Monologue2004-13 (2004.4.2〜2004.4.11)
 「2004.4.11(日)」晴時々曇・鳩ヶ谷に思う
 
 埼玉高速鉄道が開通する際に初めて鳩ヶ谷近辺を歩いた。
 あれから丸3年経った。
 たまに訪れる余所者の僕でさえもハッキリ感じられる位鳩ヶ谷駅近辺も徐々に姿を変えつつあるようだ。
 僕の印象では実は3年前とは、かなり変わったような気はする。無かったはずの大きな道があったり、大きな店や奇麗な店が、何時の間にかできている。

 埼玉高速鉄道自体は経営が思わしくないようだ。
 僕としては微妙な気持ちである。繁栄するということは人が集まるということである。
 只、時として、それが必ずしも最善の状態であるかどうかは、実際のところわからない。
 人が集まらない状態を良しとする、僕のような捻くれた考えを持ったものもいる。

 徐々に発展しつつあるとは言え、鳩ヶ谷辺りはまだまだ都心部からすると僻地のイメージがある。僕としては本音を言うと、もうこの程度で発展は十分だと思ってしまっている。
 しかし、このままの状態であったら鉄道の存続自体を問われることにも絶対ならないとも言えない。

 人が集まると何かが破壊され犠牲になる。自然が、その損な役回りを担うことが多い。
 人が集まらないと、その変わり何かが保たれる。勿論自然だ。
 人が集まれば繁栄、集まらないと過疎。
 今の人間の価値基準は「繁栄」という言葉の方に重きを置いている。

 人がいない方が良いと思うのは、偏屈なのかもしれない。すなわち繁栄を忌み嫌っていることにもなりかねないからだ。当然人あっての地球に居て根本的な部分を否定していることにも成りかねない。
 このような意識が潜在にあると、自分の人生も繁栄を望まない=孤独、ヒッソリと暮らすのが好き、というように、まさに自分の人生そのものに影響を与えてしまっている可能性もあると言える。

 僕自身、本当に繁栄を望まないのか?と言われると、そうでは無いとは思っている。
 只一つ言えることは、「繁栄」以外の価値が他にあるのでは無いか?と心の片隅に感じていることである。
 それがどういうことなのかは、今現在は明確にできない。わからない。これから明らかにしていくしかないのだろう。
 「2004.4.8(木)」晴・感情を自在に使う
 
 なんじゃ、東京は寒いのう。

 ところでよう、感情ゆうもんは、実に厄介なもんじゃのう。
 人間は、こん感情を持て余し制御でけんとこに未熟さんある。己の中に渦巻く感情を、どうしてエエかわからんとこに、生きる苦しさんある。
 じゃからゆうて感情を抑えたりしちゃいかん。勿論暴走させちゃ、もっとあかん。
 感情は自在にコントロールできりゃ、大きなパワーになりよる。そんパワーの方向が正しく世界に向かって流れりゃ、かなりのもんが成せる。
 じゃで人は、こん感情を上手く使うことを覚えていかにゃならん。
 感情を創造、美、愛、ユーモア・・・、周りのもんの助けになるよう、そっちに向けて浄化し発信するように訓練せにゃあかん。

 ん?、ワシ?。
 そりゃあ、勿論訓練されとるよう。
 己の感情をぜ〜んぶカワイイオネエチャンに向けてジャンジャン発信しとる。オネエチャン限定での。野郎になんぞ発信するわきゃ無いわ。わっはっはっは!。
 ん?、差別?。不平等?。愛の精神の風上にも置けないのは勿論、風下にも置けない?。
 なんじゃと〜っ!、ワシの感情、ワシがどう使おうとワシの勝手なんじゃあああっ〜っ!。おどれら黙っとりゃエエんじゃああっ〜っ!(早速感情暴走させてます)。
 「2004.4.6(火)」晴・歩く、いろんな意味で
 
 歩く、ゆうはエエのう。
 人にゃ変に思われるかもしらんが、ワシゃ街道を散策する時、道や街と心ん中で対話するようにして歩いとる。
 ”あん突き当たりはドッちに行ったらエエんかのう?”
 ”昔は、ここで何があったんかのう?”
 ”昔も、ここを奇麗な女子が通ってたんかいのう?、それをいつも見ておった恋する男子がおったんかいのう?”。
 ほいで必ず音楽も持って歩いとる。音楽は欠かせん。その情景と音楽が一体になった時に、心が今までと違うステージに行きよるんが、良うわかる。
 ワシにとって、散策ゆうは単なる移動じゃなあでの。
 「2004.4.5(月)」晴・中山道〜再放送
 
 テレビ埼玉の「中山道風の旅」ゆう番組んある。
 先週でシリーズは一先ず最終回を迎えよった。ほいで今週からは「美濃・近江編」ゆう今までやっとった最終シリーズの再放送を早速やってくれとる。
 ワシが見られなかった前の分が見られるで有り難いこんでの。
 こん番組はエエ。静かな古い道の絵は旅情に溢れ、時に詩情も有り、旅人の村松健さんの作ったBGMも良う合っとる。埋没しとった日常からワシを救ってくれよる。
 「2004.4.4(日)」雨・雨の自室では
 
 ワシゃ今年42になる。人生の半分は過ぎたかのう。
 この年だと、自分の人生これでエかったんか?、もうやり直しはきかんのか?ゆうて、良く諦めたような心持ちんなるこんも、しばしばじゃ。
 そがな思いに駆られると、たちまち失速してよう、なんようガス欠んなったような、シラ〜っとした投げやりな気分になるのう。特に、こがな雨の日曜の夜とかよう。

 じゃがよう、ワシより、ずっと年上の人からすりゃ、40の頭くらいで何を諦めとんじゃ、ゆうて思われるかもしれんのう。ワシからすりゃ20、30代で諦めるんが早すぎるゆうて思うのと同じじゃのう。
 よう考えてみりゃ40ゆう数字に、いろんな思いや先入観を込めとんのは、他ならんワシ自身じゃでの。
 ワシが数字に囚われにゃ、40じゃろうが50じゃろうが人生は、いつだって未知の展開に溢れとる。

 最近日常に埋没しすぎて、ワシゃ自分らしいビジョンの良いイメージ持つんをスッカリ忘れとるんかのう。
 数字に囚われたゆうんは、やっぱエネルギーん不足して、どっか被害者的なドラマを演じたがっとるダークサイドな自分がおるんじゃろうの。
 ああ、またどっか知らない街に行きたくなってきよった。
 「2004.4.3(土)」晴・やっぱ自然
 
 ワシの住む稲城の里も桜が満開のようじゃった。
 散歩にもエエ季節になってきよったのう。
 うちの近くじゃ、なんよう新しい道路んでけるゆうて、建物ん取り壊されたりしよっとる。
 乱開発ゆうんは空しいもんじゃのう。
 ところで、そん建物が取り壊されたこんで、一時的に視界が開けよった。たぶん道路が出来るまでじゃろうけえがのう。
 ほしたらよう、そこんバックに稲城の丘陵が見えるようになったんよ。
 あー、なんじゃ・・・昔はこがな景色じゃったんじゃのう・・・。
 山の緑にポツポツと桜が植わっとるんが奇麗に見える。
 やっぱ人間の作ったもんは自然には叶わんよのう。
 「2004.4.2(金)」晴・オザワがバラエティ
 
 日テレの「爆笑問題のススメ」ゆう番組を録画しといたんを見た。
 あの世界的指揮者小沢征爾の娘さんの征良(せいら)さん、ゆう人んゲストで出ておった。奇麗な娘さんで、エッセイストやっとるんじゃそうじゃ。
 ところで、そりょお見てたら驚くべきこんが起こった。
 なんと父親の小沢征爾本人がスタジオに見学に来とった。こりゃびっくりした。
 本編には照れて出なかったんじゃが、トーク終了後セットに出てきた。
 爆笑問題の横に小沢征爾がおる。奇妙な絵じゃった。富士山の中腹に新宿があるようなもんじゃった。じゃがエエもん見た。
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