Monologue2005-12 (2005.12.19〜2005.12.23)
 「2005.12.23(金)」晴・その力を与えた給え勇気を与え給え
 
 今日から三日間は巷はクリスマスモードだな。
 僕はといえば、今日は出勤だった。
 ただ電車も駅も街も、今日はなぜかヒッソリしていたような気がしたのは気のせいだろうか。

 東京も凍るような寒さで、商店街を流れるクリスマスのBGMが、かえって哀しげに聞こえてくる。

 休憩時間に職場の近くのコンビニに入ると、レジのオニイチャンが、サンタの衣装を着て働いていた。
 でもこの衣装の、キッタネエこと。ありえねえくらいメッチャ汚ねえ。ボロじゃん。おいっサンタどこで暴れてたんだよっ!みたいなツッコミいれたい。
 オニイチャン、手も荒れてて、なんだかとても痛々しい。
 こんなキタネエの着て、世間様がお休みの日に働くのもさぞシンドかろう。
 オニイチャンに幸あれ。

 家に帰ってから昨日TBSでやっていた小田さん(和正)のライブを見た。
 小田さん見た目はさすがにもうイイオッサンだけど、声とか雰囲気は全然衰えていなかった。

 「生まれ来る子供達の為に」という僕も大好きな歌をやっていた。
 この曲、最初聴いた頃は僕も未熟だったので、随分大げさで気負った歌だと単純に感じていたものだった。
 でも今の小田さんが、今の時代に歌っているのが、とても似合っていた。
 時代がやっとこの曲に追いついたのかもしれない。
 日本のポップスでは貴重な、ビートルズなどにも共通する、ある種宗教的な高みに到達している名曲。
 表題はこの曲のラストフレーズ。
 子供達が人生の門出に出立する時を旅立ちの船出に例え、その船を二人きり(男女?)になっても力一杯漕ぎつづけていけるよう力を下さい、という祈り。

 あとSMAP中居君との「夜空のムコウ」のデュオも良かった。
 小田さんは、この曲が大変好きらしい。
 なんか僕も急にコピーしてみたくなった。

 「言葉にできない」も良かった。
 ピアノはいいな。やっぱカッコイイな。
 ふと高校時代にピアノ弾きのミュージシャン達に憧れた頃のことを思い出してしまった。

 映像はたまに会場で感涙にむせぶ女性の姿を映していた。
 自分の歌で人を感動させて泣かせることができるなんて、なんて素敵なんだ。
 ああ、オレも女泣かせてみてえ・・・。
 あっ、歌でね、歌で。

 ん?、どっちかゆうたら、いつも泣かされてる方じゃねえかだと?。
 な、何をいう!、早見優(己の名誉の為に言っておくと村上ショージさんのギャグです)。
 「2005.12.22(木)」晴・より自然に霊的に
 
 冬至になった。
 いよいよスピリチュアルな意識が、これから一層日本にも普及していく感じになってきたな。

 スピリチュアル関係の本を読むと”人生は修行”みたいな言い回しに出くわすことも多い。
 こうした言い方だと、いかにも人生は辛い、スピリチュアルな生き方をすると辛い、だからもっと享楽的に現世的物質的に生きた方がイイと思う向きもあろうかと思う。

 ”人生は修行”というのは確かに本質を突いた表現ではあるのだろう。
 しかしその修行的生き方を通じ次第にレベルアアップしていくと、そうした修行的生活がもたらす感動の方が、より意義のあり価値のあるものだと極自然に思えるようになっていくのだと思う。
 そうして次第に地上的物質的な価値よりも、霊的な向上に対して興味が沸き、自分のベクトルも自然にそちらに向いていくのだと思う。
 古い価値観が崩壊して新しい価値観で自分が満たされていくのを感じていくことだろう。

 より愛に溢れ感動に満ちた生活の方が、物質的現世的に恵まれた生活よりも素晴らしいように自然に思えてくるのだと思う。

 ただな、お金があるとイイね。やっぱ。
 安心するし、癒されるし、滞っていた交際費にも使用できるし、欲しかったものも買えるし・・・。
 ある程度経済的余裕があるってことは、大変有り難いことだな。

 あーあ、明日の祝日も出勤だ〜。
 なんか損した気分だあ〜。

 ん?、思いっきり、現世的物質的価値観に囚われてるって?。
 ですよねえ・・・。
 「2005.12.21(水)」晴・集中
 
 最近ようやく「集中する」ということの大切さが良くわかってきた。
 僕らは、普段いろんな想念を頭に浮かべる。
 その中には雑念・邪念・思い込みの念など様々なものがある。

 そういう様々な想念の中から、本当に必要なものだけを選択し、他の念は排除しなくてはならない、それがつくづく大切だということがわかった。
 この無駄な念を排除する、ということこそが集中する、ということなのだ。

 例えばブルーになる時は「嫌な予感」といったものが頭を支配する時がある。
 これなどは、数多くの雑念の内僕らは、わざわざ不必要なものを被害者意識に任せて選択した結果だということが多い。

 本当は、その嫌な予感が”適切であり本当に現在必要なもの”と確かに認識できるまでは、意識に留まらせるのは反って害になるだけなのだ。
 否定的で無駄な雑念ばかりで頭を一杯にすると、ミゾオチ辺りがキュッと痛んできたりする。
 言い知れない不安ばかりが押し寄せてくる。それで全体的にボルテージがダウンしてしまうのである。
 本当の直感なら心は平静でいられるはずだ。

 だが、この”一瞬に意識を本当に必要なものに集中させる”というのは結構難しいのだ。
 雑念悪念邪念は時に波のように荒れ狂うように襲ってくるからだ。
 まだ手なずけられていない自分の中の未熟なドラゴンが、コントロールもままならないまま炎を吹くように雑念悪念邪念を頭の中に巻散らすのだ。
 その雑念悪念邪念をカットし、泥の中から宝石を取り出すように、適切な念だけを想起する、それが集中であり、訓練がいるのである。

 人間、客観的に見ても何も心配することは無い状況なのに、心のクセでつい心配してしまう。それで否定的な心情に陥って鬱になってしまう。
 これは荒れ狂う雑念悪念邪念をコントロールできず、頭の中で暴れ狂うに任せ放置している為、エネルギーを食いつぶされてしまうからなのである。
 悪念邪念は、そのまま頭の中に留まらせておいてはいけない。害になるだけだ。
 それを上手に飼い馴らし、その強烈なパワーだけをいただいて善なるものに昇華させるべきなのだ。

 僕は雑念悪念邪念が浮かんで飲み込まれそうになった時、それを排除する為に、とりあえずイイ想念で頭を満たすように心がけている。
 こうすると心が落ち着いて集中しやすくなる。
 その為にいつも思い浮かべる良い波長のものを用意している。
 それは快晴の日に旅をしている情景だったり、その情景にBGMとして流れる好きな音楽だったり、などだ。

 「自分の夢」に関する事柄をイメージすることは、良い想念で頭を満たすという目的にとっては、特に効果があるだろう。
 何せ希望が溢れてくる。
 「自分の夢」に関することなら、いつだって心に留めておいても害はないだろう。
 むしろ常にそうして、その波長で「自分の夢」に関することをおびきよせやすくしておくことこそ、最もやるべきことなのかもしれない。
 「2005.12.20(火)」晴・人の振り見て
 
 寒くなって、やたら体中のあちこちが痒い。
 特に背中や尻などのバック系の部分を夜中に無意識に掻きむしっているので既にヒリヒリ痛いのである。
 きっと今背中も尻も悲惨な状態になってるに違いない。
 SMショー終演後のマゾ男君の背中の如き様相を呈しているに違いない。

 人間、自分自身というのはなかなか簡単に知り得るのは難しい。
 自分の背中や尻の状態でさえそうだ。

 ましてや自分の心の内面などは、そう簡単には把握できないものだ。

 ところが、こんな自分を自分自身でなかなか知りつくせない人間の為に、宇宙は実に巧妙なシステムを用意してくれた。

 それは”他者に自分を投影するシステム”である。
 もっと詳しく言うと、自分と同じような心的傾向を持った人間を引きつけさせ、その人間が自分の目の前で行動しパフォーマンスすることによって、自分の心的傾向を、その人物を通して客観的に把握できる、というシステムなのである。
 まるで相手が鏡のようになって、その鏡で自分を見ているように把握できるのである。
 ことわざ「人のフリ見て我がフリ直せ」というのは、このシステムの主たる仕様を的確に表現した優れた諺だ。

 当然このシステムの要件を満たす為には、自分と同じ心的傾向、波長を持った人間を集めることが必要になってくる。
 それで宇宙は同じ波長を持ったモノが引き合うようにした。
 ことわざ「類は友を呼ぶ」は、まさにこのシステムのことを見事に的確に表現した優れた諺だ。

 このシステム使用中、時に自分を投影した他者・相手に対し「自分はこんなにはヒドクは無い。こんな性格では無い」と仕様を疑いたくなる事態が発生する。
 だがこのシステムは案外正確だ。
 そのヒドイ相手は、自分の中のまだ目覚めていない”眠れるドラゴン”を垣間見させてくれているのかもしれない。
 他の局面では露呈する自分の荒れ狂うドラゴンが、自分の前で少し変容して現れているだけなのかもしれない。

 このシステムが提供するところのものは否定的な側面ばかりでは無い。
 勿論良い側面だってある。
 尊敬できる人物に巡り合え一緒に過ごすことができたら、自分にも、その善なる種子が備わっていると見ていいだろう。
 その人のようになりたい、その人のイイ面を学びたい、と思ったら、もう既に自分にはその資格・素質が十分にあると思っていいだろう。

 他者に投影された自分自身を把握完了した時点で、このシステムはEXITする。
 そして今度は又新たなステップに進み、システムは更にバージョンアップしていくのである。
 「2005.12.19(月)」晴・愛と霊性が不可欠
 
 最近霊的なものに対する一般的な認識が以前とは変わってきなような気はする。
 ”全く不可解なもの”から”もしかしたらあるのかも”というように変わってきなような気はする。
 少しは良くなって来たような感じがする。

 霊に関しては、全て信じろ、というのは無理だろう。
 見たこともないものを信じろという方が確かに無理な注文だ。
 ただ、それが、ある可能性がある、などというように、受け入れる心は持った方がいい気がする。

 全く扉が閉ざされてしまっているのと、開いているのでは雲泥の差がある気がする。

 残念ながら現代は全く心を閉ざしている人が沢山いるようだ。

 現在地球人口の増加問題が、いろいろと取沙汰される。
 でも一説には、地球はまだ何倍もの人口を受け入れるパワーを持っているという。
 僕もそう思う。
 太陽から毎日、あんなにエネルギーが降り注いでいるのに。
 なぜ世界には不平等な問題があちこち起っているのだろう?。

 たぶん、どっかでエネルギーの流れがせき止められていて一部の人にだけ過剰に流れている。
 そのせき止めている何かを取り外せばイイのだと思う。
 それだけでもかなりの問題が氷解するような気がする。

 まあ、それはさておいて、人口が増加する、というのはそれだけをとってみれば、それはさほどの問題では無い、と思う。
 では何が問題なのか?。
 それは”霊性と愛を失った人間の増加”が問題なのだと思う。

 地球も人間も宇宙と霊と繋がっている。
 でも人間は、自らその繋がりを断って、地上的な快楽・欲求だけ追い求めようとしている。
 自らの悪性を浄化向上できず、上位の世界に入っていけず、何度も何度も輪廻を繰り返し、また地球上に再生してくる。

 地球では多様な人間、多様な世界の中で様々の魂の学びができるという。
 僕らのバックアップをしてくれている霊達は、そうした僕らの学びを心待ちに待っている。僕らが成長すればバックも成長する。
 そうして本来宇宙や霊と繋がるべきものが、霊を忘れ地上の物質的な快楽や欲だけに執心してしまったら、地球の本来の役目から大きくはずれてしまい、霊から切り離された物質的な人間がウヨウヨ乗っかっている地上に対して、霊的な地球はそれこそ本当に止むを得ず何らかの自浄作用を起さざるを得なくなるだろう。

 愛と霊性に満ちた人間なら、地球上に沢山いたって大丈夫だろう。
 もっとも、そういう人間が沢山いたなら、世界視野で物事を考えられるだろうから、人口とかいろんな面で適度にバランスのとれた世界を現出すると思われるが。

 まあ霊性といったって、深いものがあるので、一朝一夕にどうにかなれというのは無理だろう。
 だから最初は、まず霊に対して心を向ける、だけでもイイと思う。
 向いてると向いて無いとでは、大きな違いがあるからだ。
 ここで先祖について考えてみるのもイイと思う。

 それから愛。
 ビジネスをやるにも勉強するにも何をやるにしても、その根底は愛に満ちているか?、動機は愛か?、そうしたことがもっと真剣に問われる時代が来るといいと思う。
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