Monologue2002-18 (2002.4.6〜2002.4.8)
「2002.4.8(月)」晴・蜘蛛の糸

 最近は電車内で携帯のメールを打っている女性も多く、その人のプライバシーの一部が僕などのような第三者に知られてしまうこともある。
 しかしこれに関して女性側は、それ程プライバシーを死守するという感じでも無い。中にはむしろ見せてやろう位の開放度の女性も現に存在する。
 このように電車内というのは、女性のプライベートな部分がしばしば露呈する空間のようだ。
 それ程リラックスできるというのだろうか?。

 僕などは”睡眠中の顔”というのはなるべくなら見られたく無い。
 従って人前で睡眠を取らざるを得ない場合は、顔を伏せることにしている。
 ”睡眠中の顔”は、僕の中ではかなりプライベート臭の濃厚な部分である。
 先日はそんなプライベート臭の濃厚な部分を、思い切り良くこちらにご披露してくれた女性を見かけた。

 新宿に向かうとある電車の中、吊り革に捉まる僕の前に女性が座っていた。
 目を閉じている。寝ているようだ。ちょっとポッチャリめで、垢抜けていないようにも見えるが、年齢は若そうである。20代だろうか。
 最初僕の視界の下方に彼女の頭部が常駐していたが、しばらくするとそれが定期的に見え隠れするようになってきた。
 最初は規則的だったその動きも次第に激しく乱れて来た。
 僕はなぜか恐る恐る彼女の座っている下方部に視線を移し、彼女の現在を直視する決断をした。

 彼女は自らの頭を、時には前後、時には右に(なぜか左にはいかない)揺らしながら爆睡していた。
 右側には手すりがあり、時折ゴツゴツと頭をぶつけているが、全く痛いような素振りは無い。よほど眠たいのだろうか。
 それ程致命的な痛さでは無いのか、それともむしろ心地好い痛さなのか、定期的にブツケルがままにさせているのであった。

 後ろに首がガクンと折れる時なぞ口を半開きに空いた、ある種恍惚の表情ともとれるプライベート臭の濃厚な素顔を露呈させてくれる。
 ちなみに彼女はどうも結構な巨乳らしく、胸の両山部が密接したことでできた割れ目、並びにその山の上部の丘陵部分が、彼女の黒い衣装からムチっとした御姿を覗かせている。

 その内僕は彼女のちょっとした異変に気づいた。
 正面を向いた時に見えた彼女の下唇が、うっすら濡れていた。いや、うっすら、だと普通でもそうだからな・・・。しっとり・・・、いや、ハッキリ言ってしまおう。ビッチョリ。グショグショ、の方が状態の表現としては近そうである。
 つまり、もう滴る寸前の状態なのであった。
 半開きの口と、そこから突き出した下唇、更にそれをヒタヒタと覆う透明色の分泌液、これらが、なぜか妙にエロティックに見え無くも無い。

 下唇をヒタヒタと覆う透明色の分泌液、通称”よだれ”、はまさに滴下の危機に瀕していた。
 しかし寸前のところで身体が本能的に察知するのか、目を閉じながらもフッと顔を上げ、滴を啜る動作を行っている。
 只これが完全では無く、一時的に口中に水分を逆流させただけで、水分を全て除去した訳ではないので、しばらくすると、又元の状態に戻って行く。その時にオマケ、というのも何だが、戻って行く水分と共に呼吸用に使用された空気がアンサンブルし、蟹のような泡を産み出すのである。それが必ず1つだけ、1cm弱程度の大きさのものを作って行く。そしてしばらくするとパチンとはぜ、消えて行く。
 この思いがけない車中のアブクは、まさに刹那的な芸術と言いたくもあり、言いたくも無し、である。

 その内彼女の頭が前方にガクンと折れた。今までに無かった大きな動きだ。
 僕は不吉な予感がした。
 彼女の顔は前方に伏せたような状態になり、一時的に僕の視界から消え、彼女のリアルタイムの口部状態が僕には把握できなくなった。
 ”もし半開きの状態が続行していたら、あのままではまず間違いなく滴り落ちるな・・・”

 僕は不安ながらも、半分期待するような心持ちで様子を伺っていた。
 もうそろそろヤバイんじゃないか、と思われた頃、彼女はガバッと身を起こし、当初の姿勢に戻った。
 僕も、半分残念、半分ホッとするような気持ちになる。
 しかし、この後遂に来るべき時はやって来てしまった。

 再び彼女の頭が前方にガクンと折れた。
 今までに無い静かな、長いインターバルが訪れてきた。僕と彼女の間の時間が、一瞬止まったかのような錯覚を呼び起こす。
 ”今回はヤバイ。必ず来るよ、こりゃ・・・”

 と思った次の刹那、項垂れた彼女の頭の下辺りに何かがキラリと光った。
 そして、その光は満を持したかのように、ツツツーッと、厳かに、ある種威風堂々たる雰囲気を醸し出しつつ、ゆっくりとゆっくりと落下して行ったのであった。
 僕には、その透明なキラめきは、幼少の頃見た、セミの幼虫が孵化した直後のエメラルドグリーンのキラメキを彷彿させた。
 そして芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説の題名が思い浮かんでくるのも禁じ得なかった。

 透明なキラめきは、彼女の腕に滴り落ちると、その後静かにトグロを巻くように、その場に自らの安住の地を定めて行き、そして途切れた。

 しばらくして未だ顔を上げない彼女の口と思われる辺りから、再び第2波の蜘蛛の糸が、厳かにそして静かに落下して行くのが見えた。
 僕は芥川の小説に出てくる”カン陀多(かんだた)”になったかのような、その糸が悦楽の境地に導いてでもくれるかといったような、幾分憧憬にも似た心持ちで、その糸が垂れて行くのをジっと見守るのであった。

 何か僕までもが大仕事をやり遂げたような心地であった。
 電車のアナウンスが次の駅への到着を告げる頃、ようやく彼女は通常意識に戻り始めた。
 未だ項垂れた姿勢だったのが幸いしたのか、彼女は逸早く自分の衣服に、見慣れないキラメキが付着しているのを発見したようだ。
 幸いなことに、彼女の先程の生態の一部始終は、僕以外には悟られていなかったようだ。回りの乗客はそれぞれのことに没頭していて、彼女の異変には目もくれていない。

 うつ向いたままの彼女の手が、静かに静かにキラメきを拭い始めた。どうやら完全に起きたようである。
 駅に着くと彼女は荷物を抱え、そそくさと降りて行った。
 ところがその際、前にいた僕にキッと一瞥をくれていった(ような気がした)のである。
 あの一瞥は、一体何だったのだろうか?。
 ”まあ、好みのタイプっ!!”などでは無いことだけは明らかである。
 だとすると・・・やはり・・・。
 どう考えても”見たな〜〜あああっ!!”である可能性が非常に高い。

 ああっ!!、見るんじゃなかったっー!!。
 まるで糸に登った後、我も我もと登ってくる地獄の罪人たち見て、自分だけが登ろうというエゴを顕にした途端糸が切れ、やがて自らも再び地獄に落ちてしまったカンダタになってしまったような気持ちに苛まれる。
 この日以来僕は、蜘蛛の化け物が出て来て、糸で僕をガンジガラメにするという悪夢に襲われ続けている・・・(ん?、そりゃ作っただろって?。ははは、わかりましたか)。

「2002.4.7(日)」曇後晴・前世への興味

 大学時代、精神世界・宗教・ニューエイジ思想などに興味を持ち始め、その流れから「前世」というものをテーマにした幾つかの書物を読んで「前世」というのを意識するようになった。
 例えば「輪廻転生(人文書院 ジョエル・L・ホイットン、ジョー・フィッシャー共著 片桐すみ子訳)」やエドガーケーシーの一連の言行録シリーズ、ルドルフシュタイナーの一連の著作などが、その主なものである。

 それで、ちょっと大雑把になって申し訳ないが、端折って言うと、前世で縁のあった場所・人・物・趣味などには今世でも縁が生じる可能性がある、というようなことを、それらから知ることになった。

 僕は、なぜ人によって生来的に能力や嗜好の違いが出て来るのか、人生に差が出て来るのか、疑問に思っていたが、ここに前世の概念を適用すると割とスムーズに考えられるので、僕としてはこの考えが結構気に入った。

 今生きている中で、これといった理由も無いのだが、なぜか何となく惹かれる場所などがある。
 僕の場合、奈良・出雲、そして小さい頃から行って見たかった東京、それから東海道と中山道の周辺の街、そして近年の旧鎌倉街道・・・等々。
 これらはもしかして僕の前世と関係あったのだろうか・・・?
 とても知りたい。
 精神世界的な観点からいうと、この答えを一番良く知っているのは他でも無い”自分”だという。
 ”前世”というと直前の生のイメージがあるが、輪廻転生の考え方からすれば、人間は何回も生まれ変わってきているから、まあ”過去世”と言った方がいいかもしれない。

 今のところ、この”過去世”という概念が、僕を不幸に陥れたり、僕を間違った方向に導いている、といったことは無さそうだ。
 むしろ人生を神秘的なものと思わせてくれる点で、楽しみを与えてくれこそすれ害にはなっていない。
 ”過去世”という概念は、未だ僕にとっては夢のようなものであり、害になるほど、実際明確に解き明かされた事象も理論も無いからでもあろう。

 ”過去世”があったと考える方が断然面白い。
 僕は面白い生き方を選びたい。

「2002.4.6(土)」晴後曇・怒りが溜まって・・・

 少し前までかなりの腰痛に悩まされていて、椅子に腰掛けて立とうとすると全然立てず上半身を曲げた、変な姿勢にならないと立てないという有り様だった。
 寝返りを打つと突然痛みが走り、おそらくギックリ腰の寸前だったのだろう。

 この1年くらい、ほとんど腰痛が出ていない。医者には行っていない。
 どうやら「腰痛は<怒り>である(長谷川淳史著:春秋社)」という本の効果が出たようなのである。
 新聞広告でこの題名を最初目にした時に、僕はピイイインときた。
 早速読んでみたが、勿論すぐに効果が現れる訳でも無く、半信半疑のまま時が過ぎた。

 今振り返ってみると、あれから腰痛が出ていないのである。
 とはいえ腰の辺りに、まだ多少違和感があるので、これはいつか最終的に専門医に詳細に見てもらった方がいいのだろうけれど、今までのように生活に支障のあるような激痛は全く出なくなったのである。

 この本は主としてアメリカのサーノ博士の説いた腰痛理論「TMS」をわかりやすく解説したもので、詳しい本の内容については、本書の一読をお薦めすることで変えさせていただくが、ざっと述べると次のようになる。

 人間は感情を噴出させ、自分でそれがコントロールできずにパニックしてしまうことを恐れる。そしてそれを避けようと、噴出しそうな感情を抑圧し防衛機制をするようになる。
 実際どのようにするかといえば自分の注意を、抑圧された感情では無く別の方向に向けさせるのである。
 つまり本題から目をそらし、別な重大問題を捻出し、そちらに気を向けて、本題に注意を向けられない理由、すなわち言い訳を別に作るのである。
 それが身体の痛みなのである。
 注意をそらすものとして”腰痛”、広い意味で”病気”といっても良いが、これ以上うってつけの代用品は無い。
 良く、大事な局面になるとケガしたり病気になったりするが、ケガや病気が理由なら人は何も言え無い。
 ケガや病気はその局面から逃げる、最も適切な理由になるのである。

 ある種の人間にとっては「腰痛」が代替となり、それを引き起こす要因となった抑圧された感情の主要なものが「怒り」だというのである。行き場を失った怒りは、どうも腰に溜まっていたようなのである。
 腰痛持ちは、何か表に出せない「怒り」を抱えているらしいのである。
 (上に述べた事柄はあくまでも本書の内容の一部なので、この文の印象が本書の全体像だとしてとらえることのないよう、最初にお断りしておきますね)。

 僕は深く納得した。
 ストレスが溜まると胃に来るという話は良く聞くが僕には無かった。しかし実際は腰に来ていたのである。

 それからは怒った際は、何に対して怒ったか、原因や対象をハッキリと自分に意識させることにした。意識されない怒りが行き場を失い腰に来てしまうのを極力避けるためである。
 それで更に、どうにかしてそれを早い内に何らかの形で発散させることにしたのである。
 どうやらそれが功を奏し始めたらしい。勿論コレだけでは怒りの原因自体が解消される訳では無いが、それが腰に来ることはどうにか避けられるようなのである。

 混迷していた物事が明確になってハッキリするとスッキリするが、それは自分の身体にも当てはまるのかもしれない。

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