Monologue2002-07 (2002.2.16〜2002.2.20)
「2002.2.20(水)」晴・息苦しくて

 朝起きて、若干鼻づまり気味のままシャワーを浴び洗髪する。
 その状態で頭の上から温かい湯を浴びていると、たまに息苦しくなって思わず、お湯から逃げ出してしまう時がある。
 まるで水の中で溺れてしまうかのような息苦しさと恐怖感で、その後はもうシャワーを浴びることができなくなるくらいビクついてしまってたりするのである。

 ところが全く同じ体調でシャワーを浴びているのに、何とも無い時もある。
 そういう時は何が違うかと言うと、苦しい云々では無く、全く別なことを一所懸命考えているのである。
 そんな時は頭を洗い終わって「あれ?、そーいや今日何とも無かったな」などと、全く無問題なのである。

 どうやら「息苦しいゾ」、ということを一旦考え始め、そこに焦点を当て始めると、息苦しくなってしまうようである。逆に、そんなことを全く意識していないと、何事も無く通り過ぎて行ってしまうのである。

 何かについて思う、考える、ということは意外に重大なことであるような気がして来た。
 確かに、思う、意識する、ことから全てが始まる時もある。
 逆に思わない、考えない、ことは、何かを始めさせないことになるだろう。
 うん。なんか難しくなったな。

「2002.2.19(火)」晴・サムシング

 昨年亡くなったone of the beatle、ジョージ・ハリソンも数々の名曲を残したが、ジョージのソングライターとしてのピークは、ビートルズ時代というよりも、むしろそれ以降にあるといえるようだ。ビートルズ晩期から解散以後に名曲と呼ばれる作品が多く出ているようである。
 勿論ビートルズ初期からも光るものはあったが、評価が確立するのは後期の通称「ホワイトアルバム」で発表された「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」あたりからのようだ。

 ところでビートルズ時代においては事実上のビートルズ最終録音アルバム「アビーロード」で、その才能もジョン、ポールに比肩し得るまでに開花したのがわかる。
 その2曲「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、ビートルズ屈指の名盤とされる、この「アビーロード」の中でも更に、一番好きな曲は?と聞かれ、このどちらかを推す人も結構多いのでは無かろうか。
 僕も「アビーロード」の中ではポール(マッカトニー)の「ゴールデンスランバーズ」か、「サムシング」が、このアルバムの色を強く感じさせてくれて大変好きな曲である。

 「サムシング」では曲全体が既に超越的な雰囲気で非常に完成度が高い。
 更にはその曲調もその後の1970年代のソフト&メロウな路線を予見しているかのようである。
 ちなみにこの曲では勿論ジョージのソングライティングの才能が光っているが、ポールの活躍も見逃せない。
 有名なメロディアスなベースライン、それからさりげないが絶妙なコーラス。ここでのポールのバックはたまらなくカッコよく、しびれちゃうのである。特に中間の展開部での2回目の「I don't know, I don't know」の後側の「I」の部分で、3度の高音で遠く仄かに被ってくるところなんか非常に良い。
 僕をして「神の声」と呼ばさしめているハモリである。高音だが裏返っていないとこがいい。
 ジョージの曲にポールが強力なバックアップ、大げさに言えばまさに神々の饗宴、天照大神とゼウスとシヴァと天神さんとお稲荷さんに・・・もう、いいか。
 とにかく「サムシング」には、これがビートルズの到達した境地なのだ、などと思わせるものがあるのである。

「2002.2.18(月)」晴・郊外の高層マンション

 一昔前は高層ビルと言ったら都心だけのようなイメージがあった。
 しかし最近は都内の随所で高層マンションなどが見受けられるし、郊外にも遠くからすぐわかるような高いビルが聳えているのが見られる。
 僕はずっとで無くても良いのだが、しばらく郊外の高層マンションの高い方の階に住んでみたいなと思う時がある。
 郊外のビル程、回りに視界を遮るものが無いから、さぞ眺めがいいだろうなあ・・・。
 高い所からの眺めが好きな僕にとっては、そこから遠くに見える朝から夜にかけて変化する街の景色は、さぞかし疲れを癒してくれそうである。

「2002.2.17(日)」曇後雨・何の為に旅するか

 今日のNHKBS2の番組「心の旅〜プエルトリコ・晩年のカザルス」という番組の中で、尊敬するカザルスが晩年を過ごした縁の地プエルトリコに行くことができ、そこで念願のチェロ演奏をすることができたチェリストの溝口肇氏が、そこで感じたことをしたためていた日記の言葉が印象的だった。
 ”僕はこんな幸せな場所で、自分の楽しみの為だけにチェロを弾いていて良いのだろうか。”

 芭蕉の「奥の細道」には事実と相違する創作的な部分も多分にあるようだ。
 もしかしたらこれは、自分の旅が、自分だけのものとして終わらせてはいけないと感じていた芭蕉のアーチストとしての精神の発露の一つだった、とは言え無いだろうか。

 ちょうど昨日アウトドア派とインドア派のことを話題にした。
 結局アウトドアだろうがインドアだろうが、それが自分の楽しみだけのもの、に終わってしまうのではツマラナイ、と僕も感じている。
 だから「精神的インドア派系アウトドア派」は、四苦八苦しつつも、その模様をどうにかこうにか面白おかしく表現してみようと、日夜インドアで考えてはいるのである。

「2002.2.16(土)」晴・自称アウトドア派

 良くアウトドア派かインドア派か、ということが言われる。
 一般的には、アウトドア派は仲間たちと外でスポーツやイベントなどに興じ、外向的で明るいイメージがある。
 インドア派は家で自分の趣味などに興じるが、何をしているかわからぬところが、内向的で暗いイメージになっているようである。

 僕は何を隠そう、アウトドア派、である。
 ん?。どーしてテメエがアウトドアなんだよっ!て?。どこを、どーとったって、バリバリのインドアじゃねえかっ!って?。

 アウトドア派だったら、40近くにもなってアイドル好きじゃないよね。
 僕は違うよ!。
 僕が好きなのは、モーニング娘。でしょー、平田裕香ちゃんでしょー、それから最近では乙葉ちゃんなんかもいいし・・・・・・わっ、アイドル好きやっ!。

 ま、冗談はさておき、確かに僕の部屋を見たら、昔幼女暴行か何かで捕まった某の部屋にソックリと言え無いことも無く、確かにCDコレクション、夥しいビデオ・DVD括弧エロも含む括弧閉じ、の類い、を見るにつけ、どこからどう見てもインドア派、ハッキリ言っちゃうと、”オタク”の部屋と呼んだ方が近い。

 それでもそれでも僕は声を大にして言っておくが、アウトドア派、なのである。

 アウトドア派の方々は、休日などは家でジッとしてられない、などと聞く。
 「休みの日は外出」、これがアウトドアに必要な条件なのである。
 僕はこの基準を、ちゃんと満たしている。
 アウトドア派の方々は、晴れた日に家でジッとしているなんて気が狂っちゃう、などと聞く。
 僕も全く同感である。

 ここで薄々感づいてこられた方もあるかもしれぬが、僕の自称”アウトドア派”分類は、実の所、かなり条件付きの派閥分類であることを告白せねばいけない時間になってきたようである。

 ”アウトドア”とは”屋外”の意である。
 すなわちグループである必要は無い。一人でも屋外が好きなら、それは純然たる”アウトドア派”なのである。
 僕は一人で屋外を歩いたり、知らない街にブラリ途中下車するのが大変好きなのである。ま、大雑把に言うと「放浪」とも言えるが。

 きっと逆に、外へは一歩も出ぬが常に家に人を呼んでパーティなどをしている大変社交的な人でも、それは外に出ぬ限りはアウトドア派とは言えぬだろう。
 もしかしたら僕の”アウトドア派”も、本家”アウトドア派”の方々から言わせれば、”邪道アウトドア派””似非アウトドア派”などと非難されそうである。
 確かに”アウトドア派”必携の3種の神器である「車」「アウトドア用品」「女」は、どこにも見あたら無い(ん?、女が1種かよ)。
 しかし言葉の意味においては、正真正銘の歴とした”アウトドア派”なのである。

 ところで僕は、外を歩いている時は必ずウォークマンをして音楽を聴いている。
 ”インドア派”の方々の代表的な趣味と言えば、音楽鑑賞であろう。
 僕はアウトドアしながらインドア的音楽鑑賞もしているのである。

 音楽を聴いたり、街の風景を眺めたりしていると、瞑想的な状態になってくる。
 ”インドア派”の方々の中には、瞑想やヨガをなさっている方もあろう。
 僕はアウトドアしながらインドア的瞑想もしているのである。

 ”インドア派”と言えば、”オタク”、”オタク”と言えばアイドル好き、”オタク”の方々は家でアイドルなどのビデオを鑑賞なさったりもするであろう。
 僕はと言えば、アイドルでは無いが、行った先々の街々で、カワイコちゃんを見つけては、いつもニヤニヤしている。運良く女子校生の集団などを発見した日にゃあ、かなりの幸福感で悦に至れる。
 ここでもインドア派とやっていること、気持ちはカブっている。

 そう、僕のアウトドアは、精神的にはどうもインドアなのである。
 やってることは全くインドアなのである。
 どうやらアウトにいても元来がインドア的性格ゆえ、インの気分からは脱却できぬらしい。相当なインドア呪縛すらあるようである。
 気分はインドアだし、内向的だけど、偶々場所がアウトドアだっただけ、と言った方が早いかもしれない。大変下品だがわかりやすい言い方・比喩をさせていただくと、自慰を外でやってるだけ、みたいなもんであろう(単なる変態じゃねえかよ)。

 従って敢えて僕の自称”アウトドア派”分類を正確に再定義し直すとしたら、若者の分類に”渋谷系”などというのがあるように「精神的インドア派系アウトドア派」などと分類してもらった方が良いかもしれない。
 これで紛らわしければ「内向的アウトドア派」という言い方もあろう(屈折してるなあ・・・)。
 もしくは一人超然と精神的行為に励むのであるから「哲学的アウトドア派」或いは「形而上的アウトドア派」などと言っても良かろう(だんだん意味が見えぬようになってきたぞ・・・)。
 あるいは孤独だから「ロンリーアウトドア派」なんてのも叙情的でいいかな。あと”系”で言ったら、やっぱ巣鴨・大塚が得意だから「巣鴨大塚系?アウトドア派?」みたいな、・・・、ん?、もういいって?。

 ま、いずれにしろ女性から「まっ、活動的ー」などと言われモテルような”アウトドア派”閥、では無いことだけは確かなようである。

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