僕でもわかるような方法を、思慮深い高級霊ともあろうものが本当にするのだろうか?。

 それから恐怖心を煽り立てて改心させる、というのも確かに魂の進化の為の方便の一つかもしれないが、本当にそれしか無いのだろうか?。
 恐怖があるから改心する、災厄があるから魂を磨く、というのは、受験があるから勉強する、受験の為の勉強をする、というのと同じで、本来の学びに対する動機から道をはずれていないだろうか?。
 純粋に愛の為に、進化の為に学ぶのでは無いのだろうか?。怒られるから魂を浄化する、それがこれから進化する人間の一番の方法なのだろうか?。

 もしかして、神の神託と称して実は、善良な人々の恐怖心を煽り立てて、乱れている人達との分離を解き、人々を二極分化させて混乱を招き、魂の学びとは別な方向に我々先導しようとしてるのではないか?。

 疑念は尽きない・・・。

 いくら我々の未知な世界の高級霊からの情報だと知らされていても、丸呑みするのは非常に危険な気がする。
 それが愛の方へ導かれているのでなければ、更に危険だ。

 そうは言っても、どんなダークサイドなサイト”ダークサイト”(洒落かよ)でも、そこに何かしらの学びは必ずあるのである。
 誤謬に満ち溢れているようでも、中に一筋の真実を述べている場合もある。
 少しだけ真実の情報を語っている時がある。

 精神に余裕が出てきたら、むしろこうした”ダークサイト”も注意深く見てみて、その誤謬の中から真実を見出す訓練をすると、更に繊細な感受性を養うことができるような気もする。

 こうしたダークサイドな事象について触れたり勉強していくと、確かに慎重になったり冷静になったりして勉強になる反面、今度はピュアに物事を信じられなくなり、次第に猜疑心と閉鎖的な心が根付き始めてしまう。
 これはあまり宜しく無い傾向だ。こうして物質的な確実性のあるものしか信じなくなってしまうのでは、却ってダークサイドの思うつぼだ。

 そんな時自分の直感が頼りになる。
 ダークサイドの雨霰を通じて、逆に自分の直感を磨く練習をする、これこそ更に一歩進んだジェダイマスターへの道だ。

 ん?、一体どこへ向かおうとしてるんだって?。
 ・・・それ、実は僕も知りたいんですけど・・・。
 「2006.2.18(土)」曇時々晴・ふくに寄せて

 昨年夏、実家で飼っていた猫が死んだ・・・らしい。
 20年生きた。
 たぶん大往生だった・・・のだろう。

 どうも曖昧な表現になってしまった。
 実は、この実家の猫、愛称「ふく」、の臨終の瞬間は、家族の誰もが見ていないのである。

 ここ近年僕が実家に帰っても、ふくの老化は目に見えて進んでいるのはわかった。
 無理も無い。人間だったら100歳は越えていたような年なのだから。
 そして昨年、いよいよ致命的に体調を崩してしまったようだ。
 主に世話をしていた妹は、ふくが亡くなる2、3日前は、死期を予感してか、泣きながらずっとつきっきりになっていたそうだ。

 ところが、最期の日、妹がふと目を離してい隙に、ふくはどこかえ消えていってしまったそうなのである。
 勿論それから戻ってきてはいない。20年間、外へ行っても必ず戻って来た我が家に、ふくは二度と戻らなかった。

 猫は臨終の瞬間を人には見せない、という俗説がある。
 これは本当だったのだ。

 僕の実家は下町で、回りは住宅や商店ばかりで、猫が安心して臨終を迎えられそうな場所は無さそうにも思える。どこへ消えたのだろう?。

 僕が小さい頃、犬や鳥を何匹か飼ったことがある。
 しかしどれもが不遇な最期で、気の毒なことをしたものだった。
 それ以来僕は可哀想でペットは飼えない。

 ふくは僕が東京に出た後に実家に来た。我が家にとっては初めての猫だった。
 今までのペットとは違って、世話のやけることも無く、勝手に生きてるようで、何か超然としたところがあった。

 東京で見る野良猫は、食い物の気配を感じると猫撫で声を出しながら近づいて来たりして、何か打算的だ。
 ところがふくは、僕がたまにしか東京から帰ってこないのに、帰ってくると僕だとわかるようで、僕がいる部屋に良く鳴きながら入って来た。猫の打算が全く感じられなかった。

 僕にとっては、実に不思議な猫だったが、やはり最期まで不思議なところを見せてくれて、僕の期待を裏切らなかった。
 普段も超然としていたが、最期も天の意志に従ったのだろう。

 さて、今更昨年の出来事を書いたのは、携帯をauに切替えようと思って、携帯のデータフォルダの写真を整理していた。それで出て来たのである。下の写真が。
    
 在りし日の、ふくの姿。
 「2006.2.17(金)」曇・少しが余裕が出たので

 こないだ給料が入ったので、今まで買えなかったDVDや書籍などを購入した。

 「戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方(田中優:合同出版)」
 「泥棒国家日本と闇の権力構造(中丸薫、ベンジャミン・フルフォード:徳間書店)」
 「弟子から見たショパン(ジャン・ジャック・エーゲル・ディンゲル:音楽之友社)」
 といった書籍などを購入した。
 上2冊は、日本が抱えている問題に焦点を当て、これからの日本の方向性を見つめていこう、ということで話題の本を読んでみることにした。
 ショパンのやつは前から欲しかったのであるが、何せ5800円ですよ、一冊。やっと買えました。
 生きたショパンに少しでも近づけるかも、と思って。

 さまぁ〜ずのライブDVDボックスなども購入した。
 さまぁ〜ず好きにはたまらんDVDだ。
 さまぁ〜ずのコントは、コントと言っても、結局大竹の執拗なボケの応酬と三村の伝家の宝刀ツッコミが繰り広げられる漫才のエッセンスが強い。だからコント好きにはちょっと物足りないかもしれない。
 僕はさまぁ〜ずの感性自体が好きなので、これは必携の一品である。
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