センセイ,それは無責任過ぎます。


 子ども達の長期のお休み時期になると,子ども向けの宿題対策,自由研究対策などを狙って,電話相談室や質問箱みたいなものがマスメディアに登場します。子どもと先生のやり取りを見たり聞いたりしているだけでも面白いし,大人でも知らなかったような知識が得られたり,いまどきの子どもの学習活動をめぐる事情も見え隠れしたりして,結構楽しめます。私の場合,子どもを相手に生き物のことや自然のことを喋る機会も多いので,質問を受けた先生がどんな説明をしているか,と言う興味もあります。

 そんな中で,ちょっと気にかかった受け答えがあります。
 それは,夏休み中のラジオの電話相談でのこと。

 質問者は小学校高学年の女の子。質問内容は……「図鑑でメジロを見たらとてもきれいな鳥だった。本物のメジロを近くで見てみたい。どうやったらメジロを見ることが出来るのか。」と言ったもの。先生とのやり取りの中で,彼女はマンション住まいであることが分かり,マンションのベランダにメジロを呼ぶ方法論を説明して,一件落着。その方法とは,メジロの好きな甘いもの(ジュースや果物)を置いたり,木の実のなる木を植えたり(もちろんベランダですから,鉢やプランターに植えるしかありませんが),一時期流行した,「鳥を呼ぶベランダ作り」の方法論でした。

 これだけを読んで,何の疑問も感じなかった人は多いと多います。
 でも,この受け答えは疑問だらけでした。

 私は,彼女がメジロを見たことが無い,と言う点に注目しました。ちょっと野鳥に興味を持った人なら,メジロが比較的身近な鳥であることは分かっていると思います。しかし,マンションのベランダと言う,条件の悪い場所にメジロを呼び寄せるのは,結構難しいのです。メジロを見たことが無いと言うことは,メジロの生態もよく理解していないと考えられますから,これはかなり大変なことになりそうな予感……。
 また,ベランダに餌を置いて,確実にメジロが来る保証はあるでしょうか。この質問は夏休みの番組中に聞いたものでしたが,少なくとも,夏の繁殖期には,ほとんどの野鳥は人の生活圏の近くのフィーダーに来ることはありません。餌をやりたいなら冬まで待つ必要があります。また,メジロのために置いた餌は,ヒヨドリの餌にもなります。メジロを呼ぶつもりがヒヨドリの餌場になってしまう可能性も十分に考えられます。また,周囲の環境についての情報がありません。先生が聞かなかったのです。メジロがたくさん住んでいる環境かどうか,判断がつきません。さらに,高層マンションの上層階であれば,ベランダにメジロが来る可能性はかなり低くなります。
 そして,ベランダが運良く鳥が来る環境になったとして,階下や近隣の部屋への配慮はどうでしょう? 鳥が来るのを好まない人もいるかも知れません。ベランダで干している布団や洗濯物に鳥の糞が落ちるようになったとしたら,どうするのでしょう? もしも,羽毛にアレルギーを持っている人が近くに住んでいたら,大変なことになります。
 回答をした「センセイ」は,ベランダに野鳥を呼ぶことは大変良いことだと言っています。でも……この人,鳥を呼ぶための庭やベランダを作ろう,と言う趣旨の本を何冊か書いている人だから,実は,暗に自分の宣伝を含めているのでは??

 え?私だったらどうするかって?
 まず,近所でメジロをじっくり観察することを勧めます。最初はなかなか見つからないかも知れません。でも,だんだん,メジロの特徴や行動パターン,生態に関する知識が蓄積してくると,庭のある住宅の多い街や木のある公園など,あちこちで身近にメジロを観察することが出来ることに気づいてきます。そして,街の中でメジロが,どんな風に生活しているのが分かってから,餌をやってみても,遅くはないと思います。そうすれば,いつ,どこに,どの程度の餌を与えたらよいのか,と言う加減も分かるので,生態系へのインパクトも少なくて済むと思います。

 「メジロを近くで見たい」→「だから,メジロの好きな餌をベランダに用意する」
 センセイの回答は単純明快です。
 でも,因果関係が1対1にならないのが,自然環境。「生態系」と呼ばれるように,自然界はひとつの巨大な「系」なのです。この系の,ものすごく狭い部分の関係を取り出して見れば,「毒きのこを食べれば中毒する」と言った,単純な因果関係が成り立ちますが,ふつうは,そんな単純なことでは済まされません。「生態系」の一部に手を出そうとしたら,「系」のいろいろな所にインパクトが波及するわけです。メジロを呼ぶつもりがヒヨドリの集会所になってしまったり,都会ならカラスやドバトの餌場になってしまったり……そんなことは序の口です。冬の間に大量に餌をやって,自然状態では淘汰されるはずの鳥も救ってしまったら,次の春,どんなことが起きるでしょう?また,冬場に起こる淘汰には,弱った小鳥を餌にしている猛禽類や小型肉食獣による捕獲も含まれていますから,かれらの餌事情も変わってきます。特定の生き物を「優遇」しようと思ってやったことが,さまざまな波紋を生みます。

 「鳥を呼び寄せたいから餌を撒く」と言う発想は,「バスフィッシングをやりたいから池にブラックバスを放す」と言う考え方に共通しています。鳥に餌をやることは,一見,自然のために良いことをしているように見えますが,あくまでも根底にある考え方は,鳥を近くで見て楽しみたいという人間の欲求。自分の行った行為が生態系に与えるインパクトまで考慮していない,と言う意味では,釣りを楽しみたいという欲求でバスを放流して生態系にインパクト与えるのと,ほとんど差の無い行為と考えられます。


 世の中,すぐに結果が見えるもの,原因と結果が直結しているもののほうが,理解しやすいのは事実。でも,生態系と言うのは,そんなに単純ではない。1つのインパクトがあちこちに波及する。しかし,この「系」が複雑なほど,インパクトを柔軟に受け止め,「系」そのものが壊滅的な被害を受けることがないように,どこかに落ち着くように出来ている。そこが,生態系のスゴイところでもあり面白さでもあります。場合によっては「系」の再構築なども起こるわけで……。こうした「系」=「システム」が複雑に統合されているものを眺めて理解しようとすると,かなり面倒なことになります。その取っ掛かりとして,生き物を細かく分類して名前をつけてみたり,生き物同士の1対1関係を調べるところから始めて,少しずつ理解を進めよう,と言うのが,「自然科学」の手法です。把握し切れないものは,コントロールしようとして働きかけても,どんな方向に転がってゆくのか,見当がつかない。だから,この「系」をうんとシンプルにした「モデル」を作って,自分が把握出来るレベルで検証しようとしたりする。その結果,自分で把握できるだけの生き物を並べて庭を作ったり,ビオトープと称したりする。「自作」できる「系」は単純で理解しやすい。しかし,それが周囲の自然環境との「つながり」を持ち始めると,途端に理解の範囲を超えてしまう。庭に咲く花を食べる虫が来たら,「害虫」だと言って潰したり薬を撒いたりする。もともと虫には「害」も「益」も無い。その損得勘定をしているのは人間の勝手に過ぎないわけです。トンボを呼ぼうと思って池のあるビオトープを作ったら,カの養殖場になってしまった,と言う展開もありうるわけす。それを「自然のまま」としてじっと見守るのか,やっぱりカの駆除に乗り出したり,どこかの池からヤゴを取って持ってきたりするのか,それは「モデル」の設計をした人間の考え方次第でもあるわけです。逆に言えば,こんなささやかな「系」ですら,その後の展開の予測がつかないのです。

 生態系を自分で作ってコントロールしようとする場合,「系」の設定方法によって,そこの自然環境がどんな方向に転がってゆくのかは,あまりにも条件や選択肢が多くて,分からない。だから,既存の自然環境を,自分の都合の良い方向へ向くように少しずつ手を入れながら,ある程度の振れ幅で環境を維持し,継続的に利用するのが,「自然との共生」のひとつの道でもあるわけです。日本ではそれを「里山」と呼び,何百年,あるいはそれ以上,自然環境を維持してきたわけです。今,「里山」を維持しようとすると,意外なほど金がかかる。自治体が何百万,何千万と言う予算を計上して,里山1つを維持する。それは,里山と「共生」する人の不在を意味しているのです。
 「里山」の自然環境を維持することすら出来なくなった現代人には,やっぱり,メジロの好きな餌をやることぐらいしか,メジロと仲良くなる方法論は見つからないのでしょうか……。

 子ども向けの科学実験教室でも,すぐに結果の出る,物理系,化学系の実験が主流です。ひとつひとつ,興味深い事実の観察を積み上げ,その事象をつないでゆきながら理解を進める,生物学系の方法論は,時間がかかります。生物系の研究者でも,今は,すぐに結果の出る分子レベル,遺伝子レベルの仕事が主流で,その研究で分かったことを生物の個体はおろか,細胞レベルにまで統合することすら後回しにされる。まして,生態系と言う巨大な「系」などにはなかなか手が出ない。「系」のどの辺りに,自分の出した実験結果が位置するのかさえ,非常に見えにくくなっている……。ヒトのゲノムが全て読み解かれた今でも,「人」と言う生き物の個体が分かったわけではないのです。単に遺伝子に乗っかっている4種の塩基の並び方が物理的に分かったに過ぎません。
 我々は,細分化,単純化するのは得意でも,統合してシステム全体を理解するのは,苦手なのです。

 メジロを呼びたいので,メジロの好きな実のなる木を植える。しかし,その木はメジロとの1対1の関係で生きているものではないのです。土,水,光,温度などの無生物的な条件もありますし,他の植物との関係,他の虫との関係,さらには菌などの微生物,メジロ以外の動物たち……さまざまな関係の中で,その木は「生態系」の一員として生きています。そういう「つながり」がどこにでも存在することに気づかないと,自然は理解できない。
 よく,探鳥会で木の実を説明していると,「この実はどんな鳥が食べるんですか?」と聞かれます。実を見て「鳥の餌だ」とも言われます。「実」→「鳥」と言う,単純な1対1関係の理解が,ここでも見られます。鳥に餌を与えるためだけに実を結ぶ木なんて,ありえないのに。
 メジロのために…とベランダに植えられた木は,その後,どうなるでしょう?いろいろな経過を想像してみてください。「生態系」のことを少しでも知ろうとしている人なら,すぐに10や20のストーリーが思い浮かぶはずです。

 最初の話に戻ります。
 単純明快な答えを出す先生のほうが,一見,分かりやすく,知識豊富に見えるのも事実。しかし,こと自然科学においては,「わからないこと」と「わかっていること」の境界線を認識して,それを丁寧に説明できる人のほうが,より正確で豊かな答えを導き出せるチャンスを持っています。子ども達に自分の結論を押し付けるのではなく,考えるチャンスやヒント,方法を教えることのほうが,説明するのも難しいしインパクトも弱いし時間もかかることですが,子ども達のためになるのではないかと,私は考えています。自然観察では,答えは一つではない。何か1つ答えがあったとしても,それが100%正しいかどうかは保証できない。完全に「間違いだ」と言い切れないことも多い。だから,いろいろなものを観察する。観察して得たものをつなげて考えてみる。すると,ところどころ,「あ!なるほど!」と思う。そうやって,少しずつ興味を広げてゆく面白さが,自然観察なんじゃないかと思います。


(2003年12月25日記)

→もどる