極星とシステム
吉田一穂の意図テクスト



野坂政司



  1 推敲と改稿

 吉田一穂の詩作過程は、改稿の繰り返しの過程であった。一篇の作品が構想され、その草稿は徹底した推敲による変容を重ねながら、その時点での完成形として雑誌や詩集に発表される。それがまた手を加えられて他の詩集に収録されたり、作品によっては丸ごと削除されたりする。そのように出版された詩集は、さらに、内容の構成が変更されて別の詩集へと変貌する。その改稿は微細なレベルから全体的なものにまで及ぶ。具体的には、字句、ルビ、送りがなの変更、個々の作品の表題の変更、雑誌発表時や単行詩集における構成での作品の削除、追加、配置の変更、詩集を章立てで構成した時の章の表題の変更などがある。
 『定本 吉田一穂全集』(小沢書店刊、以下この版を『全集』と略記するが、特に断り書きがなければ第一巻を指す)の刊行によって、一般の読者にその改稿の変遷を辿ることが可能となった。雑誌発表時のテクストを参照しながら、彼の詩業を単行詩集の刊行順に読み進むにつれて、個々の作品の閉じた完結性は背景に退き、さまざまなレベルでおこなわれている複雑に入り組んだ改稿の軌跡が、個々の作品を呑み込む太く連続した流れとなって前景に現れてくる。後で言及するように、吉田一穂は独自な詩の原理を立て、自らの強固な方法意識に導かれて詩を書いた詩人であるが、その方法意識とこの徹底した改稿の繰り返しはどのように関係しているのであろうか。この小論では、その問題性に焦点を合わせ、一穂の方法意識と、テクストの徹底した改稿との両方を統一的な枠組みの中で論じるための一つの視点を提供したいと考えている。

  2 改稿のさまざまな形

 単行詩集と定本詩集を包含した『全集』というテクスト空間に入り込んだ読者が出会う個々のテクストは、完成稿に向かって変貌を続けるその時々の姿に他ならない。ここでは、推敲と改稿が繰り返される通時的な変貌の過程を具体的に見ておくことにしたい。
 最初に、単行詩集に設けられた章立ての表題に目を向けてみよう。刊行順に列挙すれば次のようになっている。

  『海の聖母』(金星堂、大正15年)
    薔薇篇、羅甸区、青篇
  『故園の書』(厚生閣書店、昭和5年)
    1、2、3
  『碑子傳』(ボン書店、昭和11年)
    なし
  『海市』(山雅房、昭和15年)
    なし
  『未来者』(青磁社、昭和23年)
    水邊悲歌、火環島弧、荒野の夢の彷徨圏から
  『羅甸薔薇』(山雅房、昭和25年)
    穀物と葡萄の祝祭、暗星系、黄金律
  『吉田一穂詩集』(創元社、昭和27年、『全集』の定本詩集はこれを底本としている)
    薔薇篇、暗星系、故園の書

 他の単行詩集と異なり、『故園の書』や『碑子傳』では散文詩の形式が探求されているが、その試みの意義についてここでは触れないことにする。詩集の構成面に限定して言えば、『海の聖母』の表題付きの章立ての構成から、『故園の書』では数字のみによる章立てになり、それから『碑子傳』や『海市』では章分けのない構成へと変わっている。『海市』は、既に刊行されていた『海の聖母』と『碑子傳』から詩人自身が選んだ作品に新作を少し付け加えて一巻の詩集に編集し直したものである。『碑子傳』と、先行詩集にある作品がほとんどである『海市』のなかに章立ても表題もないことは、個々の作品を詩集へと編み上げていく際の詩人の構成意識の変化を示している。その構成意識は、詩行を積み重ねて連にまとめ、それを他の連と組み合わせて一篇の作品に統一する過程で発揮される一般的な構成意識とはかなり違うものである。一穂の構成意識は、統合的構造体としての詩集のなかで、一篇の作品に、あるいは一群の作品に、どのような意味を持った下位構造としての位置を与えるか、という志向性に結びついている。
 『海の聖母』は階層構造をなしており、詩集全体と、一篇一篇の作品との中間に、もう一つの階層がある。その層では、ある作品群を別の作品群と対比的に配置する構成上の処理が、「薔薇篇」、「羅甸区」、「青篇」という表題に示される形で行われていた。その後の『故園の書』から『海市』までは、この中間層を排除していく過程であり、『海市』では中間層が消失するにいたる。ところが、『未来者』や『羅甸薔薇』では、この中間層が再び現れてくるのである。しかも、その現れ方には注目に値する特徴がある。『未来者』と『羅甸薔薇』は、詩集のタイトルや章の表題を一見するだけでは、各々がまったく別々の新しい詩集であるという印象を読者は得るだろう。章の構成の顔であるその表題の違いを具体的に指摘すれば、『未来者』の章の表題は、「水邊悲歌」、「火環島弧」、「荒野の夢の彷徨圏から」となっており、『羅甸薔薇』の章の表題は、「穀物と葡萄の祝祭」、「暗星系」、「黄金律」となっている。このように詩集のタイトルと章の表題が異なるイメージの衣装を纏っているにもかかわらず、大半の収録作品は同一なのである。
 一穂にとって、新しい詩集を出版するということは先行詩集の出版後に書かれた新しい作品を一巻にまとめるというものではなかった。それは、新たに書き上げた作品と、既存の詩集に発表した作品のすべてを対象として、そこから取捨選択し、新たな装いのもとに統合する、ということであったと考えられる。その過程で、これまで見てきたように、大きな枠組みとして詩集の階層的構造化をめぐる執拗な改変が繰り返されているのである。そのような企図の一つとして、「泥」という作品をとり上げてみよう。この作品は、『吉田一穂詩集』(創元社)では「暗星系」のなかの「碑子傳」(四篇)のなかの一篇であり、一つの作品がその中間層にどのように位置づけられるかという問題を浮き彫りにさせるよい例となる。「泥」とは次のような三行の詩である。

    自我系の暗礁めぐる銀河の魚。
    コペルニカス以前の泥の擴がり……
    睡眠の内側で泥炭層が燃え始める。

                      (『未来者』におけるテクスト、『全集』273頁)

 『全集』の校異・解題に従えば、「日本詩壇」(昭和14年1月)に発表された「碑子伝補遺」の・の一行と・の二行が「泥」の前駆形であり、『海市』において・・がそれぞれ「鹽」「砂」の題を付けられて独立し、『未来者』においてこの二篇が併合されて「泥」(「碑子伝」第2章)となり、それが「白鳥」12章とともに「荒野の夢の彷徨圏から」という表題にまとめられている。そして、『羅甸薔薇』で「白鳥」15章とともに「黄金律」という表題のもとにまとめられることになる。詩集のなかの中間的階層におけるこのような変貌それ自体が興味深いのであるが、さらに興味深いのは、『碑子傳』、『海市』のなかの「泥」が、題が同じなだけで、次に引くようにまったく内容が違う別の作品だということである。

    霧の中に泉を求めて流餓の民らは彷徨ふ。
    耳をちぎつて礫し、鳥を射て啖ふ砂地獄の旦夕……
    生活樹の根に絡れて、白骨は密林の夢を焚いた。

      (『海市』におけるテクスト、『全集』251-52頁)

 後に「砂」と改題されることになるこの作品は、まず『碑子伝』に「泥」として収録された。『碑子傳』の次には、『海市』でも、字句の変更が一部含まれてはいるが、同じく「泥」として収録される。それが、さらに一部の字句の変更を伴い、『未来者』、『羅甸薔薇』、『吉田一穂詩集』(創元社)で「砂」と改題されることになるのである。
 これまで見たことから明らかであるように、「碑子伝」のなかの「泥」と「砂」は、一篇の作品の成立過程においても、詩集の構成上の位置においても、改稿による変貌を繰り返している。つまり、これらの作品は各々の単行詩集の階層構造のさまざまな層で生じている変容の印なのである。とりわけ『海市』では、『未来者』において「砂」と改題される「泥」が、『未来者』において「泥」に生まれ変わることになる「鹽」、「砂」と連続的に並んで載っており、「泥」と「砂」のテクスト間の錯綜した関係の極端な状態が、一穂のテクスト空間の前景に突出して現れることになる。
 以上のような限られた例だけからでも吉田一穂の独自な構成的意識の存在を知ることができるであろう。それでは、その構成的意識の内部に分け入り、テクスト空間が生成されてくる背景を解きほぐしていきたいと思うのだが、ここで少々遠回りをしてこのような問題を扱うための有力な視点を参考にしてみたい。



  3 ロトマンの「意図テキスト」について 

 ユーリー・ロトマンは、詩人が作品を推敲していくことで生み出される複数の異本を考察するための優れた視点を提供してくれる。彼は、ロトマン『文化と文化記号論』(岩波、1979)所収の「パステルナークの初期の詩とテキストの構造的研究」のなかでプーシキンやパステルナークに見られる異本の生成について論述しているが、そこに次のような箇所がある。

 テキスト校訂者はつねに、ただ単に諸々の異本ばかりを扱うのではなく、ある異本から別の異本への 諸々の移行の順序を扱うことになるだろう。彼の前には、その都度、二つの異本が存在することになる。 もしテキストBがテキストAを排除するような特徴を与えられているならば、前者は後者に対して運動 の結果ということになる。こうしたテキストのことを我々は意図テキストと呼ぶことにしよう。意図テ キストとは、紙の上に固定された異本と対立して、作家によるその放棄をもたらすような、なんらかの 理想的モデルのことである。意図テキストが現実テキストと一致したときには、運動は停止し、最終的 異本が出現する。(204-205頁)

 ここでロトマンが提示している「意図テキスト」という概念は、一穂の『全集』に見られる単行詩集から定本詩集までの改稿の繰り返しを考察するためのよい手がかりとなる。この小論では、「テキスト」の代わりに「テクスト」という表記を使用してきているので、ロトマンの用語の定義を踏まえながら、「意図テクスト」という表現を使用することにしたい。さて、ロトマンが指摘するように、個々のテクストは意図テクストとの徹底したせめぎ合いを通じて現実のものとなる、と考えられるのだが、その意図テクスト自体は現実のテクストとしては外化されないものである。意図テクストは現実のテクストの生成過程を導いていく「なんらかの理想的モデル」であるのだから、それは複数の異本からもっとも相応しいものが選択されていく時の基準あるいは規則のような機能を果たすのであるが、最終的異本が出現して異本間の対立の運動が停止するまでは、その理想的モデルがどのようなものか確定することはできないのである。



  4 詩と方法意識 
 
 一穂は方法意識において非常に自覚的な詩人であった。詩の創造にあたって、この詩人が企図していたのは、自己の内部に屹立する強烈な詩的精神によって、自分を包み込む外部(自然)を秩序立てられた言語構築物へと変換させることであった。この詩人のこうした志向性は詩のテクストにも反映されているが、それよりも試論編としてまとめられた『全集』第二巻の散文作品に極めて顕著に現れている。一穂の方法意識を検討する手始めに、『黒潮回帰』に収められた「龍を描く」から次に三つの例を引いてみよう。

 作家は、われわれの頭上をめぐる天體とは違った、内部の星座を持つ者でなければならない。(『全集』第二巻、37頁)

 藝術となる「行」の秘密は、そのデェモニッシュな内部混沌、力の原理としての矛盾を、現實との觸 發に於いて、生の方向へ組織づける、強度な否定にある。
               (『全集』第二巻、37頁)

 自然には在り得べからざるものも、自己内部の極星を中心に整然たるシステムを成すものをこそ藝術 という。
               (『全集』第二巻、37頁)

 ここに引用した文章の各々において、一穂に固有の理知的で宇宙的なビジョンが魅力的な暗喩によって提示されている。「内部の星座」、「デェモニッシュな内部混沌」、「自己内部の極星を中心に整然たるシステムを成すもの」などの表現に目を向けるだけで、この詩人にとって詩の創造の母胎となる地平がどのような性質のものであるかが見えてくる。まず、詩人の内部から詩が創造されるのだが、その内部とは、単なる観念や感情などではなく、「極星」を中心とする「整然としたシステム」を形成していく「藝術」の駆動力なのである。つまり、内部は、静的に安定した秩序体というようなものではなく、外部自然との接触の場面で否定に媒介されながら、「生の方向へ組織づけ」られる「デェモニッシュな」ものとされるのである。
 さて、芸術作品の生成原理に関わるこのような意識が詩のテクストの中に織り込まれることもまれではない。一穂の代表作の一つである「白鳥」の第一章を引いてみよう。

    掌に消える北斗の印。
    ……然れども開かねばならない、この内部の花は。
    背後で漏沙が零れる。
             (『全集』57頁)

続いて、昭和25年〜46年に書かれた作品の選集である『詩篇拾遺』から「未生の花」を引く。

    「未生の花」 

    掌で消える一瞬の虚無の華々
    時間核が分裂する、
    生と死のネガ・レアリテ。

    非遠近法の雪の夜の世界で、
    星のまたたきの鼓動
    壷に封ぜられて魔王の凍れる意志は。

    透明な現はれ、暗く燃えるもの、
    破らねばならない内の聲だ、
    成れ! 未生の花々、純粋な神の酒と。
                    (『全集』133頁)

 この二つの作品には、イメージの共通性を見ることができる。「白鳥」の「掌に消える北斗の印」と「未生の花」の「掌で消える一瞬の虚無の華々」は、いずれも天空から降り来る雪片が掌に受けとめられてその体温で溶かされてしまう一瞬の出来事としての外部自然の風景、すなわち「龍を描く」で述べられる「現實との觸發」である。また、「白鳥」の「開かねばならない、この内部の花は」と「未生の花」の「破らねばならない内の聲だ」は、いずれも、外部自然との接触を契機として、不分明な内部世界に構造的秩序を生成させること、すなわち「龍を描く」で述べられる「自己内部の極星を中心に整然たるシステムを成すもの」を顕現させることを表明している。このように、一穂の方法意識が作品の中核的イメージとして具体化されていることは、彼の詩と試論篇のいずれもが共通のビジョンに導かれたものであることを明示しているように考えられる。
 では、その共通のビジョンとは、どのようなものであるのか。それは芸術の秘密の解明であり、さらにその秘密を体現しながら開示する作品の創造であると考えてよいだろう。試論編のどの文章を見ても、一穂が一貫してこの問題に取り組んでいたことがわかる。そのような例の一つとして、『黒潮回帰』の「半眼微笑」に次のような箇所がある。
 
 佛顔は生理的に不可能な表情を、つまり半眼と微笑の相反する二つの筋肉運動を、彫刻としての面の上で、この矛盾を止揚して一個の「藝術」と化したのである。
               (『全集』第二巻、44頁)

佛顔の表情のありがたさの秘密を解明するこのような一穂の視点は、次のように「龍を描く」の文脈に置き換えることができるだろう。すなわち、佛顔の半眼と微笑の共存は「自然には在り得べからざるもの」であるが、「自己内部の極星を中心に整然たるシステムを成すもの」として外化されることによって出現した表象なのだということである。
 さて、このように試論篇のあれこれに浸透している一穂の方法意識の目指すビジョンがどれほど明快な形で表現されているとしても、それを作品において具体的に達成する過程がそれとはまったく別の次元に属するものであることはいうまでもないことだろう。一穂が推敲と改稿を繰り返したのは、彼がその達成に向かう過程の辛苦を真っ向から引き受けていたことに伴う当然のことだったのではないだろうか。次に引く言葉にそれが明らかに示されている。『古代緑地』のなかの「ZENON」の一部である。

  ……考えるとは一語一語、躓くことである。言葉によって存在を抽象し、平均化された現實體系の習 慣的文法の思惟形式と抵抗しながら、その論理を破る一つの表現として、新たな意味の存在系を組織する、就中、意志的な詩の創造活動だからである。      (『全集』第二巻、93頁)

語彙の衣装は異なっていても、ここにも「龍を描く」や「半眼微笑」に見られた方法意識が貫かれている。これも「龍を描く」の文脈にそって考えてみれば、「考えるとは一語一語、躓くことである」という言葉は、いわば内部自然というキャンバスに「極星を中心に整然たるシステムを」描く行為が如何に精緻な作業であり、遅々たる歩みを強いるものであるかということを意味している、と読むことができるであろう。また、「言葉によって存在を抽象し、平均化された現實體系の習慣的文法の思惟形式と抵抗しながら、その論理を破る一つの表現として、新たな意味の存在系を組織する」という言葉は、「龍を描く」で明示された「藝術となる『行』の秘密は、そのデェモニッシュな内部混沌、力の原理としての矛盾を、現實との觸發に於いて、生の方向へ組織づける、強度な否定にある」とする言葉と、弁証法的な姿勢において一致していると考えられるのである。
 このように考えてくると、一穂が詩集の刊行毎にさまざまなレベルにおいて改稿を反復したことは、自分自身の詩の原理に即応する行為であった。




  5 詩集あるいは意図テクスト

 一穂は、自分の詩が芸術の原理を体現することを強く求めた。その意志は決して一篇の作品の完成で停止するものではなかった。彼が詩集を構成するさまざまなレベルで推敲と改稿を反復したのは、この意志のあらわれであるとみなすことができるであろう。『全集』には、各々が小宇宙を成している単行詩集が、次の詩集に吸収されながら、新たな小宇宙として再生していく変貌の過程が記録されているが、そのことが一穂の推敲の形を固有のものにしているのである。
 さて、個々の異本は最終的異本として理想的モデル(意図テクスト)に一致するまで推敲を重ねられるという趣旨のことをロトマンが述べたが、それは作品のレベルでのことであった。それに対し、詩集全体のレベルで推敲を繰り返したといえる一穂は、詩集全体を対象とする意図テクストの感覚を持っていたのではないだろうか。つまり、彼は自分の詩の原理が外化された理想的モデルとしての詩集、すなわち一巻の理想の詩集を完成させようとしていたのではないだろうか。ただ現実には、『吉田一穂詩集』(創元社)の発行後も、一穂は『詩篇拾遺』としてまとめられた作品を書き続けていたわけだから、最終的異本としての理想の詩集は未完に終わったということになる。しかし、彼の方法意識のなかでは意図テクストとしての詩集は明確な理念として存在していたに違いない。それは、作品の場合と共通の構造を持ち、「龍を描く」の文脈で言えば、「自己内部の極星を中心に整然たるシステムを成すもの」だったと考えられる。


  (この小論は、平成七年六月に北海道千歳市で開催された日本現代英米詩協会のシンポージアム「北海道の詩人と作家」での発表に手を加えたものである。また、吉田一穂の作品の引用は小沢書店版の『定本 吉田一穂全集』によるが、この稿では詩行に付けられていたルビはすべて割愛した。)