白いページ

 久し振りに、開高健(かいこうたけし)のエッセイを読んだ。恐らく多かれ少なかれ誰にでもある事だと思うが、鬱状態になる事がある。そう言う時に本を読みたくなる。本は何でも良いと言う訳ではなく、内容もさることながら、スピード感が重要になる。鬱の原因により、スピードを変える。それも両極端に変える。この時は、人と会うのが苦痛で、兎に角、遅い物、重い物が読みたかった。それも知識の吸収を狙った物ではいけない。宙を漂わせた意識の中で形を保ちつつ淡々(あわあわ)と吸収もされず何時までも漂っている様な文章でないといけない。
 開高の文章は、思いも掛けない表現・単語が随所にあり、目がそこに引っ掛かる事で丁度良いスピード感になる。開高のエッセイで一番良く読むのが「白いページ」と題された三冊組のエッセイだ。これは、七三年に文庫本を買って以来、何かにつけ引っ張り出しては読む。七、八年振りに押し入れの段ボール箱から出して見ると、ページ全体が黄ばんでいた。しかし、数行を読んだだけで意識の端が茫洋と霞み、受け入れ態勢が整う。
 最初の一編で、スタインベックともう一編の掌(てのひら)小説を紹介して、開高は
「この二編のような文章のうち一行でも紙に書きとめられたらと、よく夜ふけに思いかえさせられる。」
と書いているが、あの開高にしてそうなのか、と言う思いと、さもありなんと納得する気持ちが交差し、この文章をどんな思いで書いたのか、と茫然としてしまう。
 私は物書きではないので、他人の文章を見ても身もだえする様な絶望感に苛まれる事はないが、アマチュアながら楽器を吹くので、出色のソロに出会うと感動と同時にどうしようもない絶望感に襲われる事がある。開高の気持ちを推し量る事は出来ず、その行為自体不遜であるが、私の感じた絶望感と同じであると思いたい。
 残念なことに開高健は既に他界しているが、その文体からは書くことに対する異常とも思える情熱が感じられる。特に食べ物を表現することに関しては情熱を通り越して執念としか言い様のない鬼気迫るものを感じる。開高の磨きに磨いた文章を目にすると、その背後にある妄執、固執、歓喜、情熱、諦観、いろいろな物が行間から垣間見え、その質量に圧倒される。
 自身も書いているが、食べ物について書こうとした時、その対象を食べまくる。それも徹底的に食べまくる。山菜なら山菜、蟹なら蟹を幾日も幾週間も、それだけを食べ続ける。それこそ緑の雲固が出るまで山菜を毎日三食、食べ続ける。そして、徹底的に食べ続けた先に、やっと端緒が見えてくると言うのだ。こういう話を聞くと、テレビの軽薄なグルメ番組など到底見る気がしなくなる。創造すると言うことは、その背後に膨大な量の物質と時間の浪費が必須だと思う。これは決して無駄ではなく、この浪費があるからこそ、闇の中から僅かに垣間見える鬼火の様な光明が見えてくるのであろう。