南極
〜第47次南極地域観測隊 越冬紹介〜
隊員決定まで
197x年x月 植村直己
小学校の3年生だったか4年生だったか、
担任の芹沢先生が植村直己の「北極圏1万2千キロ」を
授業が終わった後のホームルームで毎日読んでくれた。
この本は冒険家植村直己がグリーンランド、シオラパルクに住んでいた当時
2年がかりで北極圏1万2千キロを犬ぞりで踏破した記録で
日記形式でまとめているものである。
1、2日分を1日に読んでくれるのだが
毎日楽しみにしていたのを覚えている。
この先生は当時爆発的にヒットしていた
映画「キングコング」を
隣の市まで電車に乗って連れて見に行かせてくれたこともある。
もちろん日曜日にである。
時代が違うとはいえ、
休日に児童を連れ出して映画を見せに行ってくれるなど
格別の扱いだったのだと思う。
近くにあった先生の家まで連れて行ってもらい
惣菜をご馳走になったこともしっかりと覚えている。
先生が何故この本を読んでくれたのかわからないが、
強烈に僕の中に残ったことは間違いない。
思うに植村直己の北極点犬ぞり到達は1978年4月。
植村直己の名前が世間で一躍有名になったせいかもしれない。
小学生であった僕はもちろん植村直己の名前は知る由もなかったが、
親にねだって文藝春秋社刊「北極圏1万2千キロ」の単行本を買ってもらうのには
そう時間を必要としなかった。
が、北極がどこにあるのかはなんとなく分かっていた。
地理に詳しかったせいもあるかもしれない。
197x年 叔父
家は貧乏であったため車などなく、
移動の足はもっぱら電車かバス、
それに父親が勤めていた役場の90ccオートバイであった。
遠出は滅多にせず、
せいぜい年末・年始の川崎大師詣で、
親戚の家のあった裾野、
歯医者で通った小田原、
お買物にでかけた沼津であった。
それと年に一度の近場のハイキングがせいぜいであったろう。
父方には叔父が一人いた。
東京に勤めていた叔父は独り身であったこともあって
日本、外国あちこち出かけていた。
羽田空港から海外にでかける叔父を見送りに行った記憶が残っているので
当時としては先鋭的なライフスタイルを送っていたのだろう。
見送りの際、羽田空港の最上階で食べた中華料理は
僕の中の忘れがたい経験である。
今でも美味しい料理ベストテンにランクインされる。
叔父の存在は遠くの土地を
未知の世界ではなく、
手の届く場所に変えてくれたのだと思う。
1979年1月 NHK南極中継
この年、NHKが南極から生中継を行った。
南極地域観測隊第20次隊の往路である。
南極では既に第19次隊が
当時、相当力を入れたプロジェクトであったとは思うが
(山口百恵のテーマ曲〜Antarctica〜まであったくらいだ)
子供向け番組「600こちら情報部」でも大々的に扱ってくれた。
鹿野幸四郎さんと帯淳子さんの司会の番組である。
当時、南極に行く船は砕氷船「ふじ」。
厚い氷に阻まれ、昭和基地まで接岸できなかったようだ。
この当時の番組の録音テープを未だに持っている。
小学生であったのに、テレビ番組を録音していたということは、
既に相当な興味を持っていたということは間違いない。
もちろんビデオなど高嶺の花であった時代である。
1979年4月 中学校
中学校では割といわゆる「勉強」が出来る子であった。
植村さんが冒険で南極を目指すのなら、
自分は科学への貢献で南極を目指そう!
そう思ったのだと思う。
死に物狂いで勉強した。
南極に行くためには、なにはともあれ勉強しなければいけない
と考えたんだと思う。
朝礼の時間、倒れそうになったことも一回あったが、
所謂進学校に進むことになる。
1982年4月 高校
この頃は、南極に行くためにはなにはともあれいい大学に!
その為には勉強しなければと思っていた頃だった。
このことのみに一途で、
もっと青春を謳歌すれば良かったかなぁ、
と今では思う。
在籍していた部活は地学部であった。
1985年4月 予備校
第一志望は理学部に決めた。
自然に関わる事を学びたいとは思っていたが、
ここの大学には地球物理学科があったのが大きい。
当時新聞に発表される南極観測隊員には隊員の所属機関も記されており
例年その中でもここの大学の人が多かったことも理由である。
ならば地球物理学科が最も行ける確率が高そうではないか。
しかしながら大学には受かることができず浪人生活を送ることになる。
他に公立の航空工学科や私立の理工学部も受けたが全滅。
予備校は大久保にあるので実家から通うことは辛く
船橋の学生寮で集団生活を送ることになった。
寮生活は思いの他楽しかったのは幸いであった。
両親に感謝である。
1986年4月 理学部物理学科
再起を賭して受けた大学は昨年とほぼ同じ。
家への負担を考えるとこれ以上浪人はできない。
背水の陣である。
結果、私立こそ全滅だったが公立は全勝。
他に受かった学科は航空工学科と船舶工学科。
もし理学部に受からなかったらこれらの学科に入っていたわけで
別の道を辿っていたであろう。
1988年4月 地球物理学科
大学では1,2年次には教養学部で主として理学部共通の講義を受けるが
2年次の後期からそれぞれの学科専門の講義が入ってくる。
3年次からは学部生となるのだが、その前にハードルがある。
物理学科も物理学科(物理)、天文学科(天文)、地球物理学科(地物)へと別れるのだ。
物理学科は在籍している学生が100余名なのであるが、
それを天文10人ほど、地物20人ほど、物理70人に分けるのである。
もちろん目指すのは地物。
成績によって振り分けられるとの噂ではあったが、
幸い地物に入ることができた。
1989年4月 研究室
地物といっても範囲は広い。
惑星を扱っているところから、成層圏、大気、気象、海洋、火山、地震まで様々である。
選んだのは大気を扱っている研究室。
南極への行きやすさを第一に考えれば
オーロラなどを扱っている研究室にすればよかったのだが
手の届くところにあるものでなければ、いまいち実感が湧かなかったのである。
そのような訳で、より身近にある対象を扱っている研究室にしたのだ。
あとから知ったのだが、その研究室では当時第30次隊で越冬している先輩もいたりした。
1989年11月14日(火) 晴海埠頭 第31次隊
大学4年の秋、隣の研究室の先輩が第31次観測隊で越冬することになった。
深夜の高速道路を飛ばして晴海に見送りに向かう。
見送り用の幟を作成し、それを掲げるという大仕事があるのだ。
しらせの出航は今も昔も11月14日の11時。
当時まだ晴海の客船ターミナルはできておらず、
岸壁からの見送りとなる。
交わされる色とりどりのテープ。
がんばれよー。
という声援の声。
しらせ巡航時にゲットした帽子。
自衛隊で売っていたのだ。
1990年4月 大学院入試試験
なんとこの年の晩冬に行われた大学院入試に落ちてしまった。
大学院に行けなければその先もない。
部活はワンダーフォーゲル部に属していたが
山に登りすぎていたせいかもしれない。
仕方なく単位を落とし強制留年する。
1991年8月28日(水)−30日(金) 横須賀 「しらせ」 第33次隊
翌年、大学院に合格した夏、
横須賀を母港としているしらせに
観測装置設置の手伝いで行く事になった。
しらせは南極への往復の航路上で観測も実施しており、
先輩が観測装置を設置していたのである。
僕の研究テーマは、大気−海洋間の二酸化炭素の交換。
ちょっと南極とはテーマが離れているが、
好き勝手なテーマを撰ぶことは難しい。
既に行われている研究との兼ね合い、設備の問題もあるのだ。
研究室には南極の氷床コアから空気を抽出して、
過去の二酸化炭素濃度を再現している人もいた。
しらせの出港は11月14日であるが、
自衛隊員の訓練と船上観測に関わる隊員の訓練のため
例年8月下旬から9月上旬にかけて日本国内をほぼ一周する
「巡航」というものがあるのだ。
大学から2トンのドライバンを借りて仙台から横須賀まで機材を輸送する。
時間を節約するため移動は深夜。
今では到底体が持ちそうに無いが、当時は若かったのだろう。
明け方横須賀駅前に着き、
予定の時間を合わせて横須賀基地に入る。
濃い灰色の艦船と比べてオレンジ色のしらせは一目でそれとわかる。
船体幅も他の艦船と比較して2倍ほどもあり、
その存在感は抜群だ。
観測装置は艦橋の直下に位置する第1観測室(1観)と
観測隊寝室と同じフロアにある第5観測室(5観)に設置する。
この設置にも体力がいる。
機材は小分けして梱包してあるのだが、
艦内は観測を主目的に作ってあるわけではないので、
通路は狭いし、ハッチやドアのコーミングが異様に高かったりするのだ。
そもそも艦に運び入れる折畳式の階段が狭い。
不安定な上にサイドはスカスカである。
それでも5観はまだいい。
舷門(船の玄関)と同じ甲板にあるので、
それほど運搬に力を必要としないのだ。
大変なのは1観である。
舷門のある1甲板から狭い階段を上がってヘリ格納庫のある01甲板。
そこからさらに階段を2つ上がってやっと1観のある03甲板なのだ。
なかでも標準ガスとして用いるシリンダーの運搬が大変だ。
これは一つで60kgくらいある。
2人で持つことになるが円筒状の形をしているため非常に持ちにくい。
とっかかりがないのである。
おまけに雨などで濡れている場合は最悪である。
今年出発するのは第33次隊である。
第33次隊で作成したトレーナー。
研究室に購入伺いが回ってきた。
即買いである。
1991年10月24日(木) 名古屋「ふじ」
名古屋で学会があったついでに第2代南極観測船「ふじ」を見に行った。
ふじは現在名古屋港に係留されているのだ。
ふじは第7次から第24次までの南極観測船。
当然といえば当然なのだが、思いのほか時間をとられ
隣接する博物館をゆっくり見る暇がなく
閉館時間タイムアップで追い出されてしまった。
ふじの乗船証明書。
もう一度見学したいなぁ。
1992年9月8日(火)−9日(水) 再びしらせ 第34次隊
今年も装置のセッティングで横須賀を訪れる。
夜になるとしらせにはほの暗い灯りが点され、
なんとも情緒のある雰囲気になるのだ。
1観で行っているのは「大気」中の二酸化炭素濃度の現場観測。
5観で行っているのは「海水」中の二酸化炭素濃度の現場観測。
これらを比較することによって
化石燃料放出によって大気中に放出された二酸化炭素が
海にどれだけ吸われているかという解明の一助とするのだ。
このような観測は世界中で行われているが、
極地での観測例は非常に少ない。
しかもしらせは毎年ほぼ同じ航路を辿るので
年々変化を調べるのにも好都合なのである。
実はしらせの他にも昭和基地で二酸化炭素濃度を測定している。
いや、昭和基地での測定の方が歴史は古い。
これら二酸化炭素濃度を測定するのに、標準ガスというものが必要となるのである。
研究室では昭和基地で使用されるこれら標準ガスの値付けが一仕事であった。
温室効果ガスの濃度を測定するのにその基準となる標準ガスが必要なのだが、
この標準ガスが繊細な奴なのである。
濃度変化をする気まぐれもいるので、
出航前に3回程度前もって濃度を測定してチェックしてやる必要があるのだ。
しかも標準ガスは1セット4本必要である。
しかも1年となると必要量は7セット分。計28本となる。
その他にリファレンスガスというのも必要なので数はさらに多くなる。
この南極用標準ガスが納入されるのは春先。
出荷する8月下旬までに作業を終えるのは一仕事なのである。
1993年8月31日(火)−9月3日(金) 館山−苫小牧 第35次隊 しらせ巡航
今年はしらせの巡航に乗り込むことになった。
観測を行っている先輩が海外へ出かけるためだ。
昨年までと同様、8月中旬に横須賀でセッティングを行う。
乗艦地は千葉の館山。
前日極研に泊った後、東京駅から特急列車で館山に向かう。
館山に近づくと沖に停泊しているしらせが見えた。
自衛隊専用車のお迎えがあり、すぐに内火艇へ。
しらせを接岸できるような大きな桟橋はないのだ。
航海は順調で、途中いわき沖にて観測訓練を実施する。
今回越冬隊として行くKさんへの訓練も順調に終わる。
そう、今回私は先生役なのだ。
食事は観測隊公室で。
でかいボールに入れられた食事を、
いくつかの堤防で区切られた給食皿にとって食べるのだ。
ご飯と汁ものは別容器だったように思う。
なんだかワイルドで自衛隊っぽい。
食器を下げるところは自衛隊員の方と一緒であった。
ちなみにメニューは同じようである。
1993年11月14日(日) 晴海 第35次隊 しらせ出航
前日から東京に出て、観測機器のメンテを行う。
出航前日は見学者も多く、いつもとは違う華やかな雰囲気だ。
出航は東京、晴海埠頭、11月14日11時。
これは毎年変わらない。
以前は晴海ふ頭はそれほど整備されておらず、岸壁からの見送りだったが、
今では立派なデッキからの見送りとなっている。
1994年4月13日(水) 晴海 第34次隊 持ち帰り物品
34次隊で使用した持ち帰り物品の受け取りに晴海に行く。
観測装置の分解および梱包をした後、翌日はトラックへの積み込みを行うのだ。
1994年 第36次隊 しらせ
9月2-4日は昨年と同じく横須賀へ観測装置の設置にでかけ
9月7-9日は横須賀から小名浜までしらせ巡航に乗船する。
10月29-31日は再びしらせに観測機器のセッティングに訪れ
11月12日からは最終セッティングに訪れ、14日に見送りをする。
第36次隊のネクタイピン。未だ現役で活躍中なのだ。
10月末にしらせを訪れた時には、助教授と一緒に行ったこともあり
士官室で昼食を摂ることとなった。
自衛隊独自のルールがあり、
襟のついた服装でなければならないとか、
艦長より先に食べてはいけないだとか、
席を立つのは艦長より先にだとか、
少々堅苦しい。
少なくともしらせに乗艦するときは
襟のついた服としっかりした靴を鞄の片隅にでも入れていた方が良いようだ。
晴海近くの船の科学館に保存されている初代南極観測船「宗谷」も
この機会に見に行った。
居住区画は「しらせ」、いや「ふじ」にも遠く及ばず
誠に質素であった。
こちらは宗谷の乗船証明書。
1998年9月1日(火)−9月4日(金) 第40次隊 しらせ
久しぶりにしらせの巡航に乗艦することができた。
仙台から室蘭までの航海であった。
このところ機会がなかったのは
D論のまとめに時間がかかり、時間が取れなかったというのがある。
また精神的に余裕が無かったのであろう。
この頃は苦しかった。
思うようにD論が進まず、
研究する適正がないのではと思うこともしばしばだ。
就職の話もあった。
海洋科学技術センター(JAMSTEC)関連の会社に就職しようと考えたこともある。
でも、思い切れなかったのは南極のことが脳裏にあったからであろう。
観測隊として南極に行くには国家公務員である必要があるのだ。
1999年4月 学位取得
難産であった学位も取得できたが、
就職先を早く決めなければならない。
年齢を考えるともうそれほど余裕がないのだ。
某国立大学のポストに応募してみたが蹴られてしまった。
いつまでも研究室に残っているわけにはいかない。
教授が紹介してくださったのは、研究をサポートする会社。
財団法人ではあるが、南極とはちょっと遠い。
しかしながら、南極への道が閉ざされたわけではない。
苦渋の決断だが他に選択肢は残っていなかった。
2001年11月 第43次隊
新しい仕事場はそれなりに面白かった。
観測をメインにした研究を行っており
ターゲットはシベリアの大地。
なかなか行けないところだけに興味深い。
ロシア人の表面だけでは分からない民族性など垣間見れて楽しかった。
しかし、いつも南極のことが頭にある。
何故これほどまでに恋焦がれるのか?
自分でもわからないが、
答えは南極にしかないであろう。
そんな折、同じ会社の人が越冬隊として参加することになった。
僕の会社は全体で30人ほどは在籍しているが、
東京とつくばに分かれており、
つくばに所属する人は約15人。
その中の1人なので相当狭い世界での話である。
日本全体を考えれば相当珍しい確率だ。
彼の越冬隊での役割は設営一般で、フィールドアシスタント。
様々な仕事をこなすマルチな人なので適任であろうと思われる。
なにより思ったのは、
この会社からでも行けるんだという事実。
これはかなり心強い。
但し、物事はそう簡単ではない。
設営隊員は従来企業からの派遣のような形で隊員になっており
南極に行っている間のみ極研の職員となるシステムだ。
これは南極に行っている間の事故等を鑑みてでの措置であろう。
行動中の事故に対する医療保険等を考えれば納得が行く。
越冬中の事故はその後の人生にも影響を及ぼしかねないことにも成りうるのだ。
事実、越冬隊では一人亡くなっている。
その状況はいわば2次遭難で同情を禁じえないのだが、
もしもの事態を念頭において考えることは必須であろう。
ところが研究系の隊員は公募という形はとっていないのだ。
これまでと同様国家公務員である必要がある。
設営系の技術を特に持っていない僕にとってこれは大きなハードルである。
期限付きの極研の職員になるという方法もあるが、
国家的に緊縮財政の折、そのような手法も難しいらしい。
事実、研究分野では博士の学位を取得したものの、
ちゃんと就職できない人が溢れている。
これは科学振興を唱えながら
その活躍場所を提供してこなかった場当たり的な政策に原因がある。
梯子を用意されながらも、
その梯子を外されてしまったような思いを若い研究者は抱いているのではないか?
おっと問題が逸れてしまった。
2002年2月13日(水) 第45次隊 大気球実験立案
45次隊の夏隊で大気球を上げて成層圏の空気を採取してくるというプロジェクトが立ち上がった。
10年ほど前にも南極で大気球を上げており、
その間の変化を調べようというのが目的だ。
この計画には出身研究室の教授も関わっている。
幸運にも僕の名前もノミネートされた。
極研で行われた研究の計画を積める会議に出席し計画に携わる。
これは研究をする人間にとってまたとない喜びだ。
しかしながら大きな問題が二つあった。
現在の立場と人数の問題だ。
現在の所属するのは財団法人。
某研究機関から仕事を委託され研究を行っている立場だ。
南極へ行くためには所属機関と委託先の両方の都合が関わってくる。
自分の意志ではどうにもならないのだ。
もう一つは人数の問題。
南極観測隊では昭和基地ならびにしらせのキャパシティーの関係から
行く事のできる人数は必然的に決められる。
プロジェクト関連で行くとなれば同行者という身分になるが、
45次隊には朝日新聞社の記者が同行するということが決定していた。
折りしもしらせの耐用年数が近づき、
後継船建造の問題も持ち上がってきた。
後継船が建造されなければ、
昭和基地への物資の輸送もできなくなり、
それは観測の中断を意味する。
そのためには南極観測の意義を伝える広報は重要な役割を持つのだ。
同年6月、夏隊で気球実験に参加するという案は白紙となった。
2003年3月25日(火) 第45次南極観測隊員の募集について
上記のメールが極域に関する研究会のメーリングリストに流れた。
募集している隊員は、大気関連観測隊員、及び衛星受信隊員として1〜2名である。
但し、出発時に国家公務員の職に就いていることが条件であった。
翌日仕事先のボスに相談し、数日後そのさらにボスにも相談する。
とりあえず承諾を得、立候補を申し出る。
しかしながら7月になっても返答はない。
どうやら他の隊員が決まったようであった。
2003年7月 問い合わせ
7月、第46次南極観測隊の選考に関する問い合わせをする。
この機会を逃したら後はもうない。
そのように思ったのだ。
まだ手続きには早いかもしれなかった。
実際に動くのは45次隊の出発の後だと思われたからだ。
2004年1月 雲行き
第46次隊の概要がおぼろげに見えてきた。
46次の気水圏・大気関係のプロジェクトでは他の観測に焦点をあてることになり
僕の関わる温室効果気体関係の隊員が越冬するという空気ではなくなってきているというのだ。
こればかりはどうしようもない。
同年3月、正式決定がなされた。
2004年7月 薄明
翌年に出発する47次隊の編成について話が出始めたようである。
行きたい気持ちがあることを極研の方に伝え
所属する会社の上司にも話を通し、とりあえず了解を得る。
47次から南極観測隊員に関して大きく変わるところがある。
それは隊員の公募だ。
これまでは設営・研究のネットワークを通じて隊員を募っていたのだが、
上の方から公募制度を取り入れよ、ということになって
制度が大きく変わるかもしれないということだ。
もちろん隊員の身分についてもである。
何分はじめてのことなので、
極研サイドも手探りの状態で動いているらしい。
2004年10月21日(木) 南極大気打ち合わせ
2004年11月10日(水) 隊員公募
11/8-12/8
2004年12月8日() 公募締め切り
2004年12月25日(土) 身分の問題
2005年2月28日(月) 冬期総合訓練1日目
冬期総合訓練、通称冬訓練、はまだ身分の問題が解決していなかったこともあり
当初は参加しない方向であった。
出張旅費とかの問題もでてくるのだ。
ところがやっぱりなんでも経験しておきたい!
ということで参加をお願いしたところ、
極研の担当者の方が参加できるよう調整してくださったのである。
仕事場では有給休暇を貰うことで話はついた。
極研からバスで乗鞍高原へ。
訓練の拠点は鈴蘭小屋である。
小屋といってもちゃんとした旅館だ。
毎回訓練はここで行っているらしいのだ。
首都高の渋滞のせいで到着が遅れたこともあり
着いたら即講義となった。
所長挨拶、参加者紹介などの後に南極観測の概要等の講義を受ける。
南極観測の大先輩である村山雅美さんのお話もうかがった。
夜には面接もあった。
総隊長、越冬隊長、南極観測センター長の3人対1人の面接でえらく緊張する。
2005年3月1日(火) 冬期総合訓練2日目
この日はフィールドでのサバイバル訓練が主となる。
午前中の早い時間に講義を受けた後、30分ほど歩いて一之瀬園地へ。
まずはルート工作訓練。
5千分の1の地図を元に
自分の歩数とコンパスの方角から最終目的地まで進むというものだ。
原理自体は難しいことはない。
実際には、例えば95度の方角に310m、
そこで方角を135度にスイッチして240m、
というように5回ほど進路を変えて
最終到達地点の精度を競うのだ。
問題は2つあった。
一つはルート上は起伏があるので場所によっては姿が見えなくなってしまい
こまめに刻んで進んでいかなければならないこと。
時折木々や雪の吹き溜まりに遮られ、
正確な歩数、すなわち距離が出せないことである。
これらのことは精度の直結する。
また、これは訓練であったから仕方ないが
実際にはリーダーを決めて音頭を取っていかないと円滑には進めないだろう。
夜は雪原で寝ることになる。
しかもツェルトでだ。
風避け用に雪のブロックを築きそこに建てる。
オブザーバー用は立派なテントだ。
食事はそこで食べることになるのだが、
非常食っぽくいまいち安らぎが得られない。
3月とはいえ乗鞍の夜は冷えることが予想されたが
思いのほか暖かく熟睡することができた。
足の指先に張った使い捨てカイロとアンダーウェアのおかげだろう。
2005年3月2日(水) 冬期総合訓練3日目
朝食後の撤収の後に、負傷者搬出訓練を行った。
ツェルトを利用した橇で運搬する方法。
これは雪球やカラビナを牽引ロープを結びつけるひっかかりとするのが新鮮だ。
ザックを使った方法は目から鱗。
ザックを逆さにしてそれを負傷者に穿かせ、
負傷者・ザックともども担ぐという方法だ。
これは体力さえあれば最も運搬しやすい方法だ。
帰途は山スキーを使って宿舎に戻る。
シールというものを初めてつけたが
あれほど滑らずふんばれるとは思わなかった。
夜泣き峠からはシールを外し、
踵を固定してアルペンスタイルでゲレンデを下る。
十年ぶりくらいのスキーで、
しかもザックを背負っているので滑れるかなと思ったが
下手だと悪くなりようもないのか、
無事に滑り降りることが出来た。
午後は再び医療や通信の現状に関わる講義。
夜は懇親会で打ち上げとなる。
さて、あと身分の問題と健康診断をクリアしなくては。
2005年4月11日(月) 極地観測研究員
極地研の所長室で辞令を貰う。
辞令を受ける僕は一人だが極地研のお偉方は5,6人もいてえらく緊張する。
そもそも誰が一番偉くて、どの方が手渡してくれるのかもわからない。
だってみんな同じ服装なんだもの。
辞令の書式を貰うときの挨拶もタイミングもずれてしまった。
あー、久しぶりです、こんな感触。
2005年4月20日(水) 健康診断 精神科検査
東京本郷の神経科診療所に出向く。
場所はビルの10階にあるのだがビル内にあるにも関わらず
その内装は昭和30年代の町医者を彷彿とさせる。
30分程ベッドに目を瞑って寝転がり脳波の検査を行う。
赤い光の点滅などもあって、
癲癇などの反応をみているようだ。
2005年4月26日(火) 健康診断 内科検査&精神科検査
午前中は水道橋の病院で内科検査。
内容はほとんど人間ドックと同じであった。
ただこれまで経験したことのなかった検査に直腸検査がある。
これは屈辱ですよ〜。
思わず声を出してしまった私は修行が足りないでしょうか?
午後は精神科検査。
練馬まで行ってロールシャッハ検査を受ける。
何枚かの絵というか模様をみて何に見えるか答えるという検査だ。
6畳ほどのソファーのある洋間で検査官の人とマンツーマン。
1時間ほどで終了したが、後で聞くと3−4時間かかった隊員の人もいたようだ。
その後は千葉まで移動して面接を行う。
住宅地にある普通の民家のようなところで、
もうおばあちゃんといっても過言でない先生の面接を受けた。
雑談で済んでしまったようにも思うが
(雑談自体も検査の一部になっているのでしょう、きっと)
あえて挙げるならば
今回の心構えとか常用しているサプリメントなどを聞かれたことかなぁ。
2005年4月27日(水) 健康診断 内科検査
午後から内科検査の2日目。
耳鼻科と負荷心電図の検査を行う。
面白かったのはバランステスト。
目をつぶって真っ直ぐ歩く検査や、
同じく目をつぶって自分の名前を書く検査があった。
名前を書く検査では首を右と左それぞれに傾けて行うのだ。
歩くのは真っ直ぐ歩けたが、
名前はいずれも左下下がりでした。
あと自分は再検査がもう一つ。
昨日は眼の検査で瞳孔を開く薬を点滴したのだが、
連絡漏れで検査することなく
そのまま次の精神科検査に向かってしまったのだ。
点滴の後の時間がなかったこともあり、
どうりでやけに眩しかったハズだ。
2日続けて瞳孔を開いて、今日は無事に検査を受けて終了。
さて、これで後は検査結果を待つことになる。
といっても結果は僕等には知らされないのだ。
大きな疾病がある場合には知らされるが
そうでない場合は検査内容に関して一切知らされない。
あくまで健康診断は国のお金で行う
南極観測隊に適合するかどうかの試験であって、
個人の健康状態を把握するためのモノではないということだろう。
もっとも不適格であった場合には代わりの人を探さなければならないので
不適の場合には早番わかることであろう。
2005年6月8日(水) 健康判定委員会
極地研の方から健康判定の内定の通知をいただく。
これまで特に連絡がなかったので
大丈夫だろうとは思っていたけれどやっぱり不安だったのだ。
これでなにはともあれ一安心だ。
2005年6月12日(日) 夏訓練への参加依頼が届いた!
極地研から夏期総合訓練(夏訓練)の依頼が届いた。
場所は長野県菅平にある文部科学省菅平高原体育研究場、
期間は6月20日(月)から24日(金)までの4泊5日である。
訓練内容はというと、
1)南極観測に関する情報提供
2)安全対策に関わる講義と訓練
3)南極における環境保護に関する講義
4)観測・設営計画に関する講義と打ち合わせ
5)準備に関する講義と打ち合わせ
などである。参加者は事務局である極地研から10名程、講師の方10名程、
そして隊員および隊員候補者合わせて60名程とのこと。
東京以東の人は極地研から大型貸切バスで菅平で移動、
以西の人は菅平へ直接集合のようだ。
2005年6月14日(火) 個人情報公開の承諾
文部科学省研究開発局海洋地球課極域振興係から速達で手紙が届いた。
内容は6月16日に行われる南極地域観測統合推進本部に
隊員候補者として推薦されるので、
審議の元となる隊員名簿(本籍地や現在の住所)の公表に同意して欲しいというもの。
個人情報保護法がらみの連絡だろうが、
次第に現実味を帯びてきた。
2005年6月16日(木) 第126回南極地域観測統合推進本部総会
「第126回南極地域観測統合推進本部総会」。
この長ったらしい名前の会議の席上で47次の隊員が決定する。
会議自体は公開で数日前までにあらかじめ文部科学省研究開発局海洋地球課まで連絡をすれば
先着順に傍聴を受け付けてくれるのだ。
内定をもらっているので大丈夫とは思いつつ発表を待つ。
ところが午後になっても電話やメールでの連絡が来ない。
会議は10時から12時までなのでもう既に決定しているはずなのにである。
いや、こういう会議で決定するのは形式上のことが多いので、
あらためて連絡することはないのかもしれない。
と、思うものの文部科学省の報道発表のwebページをチェックせずにはいられない。
ところが何時になってもwebは更新されない。
同日発表の他の報道発表が掲載されてもである。
夕刊をチェックしてみる。
載っていない。
なんでだ?
明日の朝刊か??
すっきりしないまま床につく。
2005年6月17日(金) 朝日新聞2005年6月16日夕刊
明けて17日、朝刊を見ても載っていない。
webにも変化が無い。何故だ?
なにか問題があって決定が延びているのか?
今回から公募を全面的に採用しているから、
なにか問題があり決定が先送りになっているのだろうか?
となると原因は自分である確率が高い。
やきもきしていた折友人からメールが入った。
「昨日の夕刊に載っているよ。」
昨晩チェックしたはずだが載っていなかったはず。
もう一度チェックしてみる。
ありゃ、載っていた!
一番後ろの見開きの下段に細長く掲載されていたのである。
朝日、毎日、読売をチェックしたが載っていたのは朝日だけ。
朝日が昔から南極観測をサポートしていたということもあるのだろう。
とりあえず第47次南極地域観測隊越冬隊の隊員に正式に決定したようである。
カフェオーレの下の記事に注目。
画面左側には隊員の名前が列記してあるのだ。