それは突然だった。
ハリーを寝かしつけ、リリーの淹れてくれた紅茶を飲みながら一息ついていた時のこと。
ふと、厭な空気の喧噪を感じ、ジェームスは訝しげに窓の外を見た。
煌々と光る満月、澄んだ星々。
別段いつもと変わったところもなく、閑静な夜だった。
しかし。
「リリー」
 見えない予感に突き動かされるように、妻の名を呼ぶ。
振り返ると、彼女も何かを感じ取っているらしい。不安そうな眼差しを寄越した。
原因は分からない。しかし、重い気の渦は秒刻みで濃くなっていく。
外の様子を見ようとジェームスが立ち上がった刹那、切り裂くような緊張が辺りを支配した。
咄嗟に愛用の杖を手に取り、子供を抱いたリリーの前に立ちふさがる。
そして低く囁いた。
「リリー、キミは裏口からハリーを連れて逃げろ。出来るだけ遠くへ」
「一体どうし…っ」
「いいから!早くしろ!」
 ジェームスの厳しい声に、リリーは黙って自分の杖を持ち
ハリーを抱えて裏口の扉を開けた。
最後に、縋るような瞳で一回振り返る。
「ジェームス…」
「…そうだ明日は丁度僕らの結婚記念日だね」
 メインディッシュはローストチキンのレモン風味がいいな。
そう言って悪戯っぽくウインクするジェームスに、リリーが泣き笑いのような表情を浮かべる。
それを振り切るようにジェームスは曇りのない月夜の下へと、飛び出した。
 
 
外へ出た途端、気圧される程の邪悪な気と強風がジェームスを襲った。
思わず顔を顰め、高々と呪文を唱える。
ふわり、とジェームスの身を新たな風が包み、砂埃にまみれた視界が晴れた。
 
「ジェームス・ポッターだな」
「お前は…」
 
 ヴォルデモート。
その名を呼ぼうとしたが、喉が乾いて上手く声が出ない。
鼓動が今まで経験したことのない早さを記録する。
それでも、ジェームスは目の前の存在から目を逸らさず
鋭い眼光で射抜くように見据えた。
 
「何しに来た」
「ポッター、お前に用は無い」
「じゃあ早くお帰り願いたいな、これから妻と夜の甘いひとときなんだ」
「この状況でまだ軽口を叩いていられるか…余裕だな。それとも単なる馬鹿か」
「解釈はお好きなように」
「まぁいい。私とて、お前達夫婦の時間を邪魔したいわけでは無い。
用さえ済めば直ぐ帰るさ」
「用…だと?」
「そう、お前の息子…ハリー・ポッターさえ私に引き渡せば
お前らは今まで通り、平穏な生活を送れるのだ」
「ハリー…」
 何故息子を。こいつの目的は何だ。
様々な疑問が脳内を駆けめぐったが、それを処理している時間は無い。
ジェームスは杖を握りしめた。
「…嫌だ、と言ったら?」
「貴様に選択の余地はない。下手に行動すると息子の命だけでは済まないぞ。
…ハリーは何処だ」
「ヴォルデモート」
「何だ」
「子供も生めない”男”がこの世界に存在する意味を知っているか?…それはな」
 
家族を守るためだ!
 
 その言葉と一緒に、ジェームスは溜めていた力を一気に放出した。
夜の闇をも拡散させる目映い閃光と、膨れ上がる熱量がヴォルデモートを巻き込む。
劈くような轟音が辺りに響き渡った。
 
「はぁ、は、……っ」
 
 荒れた息がやけに耳に障る。
今の一撃で、殆どの力を使い切ってしまった。
不意打ちは好みでは無いが、奴相手にそんなことを言っていたら
命が幾つあっても足りない。
ジェームスは、力を込めすぎて白くなった指を杖から引きはがし、
もうもうと立ち上る黒煙を眺めた。
…きっと、奴はまだ死んでは居ないだろう。
周囲の空気のざわめきから、その事実を読みとる。
しかし、今の攻撃で受けたダメージは少なくないはず。
まだ劣勢に変わりは無いが、残りの力を全て振り絞れば時間稼ぎになる。
 
息子と、そして妻さえ無事ならば、自分はどうなっても構わないから。
 
滴る汗が背中を濡らした。
煙がだんだんと薄れていく。
その中心へ、ジェームズが目を凝らしたその時。
 
「甘いな」
「・・・・・・・っ!?」
 
 耳元で、硝子を引っ掻くように厭な声が絡みついた。
振り向く暇も無く、強い衝撃に吹き飛ばされる。
その身体は、最初の攻撃の余波で崩れた岩場の斜面に叩き付けられた。
「っぅあ!」
 引き裂かれるような激痛に、思わず声を上げる。
全身が軋み、吹き出した血液がねっとりと地面を浸食して。
ぐらつく視界を持ち上げると、あの男が薄笑いを浮かべていた。

「不意打ちとは、随分アンフェアーじゃないか?ポッター君」
「・・・・・・・・」

 ヴォルデモートに目立った外傷は見当たらなかった。
攻撃を受けたとき、咄嗟にガードを張ったのか。
自らの目測の甘さに、ジェームスは苦々しげに舌打ちした。
「無駄な抵抗程無駄なモノは無い…さあ、息子の居場所を教えろ」
「だ…れが、お前なんかに・・・・」
「そんなに死にたいか…ならば貴様の望み通りにしてやる」
 ヴォルデモートは杖を高々と振り上げ、呪文を唱え始めた。
対抗するように、ジェームスは口の中で短い呪文を紡ぐ。

力が放たれたのは、ほぼ同時の出来事で。











ふ、と目を開ける。
鼻腔を突く焼けただれた景色の臭い。
視界が真っ赤に染まっているのは、きっとタイムリミットを知らせる警告音。
不思議と死への恐怖は無かった。
心残りなのは、愛する家族。
最期に飛ばしたのは、結界の呪文。
あれで食い止められるとは思わないが、足止めにはなる。
逃げてくれ 無事でいてくれ そして、幸せでいてくれ。
願いを込めて、ジェームスは空を見上げた。
先刻まで鬱陶しい程辺りを照らしていた月は、雲に隠れてしまって。
漆黒の夜空を眺めると、脳裏に浮かぶ彼の顔。
夜にひっそりと咲く、睡蓮のような彼。


愛していたのに、一緒になれなかったあの人。


君は今も、気難しい顔をしているのかい?
眉間に皺を寄せて、気を張りつめて。

だってほら

僕なんて、もう最後なのに君の笑顔が思い浮かばない。


ジェームスはくすり、と口の端に笑みを乗せ、空に向け手を伸ばした。
痛みは感じない。
そして最後の呪文を、恋人とベッドの中で囁く睦言のようにゆっくりと、紡いだ。



僕の力は、愛する家族に捧げよう。
最後の一欠片まで振り絞って、愛する家族を守るために。

だから、君には僕の命をあげる。

最後の一欠片を春風に変えて、寒さに凍える君を包み込んであげる。


だから、思い出して。


暖かい風を感じたら、少しでもいいから僕のことを。





君を世界一愛していた、僕のことを。




「セブ ルス」

































 漂ってきた湿気に窓の外を見ると、さっきまで澄み渡っていた夜空は曇り
しとどに雨が降っていた。
セブルスは軽く溜息をつき、読みかけの本をぱたりと閉じた。
時計を見ると、針はもう深夜を回っていて。
「もう寝ないと明日に響くな…」
 そう呟き、セブルスは書庫を後にした。
暗く、ちらちらと蝋燭の明かりが揺らめく廊下を足早に進む。
幾ら初春とは言え、まだ気温は冬に相当する。
「ローブだけじゃ間に合わんな…」
 思わず薄着で出歩いた事を呪いながら、歩く速度を早めた。
その時。

「・・・・・・・・・ん?」

 突然ふわり、と暖かい風が頬を撫で、セブルスは思わず立ち止まった。
その温もりが、何処か昔懐かしい想いを呼び起こして。
セブルスは自嘲気味に唇を歪めた。
















彼の訃報を知ったのは、翌日の早朝の事で。