「理科離れ」と探鳥会


 「理科離れ」と言う言葉が定着してから,もう何年も経ちます。
 資源の少ない日本で,頭脳を磨いて「科学技術立国」を目指すと謳う政府が,他方では「ゆとりある教育」の方針のもと,学校教育のカリキュラムを縮小し,理科教育のチャンスも減らされています。より多くを学びたければ,それは本人(あるいは親)の意思に委ねられていると言えます。

 こんな時代ですから,「教育」を,もはや学校だけに押し付けてはいけない,と考えるべきでしょう。学校外での子供たちの学習の場,あるいは,学校を卒業した後の学習の場……大雑把に言ってしまえば,「社会教育」的なものだと思いますが……と言った,さまざまな教育システムが見直され,学ぶ者は必要に応じてそれを選ぶような社会が始まっています。「教育」の担い手が分散を始めているのです。

 さて,学校で「理科」を学ぶチャンスの減ってしまった子供たちに,どのようにして理科……自然科学への興味を呼び起こし,学ぶチャンスを与えてゆくか。その1つの回答として,「探鳥会」や「自然観察会」の,「体験学習の場」としての活用が考えられます。こうした既存のシステムを上手く利用することで,新たな学習のチャンスが生み出せる可能性があると思います。さらに,「探鳥会」の特徴として,いろいろな年齢層の人が集まりますから,「社会教育」的な機能を探鳥会に持たせることも不可能ではないはずです。

 探鳥会の「教育の場」としての機能について,考えてみましょう。
 探鳥会では,少なくとも,学校の授業の枠内では実現しにくい,野外実習のような体験が出来ます。それは,教科書を広げて教え,学ぶと言うスタイルではなく,実際に自然の中で遊びながら身につける,と言う方法で実現可能なことです。探鳥会や自然観察会には,学校の理科教育で実現の難しいものを補完できる可能性を持っているのです。


 ……しかし現実には,そう簡単には行きません。
 特に探鳥会の場合,「子供が遊べない探鳥会」が,少なくありません。
 子供が賑やかだと,じっくり鳥を見たい人から不満が出ます。結果的に子供たちが野鳥を追い払ってしまって,鳥が良く見えなかった……と言う類の不満が,どうしても出てきます。また,特に小さい子供の場合,興味の中心は目の前にあるもの,手に取って眺められるもの,遊べるものなど,手を伸ばせば届く範囲のものに集中します。望遠鏡でやっとこ見える程度の遠い場所にいる鳥は,子供の興味を引く力が弱いのです。ですから,鳥ばっかり追いかけていると,確実に子供が飽きます。ところが,探鳥会の参加者の主力は年配者ですし,子供の興味に対してきめ細かな対応の出来る案内役は,現在の「探鳥会」の現場にはあまり多くありません。探鳥会で行われる自然解説の中心が,鳥を見つけてその名前を教えることですから,それ以外のことは,観察案内を担当する側も,かなり手薄なのです。よほど野鳥に興味を持っている子供でもない限り,鳥を教えるだけの自然解説は,子供に通用しないと考えていいでしょう。
 「鳥」だけをピュアに抽出して解説する「自然観察案内」は,「自然解説」としては,かなり不自然なものであることを認識しておくべきです。大人は適応できても,子供は適応できないのです。
 子供たちのさまざまな興味を受け止めるような「探鳥会」を考えてゆけば,最終的には,ノンセクションの自然解説をする方向に進みます。それを「探鳥会」と呼ぶかどうかの議論は別にして。

 いずれにしても,「鳥」にこだわり過ぎた「探鳥会」は,環境教育の場としての発展性があまり期待出来ないと思われます。


 探鳥会の「現場」に立っていると,「理科離れ」の傾向については,より年配者のほうに,強く感じます。理科っぽい自然解説を拒絶する態度を取るのは,年少者よりも年配者に見られる傾向です。オトナ達が理科を拒絶するのを目の当たりにした子供たちは,何を感じるでしょうか?……その答えは多分,子供たちが大人にならないと分かりませんが,皆さん,予想してみてください……。

 しかし,このようなオトナ達の反応を,単なる「理科離れ」「理科嫌い」で片付けていいのか,ちょっと疑問に思う点もあります。つまり,オトナ達は,「探鳥会」に「理科」を求めて参加しているのではない,と言うことです。強いて言えば,自然の中を歩き,野鳥の姿を眺めることに「癒し」を求めているのではないでしょうか?人によっては,鳥を見ることに「ゲーム性」を見出して楽しんでいる人もいます。そんな希望を持ったオトナ達に,理屈っぽい「理科」をぶつけても,あまり意味があるとは言えませんし,受け入れられなくて当然のことです。

 オトナの遊び場としての「探鳥会」と,子供の遊び場としての「探鳥会」。それぞれに,遊ぶ目的も興味も,微妙に食い違うのです。


 しかし,野鳥観察はもちろんのこと,「自然観察」と言うのは,科学者の方法論が原点です。観察して得られた発見に楽しみを見出したり,過去の知見などと結びつけて考えたり,新たな興味を膨らませたりするのが,本来の「自然観察」の楽しみ。単に珍しい野鳥を見せてもらうだけの探鳥会なら,見世物や観光旅行と大差ありません。自然環境の素晴らしい土地を訪れても物見遊山に終わってしまう「観光旅行」への反省から,「エコツーリズム」の考えが提唱される昨今です。本来の「自然観察」の楽しみを,もう少し良く味わえるような「探鳥会」が増えても,いいのではないかと思います。
 ホビーとしての「自然観察」と言えども,現在のスタンダードな探鳥会に比べれば,もっと「知的な遊び」なのです。

 自然観察から理科の知識を追い出したら,自然観察会として成り立ちません。確かに,いまの年配の方に,「今さら理科を?」と言われそうな話ですが,ちょっとだけ……そう,中学校の理科ぐらいの知識を動員するだけで,野鳥観察の世界も,ぐっと広がるのです。そして,野鳥や自然に対する理解も進みます。また,理科的な知識があれば,どんなことをすると自然環境に対するインパクトが大きいか,ある程度判断がつくようになりますし,野外における危険回避の知識も得られますから,全く理科を知らない人に比べて,観察者が自然環境に与えるダメージも,何か起きたときに自分が被るダメージも抑制することが出来ます。

 …ちょっと回りくどい言い方でしたね。要するに,自然観察をより楽しく,安全にするための「道具」として,最低限の理科の知識は受け入れて,使って欲しいのです。
 もちろん,より理科的な興味の広がった人は,どんどん「自然観察の世界」を自分で広げてゆくことが出来ると思いますが,そのアプローチを担うのが,「探鳥会」を含めた自然観察会の,大切な役目だと思います。

 自然観察をたしなむ人すべてに,研究者のようなレベルの「理科」を要求するつもりはありません。最低限でも「処世術レベル」の理科を心得ていて欲しい,出来れば「ホビーレベル」の理科的な知識があれば,自然観察はもっと楽しくなる,……と言うことを提案したいと思います。
 理科は決して,「難しい勉強」をすることではありません。学校教育レベルの理科は,本来,身近な不思議を理解したり,自然のしくみを理解するのに便利な「道具」なのです。ぜひ,あまり難しく考えないで,気軽に「理科」とお付き合いしましょう。


(2001年11月3日記)

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